第20話
家を出てから、ずっと僕らは無言だった。部活の友人に欠席のメールを送って、道を歩く彼女の後を追う。つかず離れずの距離を保ったまま、小夜子は一度も振り返らない。
何度もこのときを想像していたせいなのだろうか、僕は自分でも意外な程落ち着いていた。朝の眩しい日差しを受けながら、見慣れた通学路を歩く。住宅街の覚えのある景色から、彼女が何処へ向かっているのかがわかった。
数歩先で長いポニーテールが右へ左へと揺れている。振り子のように目を奪われるそれが、くるりと回って小夜子に変わる。
「デートの場所にはあんまりそぐわないんだけどさ」
何度も何度も2人でやってきた河原。僕達の遊び場でもあり、小夜子の正体を告げた場所でもあり、そしてこれから僕の運命が決まる場所だ。
「やっぱり、全部話すにはここがぴったりでしょ?」
確かに、これ以上にない縁がこの河原にはある。
白い砂利の敷き詰められた岸辺に辿りつくと、光を反射した水面がゆらゆらと揺れていた。早朝の空気は暑さもそれほどでもなく、至って清々しい。僕らのほかに人陰はなく、ときたま遠くで魚の撥ねる水音が聞こえる。小夜子は何をするでもなく辺りを一歩一歩と歩きまわっては、ぼんやりと周りの景色を見ていた。
「いつから僕の正体に気がついてたの? 誰かから聞いた?」
「うーんいつかなぁ。わたしが自分の正体を知った後だから、最近と言えば最近だし。でも結構前から疑ってたって言えばそれもそうだし」
ぽつりと独白して、こちらへと顔を向ける。
「経緯を教えてよ」
僕の問いに、小夜子はちょっと困ったような表情を浮かべた。
「一言で表すとね、胡散臭かったの」
「誰が?」
「稜介が」
身も蓋もない一言だ。そんな第六感で僕の正体まで辿りつけるとは思わない。小夜子は再びうーんと唸りながら口を開いた。
「わたしの力って、頭痛と引き換えに都合のよい現象を引き起こしてくれる一見よくわからないものじゃない。要するに自分では制御出来ない、ランダムで、しかも何が起こるかわからない力」
「まぁそうだね」
「だからおかしいの。そもそもどうして稜介がわたしの正体を告げたとき、わたしはどうしてクマ吉を空中で停止させる事が出来たのか。だっていつ発現するかわからない力なのに、稜介の話のときに都合良く力を使えたのって変でしょう?」
そう言って、小夜子は持っていたスポーツバッグから愛用の硬式テニスボールを取り出した。それを僕の目の前で、何の気なしにぽろんと放り投げる。
当然ボールは宙を回転して、あっさりと川面にダイブした。とは言えこの川の水位はないに等しい。小さな波紋が広がっただけで、ボールは流される事なく反対側の岸へと転がった。
「だからこれはさ、稜介が何らかの力でやってくれたと思うんだよね」
「それだけ? ちょっと無理のあるこじつけじゃないか」
「そうね。だから小学校へ行ってきたんだ」
濡れたボールを回収して、小夜子は再びバッグをあさり始めた。そして手元に現れたのは小さなメモ帳。
「覚えてるかな? 昔稜介っていつも図書館に入り浸っていたじゃない。司書の人と話して、特別に教員用の閲覧図書のある部屋にも入室してた。所謂持ち出し不可の本よね。わたしが気になって何の本を読んでいるのか聞いても、絶対教えてくれなかった」
小学校。図書室。随分前の事のように感じるが、その言葉には覚えがあった。確かに頻繁に通ってはいたからだ。
「それがどうしたの」
「えーと閲覧のみの専門書は『相対性理論』『生命工学の神秘』『基礎宇宙概論』『地球外生命体への探求』『ビッグバン理論』、それに一般図書からは『宇宙人の秘密』『サイエンス・コスモ』『スペースシャトルの構造』『宇宙の彼方へ』、ついでにリクエスト書籍で『生命の起源と宇宙』『未知との遭遇』『科学技術の発展とこれから』、などなど他多数」
