第18話
小夜子は言葉を覚えるのが早かった。あれだけ熱心に聞いてきたのだから当然かもしれないけれど、出会ってから半年もせず不自由なく会話していたと思う。赤ん坊だった健太郎はそもそも現地の言葉が記憶にないので問題ないし、主にビュータを使用していたのはマヤさんと一さんだ。
そしてその2人も数年でかなりのレベルに達してしまったものだから、ビュータの使用機会は年々減少し……僕と小夜子の玩具になった。
「で、これは結局何なの? 便利な翻訳機器?」
久しぶりに見るそれ、小夜子の掌の上に乗せられた黒く小さな箱は、その蓋を閉じたまま沈黙を守っている。
再び藤倉家のリビングへ集合すると、一番遅く帰ってきたらしい一さんが夕飯を食べていた。普段なら家族揃ってダイニングテーブルで雑談している時間だが、それ以外の面々は少し離れたソファに座っている。マヤさんの視線はビュータに釘づけだ。
「このビュータを単一機能モデルと一緒にしないで欲しいわね。これは正式にはマザ・ビュータと言って、宇宙空間へ向けて電波を送受信出来る機械なの」
「マザ?」
「そう。マザって一族の人が考えだしたもので、とにかく大発明だったんだから」
ビュータの外観は指輪のケースにそっくりなのだが、蓋を開くと小さなチップのようなものが2枚、厳重に布に巻かれて保管されている。爪の先程の大きさで、板ガム並みの厚さしかない。
「それって凄いものなの?」
いまいちピンとこないのか、マヤさんの隣に座る小夜子は首を傾げている。健太郎だけは床に転がって携帯をいじっては、そのやりとりをちらちらと眺めていた。
「当たり前じゃない。電波光波っていうものはね、基本的に発生状態のまま波長に微動の変化なく、永遠に宇宙空間に伝播されていくものなのよ。もちろん距離に応じて減衰していくけれど、衛星から外宇宙へ流せば、それこそずっと微弱ながらも拡散されるわ。ビュータの凄い所はどんなに弱い電波でも受信解析出来るし、その送信した電波光波速度を調節したり、ある程度なら一定の場所に電波を留まらせたりする事が出来る点よ。つまり――」
「お母さん、わかんないよ。もっと分かりやすく言って」
熱弁を奮うマヤさんを前に、小夜子は頭を抱えている。一さんは食べ終えた食器を流しへ運びながら、そんな2人を見て苦笑していた。
「つまり、これは遠く離れた星へメッセージを伝えられる送信機でもあり、またそれをキャッチする受信機でもあるんだよ。もちろん送受信にはお互いにビュータ機器が必要で、翻訳機能はその副産物みたいなものだね。送信の指定場所は勿論、ビュータに内蔵されている宇宙座標の特定が出来るような範囲に限られるけど」
「ビュータを持っている者同士なら、宇宙を隔てても会話出来るって事?」
「そうよ、つまり私達の星にメッセージを送れるの」
興味が湧かない様子のせいなのか、それとも前科があるせいなのか。指先でチップを掴もうとしていた小夜子から、マヤさんはさっとビュータを取り上げた。後者の理由から娘を信用していないようで、中身を確認してから一さんのいるテーブルの席に着く。
「あんた不用意に触らないでよ、これが直ったのは奇跡みたいなものなんだから」
これを僕らが壊したのは幼稚園に入ってすぐに頃だっただろうか。壊したといっても、小夜子が外へ持ち出して落としてしまったのが真相だ。幼い世界には通訳なんてものは必要なかったので、興味が向いたのは専らにその中身になる。当時は僕も結構それが気になって、彼女を止めなかった。
そういえばあの時はかなり僕も小夜子もマヤさんに怒られた気がする。チップは精巧なもので、とにかく衝撃に弱かったらしい。
「もう落としたりしないのに……それ誰が直してくれたの?」
昔を思い出したのか、ややむくれた小夜子がソファに寝転びながら尋ねた。
「健太郎のまだ、お友達な人よ」
