第15話
『軌道要素ト性質ヲ調ベテイマス…… 平均公転半径149,597,870Km/近日点距離0,983AU/遠日点距離1,017AU/平均軌道速度29,78km/s ……』
『――大丈夫、この星は生存可能条件を満たしているわ』
『あくまで機械の試算結果だよ。それに支配的地位にある生物は我々とはかけ離れた姿形をしている。擬態が必要だし、その分身体に負荷がかかる』
『いいの、行きましょう』
『けど……』
『ここでシャトルが爆発して、宇宙空間に投げ出されるよりは生きる可能性があるわ』
『駄目だ危険過ぎる、そもそも何の交流もない未知の星なんだ! 救援を待つ方が得策だろう?』
『それでもお願い、このままでは「この子」がもたない。絶対に死なせたくはないのよ!』
『どうしても? 自分達の命の保証は出来ないんだぞ』
『ええ、どうしても。ここで諦めたら、私は例え無事に故郷へ辿りついても一生後悔するわ』
『……わかった、行こう。あの青い惑星へ』
どうも、宇宙船の故障なんてのはよくある話らしい。
人類が初めて宇宙に飛び出したのは今を遡って数十年前の事。生命の誕生から駆け足で進化を遂げてきた彼らからしてみれば、それは決して早過ぎる事ではない。けれどそんな彼らがこの先数千年の時を経て、文明を更なるスピードで発展させても感知出来ないであろう遠く離れた彼方に、僕の両親の故郷はあった。
その地で出会った父と母は、長い年月を共に過ごし、旅行と称して多くの銀河系を巡っていたらしい。どれだけの星をまわってもそれ以上に完成された航宙技術はないと言わしめる程の高度な文明を武器にして、星間を渡り歩く。この星の表現で表せば、スペース・トラベラーと言ったところだろうか。
しかし順調に続いていた旅が足止めを食らったのは、宇宙船のエンジン部分の故障が原因だった。
暗黒の海の中でのトラブルは、どれだけ進化を経ても命に関わる重大な問題である。当然ながらあらゆる手段を用いて修理を試みたものの、その修復は絶望的だった。父はすぐさま救難信号で遥か遠くの故郷へ助けを求めたが、母は決断した。一番距離の近い、とある銀河系の青い星への着陸を。ほとんど情報もない星への不時着、それは大変危険な賭けでもあった。けれど全ては実行されたのだ、当時生まれてまもなかった僕のために。
※
幸せを絵に描いたような、川の字で寝転ぶ親子がいた。
「昔々、あるところにそれはそれは美しい私……じゃなかった女の子と、素敵な陽介さん…ではなくて男の子がいました」
子供に話をせがまれて、布団の中眠る前に母親は口を開く。
「2人は出会ってすぐに恋に落ち、結婚しました。そしてそのまま新婚旅行に出かけて、色んな星を巡ります」
妻との間に子を挟んだ父親は、やれやれと首を振った。
「ある星では誰かが別の知的生命体に食べられそうになったり、別の星では誰かのせいで現地生物と喧嘩になったり、宇宙空間ではまた誰かが寝ぼけてシップから落ちそうになったり……ああ、マイクロイオン・エンジンの故障も、誰かの食べかけのおやつが隙間に入り込んだせいだったか」
父親の遠い目としみじみと語る口調に、子供も憐みの目線を向ける。
「随分苦労したんだね……」
「でも、楽しかったわ」
反省の欠片もない母親は、けろりと笑って子供のおでこを撫でた。さらさらの癖のない髪を指先で梳いて、眦を下げる。
「それはまぁ、君といたからね」
父親の答えを聞いた彼女は、嬉しそうに頷いた。
「そう、2人一緒」
だから本当に幸せだったの、と母親は子供を抱き寄せる。子は照れ臭そうに身をよじったが、その温かさが心地よいので腕を解く事はしなかった。
「それでどうして、この星で暮らす事になったの?」
薄々これが両親の昔話だと気がついていたので、子供は大きな瞳を瞬かせて母親を見上げてみる。
「デブリとの衝突よ」
途端、母親の声が変わった。普段の穏やかな様子とは違う、少し固い声。
「デブリ?」
「宇宙粗大ゴミ。この星の周囲には特に多かったわ、ほとんどが宇宙産業廃棄物の鉄屑みたいな物だけど。とにかくあれがほんの数ミリでも船体にぶつかると、物凄い衝撃になるの。当たり所も運も悪かったわね、丁度点検のために外甲シールドを切っていたエンジン部分に近い箇所だったから」
「ぶつかってきたのは古いシャトルの燃料タンクみたいなもので、相当大きかった。至近距離で大砲に撃たれたようなものだよ」
父親も同意して、子供の頬を撫でた。
「それで堕ちてきたの? この地球に?」
子供は驚いて父の手をとり、握る。
「信じられないよ、作り話でしょ? 僕達はどう見ても人間じゃないか」
「そうね、ここからは……ちょっと、切ないお話」
母親の腕に力がぎゅっと込められた。
「僕達がこの地に降り立ったときに、不幸があった一家がいたんだ。疲れ切ってナイフを持った父親と倒れた母親、そして真っ赤に染まった赤ん坊」
突如語られる物騒な言葉に、子供は身を固くする。
両親は一体何を言っているのだろう?