のんびりと告げる小夜子の口調に一瞬耳を疑った。彼女の口から流れ出たのは、かつて僕が読み、そして調べてきた本の数々。
「……どうして」
「大変だったのよ、貸出カードを全部調べるのは。けどこんなマイナーな本は稜介以外に未だに借りている人がいないから、ばっちり名前が残ってた。専門書は速水さんの記憶に残っていたラインナップと、稜介からのリクエスト用紙で確認が出来たもの。こんな本を読む小学生は他にいないから、珍しくて覚えててくれたんだって」
そう言って僕に手渡されたメモ帳には、先程の書籍の名前がずらりと書き込まれていた。
「貸出を電子カードで管理している中学高校は無理だったけど、小学校はまだ手作業で管理していたから十分調べられたよ」
貸出カード。そういえばそんなものを昔は使っていた気がする。だから小夜子はわざわざ管理の甘い小学校へ出向いたのか。
正直これには驚いた。彼女がこんな行動に出るとは夢にも思っていなかったからだ。
「どうしてこんな本を読んでたの?」
当然の質問。小夜子の表情は穏やかだ。
「興味があっただけだよ」
「じゃあわたしに教えてくれなかったのは?」
「たまたまじゃない」
「嘘」
けれどその声は確信に満ちている。
「稜介はね、都合の悪い事はわたしの耳に入れないようにしてるんだ。だから片桐部長の件だって絶対にはぐらかして言わなかったでしょ?それにわたしにはね、稜介が昔ここで溺れたわたしを助けてくれたっていう記憶もあるのよ。これも稜介とお母さんに否定にされたけど」
覚悟はしていた。もう誤魔化しはきかないんだろうなと。そして何より、僕の秘密を知る2人の名前が小夜子から出てきたのだ。
「どこまで2人に聞いたの?」
「先に2人の名誉のために誓っておくけど、わたしから聞いたんだからね。2人とも、自分からは絶対話さなかったよ」
彼女達を責める気にはなれないし、僕にはその資格もない。いつかは言わなければならなかった。そしてそれから逃げていたのは他ならぬ自分自身。
「全部聞いた。だから寿命の事もね、故郷へ帰る事も知ってるよ」
こうして全ての代償が今やってきたのだ。大切な女の子に、何もかもを知られて。
「ねぇ稜介、結局自分はどうしたいの? おじさま達の所へ帰りたいの? それともわたしのそばにいてくれるの?」
小夜子はもう全てを決めるつもりでいるのだろう。本題を突き付けられて、僕は目を閉じて息を吐く。
脳裏に浮かぶのは、いつだって小夜子の顔だ。こんなに毎日隣にいたのだ。笑って、泣いて、怒って、出会ったときから彼女の全てを知っている。
全てを心のままに。煩わしい問題を捨て置いて、両親を裏切って、ほんのひと時の幸せのために君を選べるものならば。
「小夜子を」
選びたい。
「そっか、じゃあこのパネル……通信機は邪魔だよね」
気がつけば小夜子は赤く光ったままのパネルを手に立っていた。既に音は鳴りやんでいるが、光は急かすように点滅を繰り返している。
「捨てちゃおっか。そうすれば少なくともこの選択で悩む必要はないんだよ。わたしが、間違って川に流しちゃうの。きっと機械なんだから水には弱いでしょ。だから稜介は仕方なく両親との連絡がとれなくなって帰れない」
一瞬彼女が何を言っているのかわからなかった。そしてその刹那、小夜子の腕が動く。
瞬きの合間のはずなのに、ゆっくり、ゆっくりと。スローモーションのように彼女の手からパネルが放れる。宙を舞うように下降して、四角い身体がくるくると回っていた。ぼんやり、赤い風車のようだと思う。何かを訴えかけるかのように光るその軌跡。
――これで本当にいいんだろうか?
