第19話
チーズトーストに目玉焼き、それにトマトサラダとヨーグルト。
典型的な朝のメニューが並べられた食卓へ向かうと、健太郎が一人パンを頬張っていた。白いワイシャツの制服姿で、椅子の足元には学生鞄が置いてある。
「おはよう健太郎。休みなのに学校へ行くの?」
朝の6時。平日ならともかく、休日に活動するにはまだ早い時間帯だ。特に寝坊の多い健太郎には。
向かいの席に座ると、案の定彼はやや眠そうな顔をして卵の黄身を箸でつまんでいた。
「土曜補習。自由参加だけど、一応」
「他のみんなは?」
「父さんは仕事で、母さんはまだ寝てる。姉ちゃんは多分部活かな、朝起きたらご飯だけ作ってあった」
目の前の朝食は食欲をくすぐる匂いを漂わせているが、既に冷めきっていた。固まってしまったチーズトーストを一切れ齧ると、口の中に塊がごろりと転がる。食べられない事はないが、もう一度温めなおした方が良さそうだ。
僕も部活の自主練習はあるが、それだってまだ時間に余裕がある。朝早くから小夜子は何をしているんだろう。テニス部の朝練がこんなに早いとは思えない。
彼女の愛用しているトースターのスイッチを入れると、健太郎は思い立ったようにテレビのリモコンを掴んだ。
『では続いて朝の占いコーナーだぴょん!』
その途端画面に映っていたのはウサギによく似た妙なキャラクターだった。全身が真っピンクで、目が異様に大きい。睫毛にはマッチ棒が3本は乗るのではないだろうか。ぱっと見は可愛らしい外見なのだが、無駄にハイテンションな高い声は耳に痛い。が、健太郎にとっては違うらしい。目をきらきらさせて、テレビを食い入るように見つめている。
「今日からうさピーの星座占いが始まるんだ」
僕から見て、これはどう見ても幼児向けのウサギキャラだ。個人の趣味に口を挟むつもりはないが、健太郎の守備範囲の広さには脱帽せざるを得ない。
「だってビビンジャーのミカ役の人と声優が同じだからさ、ファンとしてはチェックしないと」
そこにはきっと、彼にしか分からない深い世界があるのだろう。何も言うまい。テレビの中の謎のウサギは、四角い枠内の中を忙しく駆けずりまわっては不思議な鳴き声を発している。
『早速今日の一位はクレイジーな獅子座のアナタだぴょん! なんたって恋愛運が赤丸急上昇、絶好の告白日和になるぴょんよ。今までの思いの丈をうざいくらい熱く語って、強引に押して押して一歩も引かずに突っ込みまくるぴょん。アナタのペースに巻き込めば確変、フィーバー、ユートピア! おまけにそれきたワールドイズマイン、全てはこちらのものだぴょん! 恋人がいる方ならお互いの関係がより深まるよう、馴染みの場所へのお出かけもお勧めだぴょん』
聞き取りがたいが、とてもお子様向けとは思えない内容だ。そしてこのウサギは派手な言葉がお好みらしい。
『そんな獅子座さんのラッキーアイテムはずばりレポート用紙。用途は問わないぴょん、持っているだけでもきっとエキサイティング! 良い事あるぴょんね!』
「おお、今日は獅子座の時代だな!」
該当者である健太郎は嬉しそうに手を叩いた。
「でも強引にか、メールだけでなくて電話もしろって事かな」
「レポート用紙はどうするの?」
「うーん……論文でも書く?」
有難くないアドバイスに悩んでいると、ウサギは次々に下位の星座達の占いを語り出した。段々と順位が下がっていくせいか、次第に口調が辛辣なものに変わってくる。これは本当に誰を対象にした占いなのか。
『そして本日の最下位は……ブルーな蟹座のアナタだぴょん。オーマイガッ! 今まで隠してきた事が思いも寄らない相手に全部知られて、大切なものを失ってしまいそうぴょん。スキャンダル、アクシデント、これぞ負け犬、人生こんなはずじゃなかった!』
「兄ちゃん、残念だったな」
健太郎が憐みの目を向けてくる。ウサギの微笑みもとても邪悪だ。
『特に注意すべきなのは身近な人だぴょん。アナタの予想を遥に超えた、とんでもない事をしでかしてくれるかもしれないぴょん。それに恋人には一日振りまわされる予感大で、覚悟が必要ぴょん。もしかしたら失恋!? ハートブレイク、アンビリーバボー、他人の不幸は蜜の味!』
余計なお世話だが、よくもここまで言ってくれるものだ。むしろ感心して見ていると、ウサギは疲れてきたのかおざなりに最後の台詞を口にする。
『そんな蟹座さんのラッキーカラーは水色。同色の小物などを持ち歩いていれば、思わぬ出来事を回避してくれるかもしれないぴょん。ま、最下位なのであくまで気休めだぴょん。君の面倒を見てやる程うさピーは暇じゃないし、人生ってのは何時だって上手くいかないものさ。そしてそれを楽しめてこそ、人生ってものを語る資格が得られるってのは名言だね。じゃあばいぴょーん』
