第3話
「あら、今日はコロッケなの?」
台所を新じゃがで占拠していたわたしは、背後からかかった声にゆっくりと顔をあげた。
わたしに良く似た平均的な日本人の顔をしたお母さんは、仕事帰りかと思われるスーツを着たまま冷蔵庫の麦茶を飲んでいる。
「稜介からのリクエスト」
「ああ、稜介君は小夜子のコロッケ好きだものね」
昨日作ったばかりの麦茶はもう半分以上消費されてしまった。新しいストックを作っておこないと、風呂上がりの一杯の行方が怪しくなりそう。
お母さんは手先が絶望的に不器用なので、藤倉家のご飯はわたしの腕にかかっている。部活帰りに食材を買って帰るのは結構大変だけど、これも体力作りの一環だと思えば。
「そういえば今年もインターハイ出場だって? 毎回地区大会も突破出来ない誰かさんとは違うわよね」
「今年は勝つよ、今練習頑張っているんだから」
お母さんは昔から稜介の肩を持つ。どうして素直に血の繋がった娘を応援出来ないんだろう。
「はいはい、無駄な努力にならないように祈ってるわね。今日は一さん帰らないみたいだから、ご飯は4人分でいいわよ」
「お父さんまた仕事? じゃあわたしとお母さん、稜介に…あれ健太郎は?」
わたしは弟の不在に気がついて眉を顰める。中学3年生、受験を控えた弟は早々に部活も終わり、灰色の猛勉強付け生活真最中だ。
「図書館寄ってくるってさ。じゃああたしも仕事があるから、ご飯が出来たら呼んでね」
そう言って2階の自室へ消える母は広告代理店で働いている。いつも山程の書類を抱えているから、仕事は多分忙しいんだろうな。うちは昔から両親共働きで、それぞれとても仕事熱心。そしてみんなマイペースで我が道を行くって感じかな。
そんな事を考えながら、蒸かしたじゃがいもを潰して炒めた挽肉と野菜と混ぜる。食欲をそそる匂いを丸く形作れば特製コロッケのタネが完成。食べ盛りの健太郎が文句を言いそうなので、心持ち大きめの力作だ。
簡単に後片付けをしてお風呂を沸かすと、そろそろ彼が予告した時刻に近づいていた。
大きめの鍋に油を注いで火をつける。じりじりと揚げ時の温度まで上昇するそれを見て、卵を溶かしてタネに衣を着せていく。聞き慣れたインターフォンが鳴ったのはそのときだった。
「ただいま小夜子」
あろうことか我が家の鍵を持っている稜介は、まるで自分の家はここだと言わんばかりに爽やかな帰宅をしてくれる。
「お帰り、お疲れ様……あ、健太郎も一緒だったんだ」
稜介の後ろからひょっこりと現れた弟は、重たそうな参考書を抱えてテーブルへと辿り着いた。
「ただいま。ああ勉強のし過ぎでマジ疲れた、ご飯まだぁ」
「こら、まずは手を洗ってきなさい」
どういうわけか、弟は平凡なわたしと違って稜介属性を持っている。つまりやたらと無駄に整った容姿を持っていて、短く刈った黒髪にきりっとした目が映える美少年なのだ。ただし学業成績は本家にかなり劣っている。
のろのろと洗面所へと向かう弟を見送ると、制服のブレザーを脱いだ稜介が台所のコロッケを見ていた。
「本当に作ってくれたんだ」
明らかにテンションの上がった彼を見て、そりゃ人に喜んで貰えればわたしだって悪い気はしない。
「うん、あと揚げるだけだからもうすぐ出来るよ」
「ありがとう、小夜子も疲れてるのに嬉しいよ」
不意打ちって言葉はこのためにあるのかもしれない。稜介があんまり底なしに嬉しそうに笑うから、わたしは柄にもなく一瞬ドキリとした。いつもいつも見ていた顔が、こんなに綺麗だって事はとっくに知っていたのに。そしてそれがよくなかったのか、動揺したわたしは鍋の取っ手に腕をぶつけてしまったのだ。
液体の入った鍋は衝撃に弱かった。バランスを崩したそれは、まるでスローモーションのようにわたしに向かって中の油を浴びせてくる。心臓が凍るように息が止まり、逃げなきゃいけないと理性がわかっているのに身体が動いてくれない。閉じられた瞼の裏で、熱した油が人体にどんな影響を与えるのかなんてわかりきった結果だけが恐怖を煽る。
バシャン、とバケツをひっくり返したような水音がしたのは次の瞬間の事。わたしは腰から下に冷たさを感じて恐る恐る目を開いた。
――熱くない。というより冷たい。
あまりの火傷で神経がおかしくなってしまったのかしら?自分のエプロンを見下ろせば、しっかりと濡れたスカートと靴下が目に入った。肌も別に爛れてはいない。
「小夜子」
呆れを含んだ声を出す稜介は、空になった鍋を抱えていた。
「大丈夫? 小夜子の料理は美味しいけど、おっちょこちょいなのは困るな」
「え……あれ?」
な、何が起こったの?
「幸い火にかけてない水だったからいいけど。これが油だったら大火傷だからね、気をつけて」
「水……?」
何で鍋の中が水なの? わたしは油を注いで火にかけた。間違いない、だって稜介が帰宅する時間に合わせてコロッケを揚げようと準備していたんだから。
でも私に実際かかったのは水。これも相違ない、冷たいだけでちっとも熱くなんてないんだから。
「嘘でしょ、だってわたし油を――」
慌てて先程使った油のボトルを覗き込むと、中身は確かに油、ではなくて。
「水だ……」
そう、水。愛用のメーカーの使いなれたボトルには並々と水が入っていた。
何で? 何で水がこの中に入っているの? 我が家で料理をするのはわたしだけだし、わたしは油の容器に水を詰める趣味もないし、ましてやコロッケを茹でるという新料理法を確立したいわけでもないのに。
「おかしい稜介、これ怪奇現象だよ……うちに油を水に変える悪霊が住みついたんだ」
不意にこないだ家族で見た実録怪奇悪霊特集が頭をよぎり、思わず稜介の腕にしがみ付く。わたしは昔からその手の物が大の苦手なのだ。
「小夜子、やっぱり疲れてるんだね。とりあえず先にシャワー浴びてきなよ、制服も乾かさないと」
あきらかにわたしの言葉を信用していないを稜介は、逆にわたしの腕を引っ張ると無理矢理洗面所へと押し込んだ。手洗いと着替えを済ませた健太郎が驚いたように入れ替わり、さっさとタオルまで渡される。
「ちょ、ちょっと!」
「コロッケは僕が揚げておくよ、ごゆっくりね」
有無を許さない強引さで扉を閉められ、わたしは濡れたエプロン片手にお風呂場で茫然と立ち尽くした。