川面に落ちる寸前で、僕の心に走る感情。間に合うわけがないのに伸ばされた腕。安堵の裏の矛盾する心と、胸を締め付けるどうしようもない後悔。
そして掴めなかったはずなのに、水面の上でぴたりと停止したそれ。
「ほらね、捨てられない」
背後から小夜子の声がする。振り返ってみれば、頭を押さえながら彼女は微笑んでいた。
「帰りたいんでしょ、稜介」
※
「一か八かだったんだけど、よかったよかった」
痛む頭をさすって、小夜子は素早くパネルを片手で宙から拾い上げた。
「さすが奇跡を呼ぶ力ね。きっとこのためにわたしの力って目覚めたのよ」
満足げに頷いて、僕の両手にそれを押しつける。冷たいパネルのボディが、汗をかいていた腕には心地よい。
小夜子はその場に座り込んで、岸辺で茫然としている僕を見ていた。白い腕が僕を手招く。
「選べないんだよね。わたしも稜介のおじさまもおばさまも、どっちも大切で。だって比べられるようなものじゃないから。わたしだって稜介の立場なら選べない」
隣に腰掛けると、右肩に小夜子が頭を乗せてきた。唐突に家を出てきてしまったので、何も頭を冷やせるようなものを持っていない。仕方なく片手で髪を撫でると、小夜子は僕の腕を掴んだ。そのまま頭のてっぺんにその腕を置く。
「だからごめんね、ずっと一人で悩ませて」
「僕も、嘘をついていてごめん」
臆病で、どうしようもなく身勝手で、でも君が大切だった。
「いいよ。もう十分苦しんだでしょ? それより知りたい事が2つあるの」
どんなに重大な事でも、さらりと受け入れて流してしまえるのは小夜子の強さだ。昔から決して変わらない。
ああ、だからこんなに惹かれてしまったんだろうか。取り返しのつかないくらいに。
「1つめは稜介の力。一体何が出来るの?」
「健太郎の好きなアニメの主人公並、って言えばわかる?」
けれど人間として生活していく上で、極力そんな力は使わない。力については最後まで曖昧なままで終わらせたかった。実際僕達は念じるだけで色んな現象を引き起こせるらしいけれど、そんな力を使ったのは溺れる小夜子を助けたときと、彼女の説得のためにクマ吉を空中で止めた事くらいだ。両親からそれとなく聞いていただけなので、だから正直詳しく聞かれても答えようがない。
「わたしも別に知りたいわけじゃないの。言いたくないなら聞かない。でもただちょっと、そんな事が出来るなら後で一つ協力して欲しい事はあるかな」
「協力?」
「うん、お世話になった人がいるからね。あとはこのパネル。通信ってどれくらいでそっちの星まで届くの?」
小夜子は僕の片手にあるパネルを指でつついた。先程の扱いに抗議するかのよう、パネルは一層激しく点滅している。
「君達の機械よりさらにずっと早いよ。一度場所が特定出来たところなら、ほとんど時間差はないんじゃないかな。この通信を許可すれば、じきにこの太陽系を巡回している救助船がやってきて、後はゆっくり故郷まで帰るんだ」
実際両親の帰還の際はパネルが光って三日後には救助船がやってきた。今この通信を承諾すれば、僕もそれくらいには地球を旅立たなくてはならないのだ。
「じゃあおじさま達と連絡自体はすぐにとれるの?」
「いや、これはあくまでメインは巡視船と繋がっているから。両親はもう帰還しているだろうし、僕の星まで通信を広げたら、そりゃ届くには届くだろうけど少し時間はかかるよ」
ややこしい話には違いない。小夜子はそうと呟いて、頭の上にある僕の腕を掴んだ。
「ねぇ、よく考えて。稜介にはこれから無限に等しい時間があるんだよ。わたしと一緒にいられる時間なんて、長い人生のほんの一瞬かもしれない」
触れたところから熱が生まれる。彼女の心臓の鼓動が、血液の流れが、穏やかな呼吸の音が、お互いを通して全身に感じられる。
「今はさ、こうして隣にいるから実感わかないのかもしれないけど。地球で育ったから、頭の中も妙なヒューマニズムに毒されて感覚が鈍っているのかもよ。本来なら稜介達は永遠なんて概念すら考えない生き物かもしれないでしょ? だから今の感情は一時の気の迷い、若さゆえの過ち、若気の至り」