途端床に頭をぶつける鈍い音が響く。携帯をとり落とした健太郎は慌てて立ち上がり、それを拾って母親を睨みつけた。
「母さんっ! 余計な事言わないでよっ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ様子に、さらに意地の悪い笑みを浮かべるマヤさんと、苦笑している一さん。僕も何となく相手が彼にとってどんな人なのか思い当たり、曖昧な笑みを浮かべて健太郎を見た。
「健太郎のお友達って優秀なのね、こんな宇宙人の作った機械を修理出来るなんて」
「……それで納得するから姉ちゃんは凄いよ」
腕のストレッチを始めた小夜子の隣で、健太郎はがっくりと肩を落としている。こんなに分かりやすい態度をとっているのに、そんなに秘密にしておきたいんだろうか。
けれど、ビュータを修理出来るような人物だったとは。つまりそれは小夜子達と同じか、もしくは限りなく近い種の異星人のはずだ。
白いお皿を洗い終えた一さんがテーブルに戻ると、2人は互いに2枚のチップを手にとっては嬉しそうに眺めていた。
「でもこれがあれば、救助の連絡が出来るんじゃないの?」
「これはあくまで電波なんだから。いくら速度が調節出来たって、届くまでは何百年何千年それ以上とかかるわよ」
「そんなのほら、よくあるワープとか出来るんでしょ」
健太郎の趣味に影響されたのか、小夜子の口調は確信に満ちている。しかしマヤさんは呆れたように溜息を吐いて首を振った。
「まったく気楽に言ってくれるわね。宇宙船みたいな物質を運ぶワープとは原理の次元が違うのよ。そもそも質量転換の法則は―」
「お母さん、もうその手の話はパス」
相当にうんざりしたのか、小夜子は大きく両腕でばってんを作る。
「専門的話は別として、メッセージか。名前を使うのが久しぶりで緊張するな」
「名前?」
足を反らす彼女の補助をしていると、一さんはマヤさんの肩を揉みながら呟いた。
「ビュータに限らず、外宇宙へのメッセージ送信は、最後に必ず送信者の正式な名前を入れるのよ。これ宇宙通常友好交流条約で結ばれた有名なルールなんだから、覚えておきなさい」
「いや、覚えたところで使わないって。それより正式な名前って?」
「どう考えたって私達のこれは日本名でしょ。あんたの向こうでの名前言ってなかったっけ?わたしはエフィーマヤ、一さんはディース、間を文字って小夜子はエフデス」
指折り数えるマヤさんの後ろで、一さんは首を捻っている。
「それから健太郎は…シロイゴハンニー・スウドン・ポムドテール・スイスロール・タコヤーキ…えーとマヤ、あと何だっけ」
「ソーキソーバ・イッカリング・エトセトラ…だったかしら。私も自信ないわ」
一聞では絶対に覚えられないような衝撃的で奇妙な単語が続き、僕も小夜子も一瞬動きが止まった。一拍の間を置いて彼女が口を開く。
「美味しそう、じゃなくて長っ!どうしてわたしがそんなに短くて健太郎は無駄に長いの」
「あの子が生まれた頃にあっちで流行した名前なのよ。長いから普段は省略形で呼んでいたけど。覚えきれないからメモしてたはずなのよね、あの紙どこへやったかしら」
かの星でも名付けに流行り廃れがあったのだろうか。それにしても、これは些か同情を禁じ得ない名前かもしれない。
「息子の名前くらい覚えとけよ……」
力無く呟く健太郎を前に、両親は真剣に彼の名前の続きを思い出そうとしていた。それがまた悲哀を誘う。今日は彼の厄日に違いない。
結局この日彼の正しい名前が発覚する事はなく、藤倉家ではにぎやかなまま、向こうの星へ何を送るかの家族会議が開かれていた。
僕こそ重大で深刻な悩みを抱える異星人のはずなのに、藤倉家の面々と関わると何故こうも力が抜けてしまうのだろう。これはこれで大いなる宇宙の謎だ。