空々しい助言を残して、ウサギは唐突にテレビから姿を消していった。これから朝の占いはこの失礼極まりないウサギの12通りの判断を仰ぐことになるのだろうか。
「これ持ってく?」
どこまでも占いに左右されやすい健太郎は、水色のハンカチを差し出してきた。
「いや、いいよ。ありがとね」
丁重にお断りしたのは、何も占いを信じていなかったせいだけではない。
ごめん健太郎。いくらなんでも、全面にビビンジャーの描かれたハンカチは遠慮したい。
※
朝食を終えて自分の家に戻ると、とりあえず溜まっていた洗濯物を片づける事にした。一人暮らし洗濯は週末まとめてやるのがセオリーだと思う。一日では大した事のない量も、一週間分となると結構なものになる。
洗剤と一緒にシャツ類を洗濯機に放り込む。規則的に音を立てて、丸いドラムが回り出した。僕以外の人間がいない空間に、乾いた回転音が鳴り響く。
父と母が故郷へ帰って以来、この家はとても静かだった。それでも寂しいなどと思った事は一度もない。常に隣には藤倉家の面々がいてくれたし、何より小夜子がいてくれればそれでよかった。自分でも呆れてしまうけど、僕は本当に彼女が大切らしい。父の忠告を無視したつけがこうして回ってきているというのに、それでも最後の選択を出来ない僕がいる。
悩んで、迷って、苦しんで。何て滑稽なんだろう。この心だけはまさに人間の弱さに限りなく近いというのに。
自室に戻り制服に着替え、鏡に映った自分を見た。滅多にならないインターフォンが鳴ったのはそのときだった。
「おはよう稜介」
「小夜子?」
玄関から顔を出していた彼女は、見慣れたテニス部の白いジャージを着ていた。片手にラケットケースを持っているところからして、おそらく部活に行っていたのだろう。
「朝一で自主練してきたの。昨日部活休んだから遥がお冠で」
「後輩から聞いたんだけど、昨日どうして休んでたの?」
「んー、ちょっと小学校へ行ってたんだ」
「小学校?」
今更何故そんな所へ?
スポーツバッグからペットボトルを取り出して、小夜子はそれを一口飲み込んだ。
「そう、司書の速水さん覚えてる? あの人のいいおじいちゃん。まだ現役みたいで元気だったよ、稜介の事も覚えてた」
「それで、何をしに行ったの?」
「目的を聞かれると困るんだけど……えーっと、あれ? 何か変な音がしない?」
ふと、洗濯機の音に混じってかすかな電子音が聞こえた。水の撥ねる音、布地の折り重なる音、そして合間に少し低めの機械的なか細い音。
これは。
「何の音?」
不思議がる小夜子をおいて、僕は自室のドアへと走り出した。
心臓の音がうるさい。鼓膜を破らんばかりに鼓動が鳴り響き、目の奥がじりじりと痛い。指先が冷たく、裸足の裏には床の感触がない。身体もやたらと重い。足を一歩踏み出す数秒が倍近く感じられて、自分が本当に身体をコントロール出来ているのか、それすらも判断できなかった。自分が今どんな顔をしているかもわからない。
どうして、どうして今なんだ。
いや、もう十分に猶予はあった。それに甘えて、ずるずると彼女の優しさを求めていたのは他ならぬ自分だ。
あと少し、ほんの少し。先延ばしにしていた未来がすぐそこに迫っている。
部屋のドアを勢いよく開けば、電子音はますますその存在感をアピールするかのごとく、ボリュームを上げてきた。
ベッドサイド、枕元のそば。真っ暗な画面を持つはずのそれが、赤い光を放っている。故郷からの救難信号を感知した際のサイン。光るパネルに、それを告げるこの着信音。
全てがあの日、両親が帰ったときと全く同じだった。サイドボードの父と母が僕をじっと見つめている。
『必ず故郷へ帰ってくるんだよ』
『私達は、ずっと貴方を待っているわ』
「稜介」
気がつけば隣には小夜子がいた。冷え切った手を、彼女が両手に握っている。
部屋中に響く音を無視して、小夜子は両親の写真をまっすぐに見ていた。
「おじさまとおばさま。お久しぶりです」
返事などあるわけがない。それでも小夜子はどこか懐かしそうに語りかけて、僕の腕を外へと引っ張った。
「ちょっと息子さんをお借りしていいですか。大丈夫、ほんの少しですから。それにわたしは、貴方達から稜介を取り上げるつもりはありません」
小夜子は僕の顔を見る事はしなかった。腕を捻って背中ごしに僕を引きよせて、そのまま玄関へと歩き出す。
「稜介、今からちょっと付き合ってよ。デートしよう」
あくまで普段通りで、散歩にでも誘うような陽気な声。ともすれば聞き流してしまいそうな程いつも通りの口調。
「断ったりしたら周りの人に言っちゃうからね。稜介は宇宙人なんですって」