「小夜子はたまに残酷な事を言うね」
「うん、わたしもそう思う」
「じゃあ僕も言っておこうか」
この温もりを離しがたくて、僕は彼女の両肩を後ろから抱きしめた。
「本当は選べないわけじゃないんだ。あのパネルが光ったとき、真っ先に思い浮かんだのは小夜子の顔だった」
その身体のあまりの小ささに、少し泣いてしまいそうな気分になる。
「けど両親を裏切って君を選ぶ僕を、小夜子は許してくれた?何より家族を大切にしている小夜子が、そんな事をする僕を受け入れてくれた?」
そのとき、小夜子は意外そうな顔をして僕を振り返った。見開かれた瞳が少しだけ動揺に震えている。それから数秒視線を逸らして、観念したかのように溜息を吐く。
「わたし達、お互い分かりあい過ぎてるね」
そう、僕達の距離は近い。お互いが何を考えていたのか、こうしてわかってしまう程に。
そっと腕を解かれて、小夜子は立ち上がった。そしてそのまま川の端まで歩いていき、ジャージの袖をまくってその場にしゃがみ込む。
暫くがしゃがしゃと水面を叩く音がしたかと思うと、不意に小夜子が再び僕を手招いた。その右腕に握られているのは、小さな川底の石。
「じゃーん! 発見しちゃった。水色の石」
僕の掌の上に乗せられたそれは、確かに青空をそのまま閉じ込めたかのような澄んだ色をしていた。形は丸っこくて、親指の爪程の大きさしかない。
「昔2人で探しにきたの、覚えてる? 持ち主のお願い事を一回だけ叶えてくれるんだって」
「あったね、そんな事」
あの時は何度探しても見つからなかった。そして今も昔も、僕の願いは変わらない。
「ミカちゃんみたいに延命薬なんて開発出来ないけどさ」
こんな子供染みたものを信じてはいなかった。けれど目の前の小夜子があまりに嬉しそうに笑っているから。
僕は頼りない小さな石ころを固く握りしめた。
「わたしの考え。聞いてくれる?」
※
気がつけば既に日は高く、セミの声が揚々と鳴り響いていた。早朝の空気から一変して辺りはじりじりと蒸し暑く、天気だけは絶好の晴天だ。
河原を後に住宅街を歩いていると、周囲の家庭が一日の生活を始めるかのごとく活気づいていた。朝食の匂いに、子供の声、すれ違う近所の人々。多くの人にとってのありふれた日常は、こんなにすぐそばにある。ジョギングに精を出す青年を見送った後、僕は小夜子の腕をとった。
「手、繋ごうか」
返事を待たずに手を握ると、小夜子はそっと指を絡めてきた。
「稜介、真夏なのに冷たいよ」
「小夜子は温かいね」
汗で冷たくなった指先を、彼女のそれが優しく包む。
「温めてあげようか」
そう言って、彼女は僕の顔に唇を寄せてきた。赤く色づいた柔らかな口元が、ふわりと頬と触れあう。綿に撫でられたかのようなほのかな感触。
「どう?」
「どうって」
一瞬のかすめるようなキス。小夜子は少しだけ赤い顔をしていた。
「ドキドキして身体も温まると思ったんだけどな。わたしは緊張で冷たくなっちゃったよ」
「そっか、じゃあ今度は僕の番だね」
返答に開きかけた彼女の口を塞ぐ。頬に、額に、鼻先に。それからもう一度唇に。
軽く啄ばむ様な口づけで、最後にほんの少しだけ深く、優しい吐息を込めて言葉を奪う。
「……どうして何回もするの」
「慰謝料。初めては僕からって決めてたのに、小夜子がフライングするから悪いんだよ」
僕がそう答えると、てっきりもっと真っ赤になってあたふたするだろうと思っていたのに、小夜子は神妙に頷いただけだった。
「もっと動揺するかと思ってたのに」
「心のメモ帳をレポート用紙に変えておいたから、心構えが違うの。それにね」
繋がれた手に力を込めて、彼女はとびきりの眩しい笑顔で僕を見る。
「わたしだって一番を譲るつもりなんてなかったよ」
いつだって君に許されて、救われてきたんだ。
たとえこの先どんな未来が待っていても、君を好きになってよかったと思うよ。