それでもふと思う。僕も両親からの救難信号を感知できれば、合図として何らかメッセージを送らなければならない。
彼女を選ぶのか、故郷を選ぶのか。
そのときこそ、全てを決めなければならないのだ。
※
翌日学校へ登校するや否や、担任から分厚いプリントの山を渡された。たまたま朝練を終えて職員室のそばを通りかかったのが運のつきか、それとも学級委員なんて面倒なものに押しつけられた付与義務なのか。どちらにせよ煩わしい事にはかわりない。ましてテストの採点結果なら尚更だ。
教職員の準備室が主となっている階のためか、廊下に生徒達の姿はほとんどなかった。強い日差しが窓を通り越して、僕の影が前方へ大きく伸びている。相も変わらず今日も暑い。
「佐川先輩」
無言のまま足を進めていれば、背後から新たな影がゆっくりと現れた。
「重そうですね、持ちましょうか」
振り返れば、そこにいたのは見覚えのある少女だった。長い黒髪を二つに結んだ小柄な体格、それに下級生を示す赤いラインの入った上履き。
「ありがとう、えーっと1年生の文坂さんだよね」
確か委員会の集まりで何度か顔を合わせた事があったはずだ。おぼろげな記憶を手繰り寄せて、彼女の名前を思い出す。
「覚えてて頂けたんですか、嬉しい」
流石に後輩の、それも女の子に力仕事を頼むわけにもいかない。やんわりと断っておくと、彼女は気にした様子もなく僕の隣を歩きだした。
外見は大人しい雰囲気なのだが、この少女の内面はその反対ではないだろうか。物事をはっきり発言するタイプで、芯が強い。
「小夜子の後輩でもあるからね」
「ああ、藤倉先輩。お付き合いされてるんですよね」
僕達の関係は秘密にしてはいないが、大っぴらにもしていない。彼女が知っているのは少し意外だった。
僕の疑問を感じたのか、文坂さんは少しぎこちなく微笑んで顔を上げる。
「こないだ律義に謝罪に来てくれましたから。ま、それはもういいんです。それよりも藤倉先輩、風邪でも引いたんですか?」
「どうして?」
「だって昨日、部活に来てなかったんですよ」
大事な県大前なのに、と続く彼女の言葉に僕は首を傾げた。
部活に参加していない?けれど昨日そんな事は言っていなかったし、僕もいつも通り小夜子は部活帰りだと思っていた。体調が悪いようにも見えなかったし、家族の対応も普段と何ら変わらない。
「佐川先輩」
続く彼女の言葉が僕の思考を中断させる。
「ここにアイスが2つあります。味はバニラと抹茶。先輩はそのどちらも大好きなんですけど、食べられるのは1つだけです」
いきなり飛び出した心理テストのような例えに、僕は眉を顰めた。
女子の間で流行っているゲームのようなものだろうか、たまに小夜子も僕にこんな話を持ちかけてくる。
「選んだ片方は勿論食べられます。でも選ばなかったもう片方は溶けて、目の前から消えてしまいます。先輩はもう二度と、その味のアイスを食べられません」
けれど彼女の表情は真剣だった。
「それでも貴方は絶対にいつか選択しなければなりません。さぁ目を閉じて、一番に思い浮かぶのはバニラですか、抹茶ですか」
「これは何の話?」
「誰でも迷うときってありますけど、そんなときはちょっと立ち止まって、自分の心の奥底に聞いてみるのはどうですかって話です」
同じくらい好きな物。比べられない程大切な物。
けれど必ず選ばなくてはならない。それは――
「ちなみに藤倉先輩は両方思い浮かんだって言ってました」
「僕も両方かな」
「でも、選べないわけではないと」
彼女の言葉に気をとられ、窓の隙間から吹いた風で誰かのテスト用紙がひらりと舞った。
「どういう意味?」
ゆっくりと宙を紙が降ってくる。2枚、3枚と揺れるそれが、僕と彼女の間を遮ってお互いの視線を隠してしまう。そうしてちらりとだけ見えた口元が、僕の問いの答えを紡ぐ。
「女の子は見かけによらないって事です。私も、それに彼女も」