「今にして思えば、何らかの理由で絶望から心中に走った直後だったのかもね。でも、命の切れる寸前で出会えた事は僥倖だった。僕達の擬態能力は君も知っているだろう? 生身の身体はあれば、簡単に取り繕う事が出来る」
「……それって」
「決して褒められた事ではないだろうね。でもあのときその父親は僕を見てこう言ったんだよ。妻も子も、自分は幸せにできなかった。二度目の人生が可能なら、やり直したいと」
子供の責めるような、言葉に詰まるような、悔いているような、もどかしい感情の入り混じった視線を受けて、それでも父親は笑っていた。
「本当にたくさんの惑星を見てきたけど、私達と同じ姿をした生命体はどこにもいなかったわ。それに力も。この星で生きていくなら、それは当然の選択だったの」
「君にはまだ、理解し難いかもしれないけど……僕はこの選択を後悔していないよ。いつか親子3人が無事に故郷へ辿り着くためには、必要な事だった」
でも、だけど、それは――
「……それ、本当の話?」
「さぁ、どうかしら。生まれたばかりの貴方が覚えていないくらい昔。本当にあったのかも、なかったのかもしれない話よ」
暗い影など微塵も見せない母の笑顔に、子供の胸は張り裂けそうなくらい痛んだ。
「何だか眠くなってきちゃったから、もう寝ましょう。この話はお隣のあの子にも、秘密にしておきなさいね」
子供は知っていた。未だ幼いはずの自分の自我が、同年代の子供よりも遥に発達している事を。普通の子供とはどこかが違う事を。
本当は、もっと重大で深刻な事態だったはずだ。未知への星への墜落、人間への擬態、募る故郷への思慕。それこそこんなふうに笑ってなどいられないような。
けれど2人は明るかった。まるで何でもない事のように振る舞い、常に我が子を愛していた。
だからそんな両親が、子供は好きだった。
それは幸せの中にどうしようもない切なさを含んだ、遠い日のある親子の会話。
※
無機質なアラームの音で目が覚める。すっかり馴染んだ目覚ましを叩いて、僕はゆっくりとベッドから身を起こした。
白い壁紙に、机と調度品だけが並んだ殺風景な自室。一般的な高校生男子としてはいささか不気味なくらい物のない整った空間は、ほとんど生活の匂いを感じさせない。それよりもむしろ肌寒いくらいの寂しい印象で、大きく仕切られた窓から降り注ぐ朝日だけが温かみを感じさせる。季節は夏だというのに、パジャマの下は汗すらかいていなかった。
昔の夢を見たのはいつ以来だろう。後頭部がズキリと痛み、僕は思い切り顔を顰める。その原因には心当たりがあるのだ。
そろそろ、「連絡」が入ってもおかしくはない頃になる。
枕元にある、灰色の光沢を持った小さなパネル。ごく薄い、そう丁度液晶テレビのようなディスプレイを持つそれは、僕の両手で包みこめる程度の大きさで、触れればひやりと冷たい。真っ暗の平坦な画面を指先でそっと撫でてから、僕はベッドサイドのボードにそれを立て掛けた。
今日も、反応はない。
このパネルが光り、故郷からの救助信号を拾ったのはもう5年も前になるのだろう。目を閉じれば今も、あの時の両親の言葉が鮮明に蘇る。
『必ず故郷へ帰ってくるんだよ』
『私達は、ずっと貴方を待っているわ』
サイドボードに一枚だけ貼られた写真には、長い髪を頭上でまとめたエプロン姿の母と、眼鏡をかけてスーツを着た父が2人並んで映っている。
『この星では、決して幸せになれないのだから』
別れの日。そう涙ながらに告げたのは母だったのか、それとも父だったのか。
故郷からの連絡は、まだこない。
※
「ねぇ稜介、そこの長さあってる?」
落ち着いたベージュの色合いのカーテン生地は、教室の窓を覆うだけあってかなりの面積があった。家庭科室の机では勿論幅が足りず、結局床のタイルの上に直接生地を置いている。
「うん、ぴったり」
開く左右分が必要なため、同じパターンを2枚作らなければならない。小夜子はメートル単位の採寸定規を駆使してちょこちょこと歩きまわっては、手芸用のペンシルで印をつけている。
本人はあまり意識していないみたいだけど、彼女は基本的に手先が器用だ。僕だってやれと言われれば人並みにこなせるが、既製品を買う方が早いと思ってしまう。
「このお金、領収書を貰っておいてよかったよ。担任に確認したら、学年の小口から出してくれるって言うし」
「本当? 結局お詫びになるような、ならないような……」
「気にしないでいいって。ほら、下押さえて」
昼休みの家庭科室は、当たり前だが誰も使用していなかった。教室とは離れた移動クラスの棟にあるせいか、休み時間とは思えない静かさだ。
下を向く度に肩から流れるポニーテールの一部が邪魔だったのか、小夜子はそれを一纏めにして後ろで高く結い上げていた。白い首筋が露わになり、たまたま生地の端を持って立っていた僕からはそれがよく見える。
「ところでさ」
当然そんな事には気がつかない小夜子は、僕に背を向けたまま手元の定規を動かしていた。
「結局片桐部長からの手紙って何だったの?」
多分、何気なく言ったつもりなんだろう。ただ長い付き合いは伊達じゃなく、その声が少し裏返っているのはすぐにわかった。
「気になるんだ。今まで僕が誰に呼び出されてもけろっとしてたのに」
彼女がそれ程この件を気にしているとは思ってもみなかったので、口元が小さく持ちあがる。小夜子は明後日の方向を見ながら、ペンをくるくると回していた。
「……今気がついたんだけど」
少し恨みがましい声で、呟く。
「稜介は結構な意地悪。それで多分わたしは……随分やきもち焼きかも」
表情は見えなくても、耳が赤いのは僕の気のせいじゃないだろう。一瞬、心臓が止まるかと思った。まさかあの小夜子がこんな反応をしてくるとは思わなかったのだ。
これでは、期待に応えてあげたくなるではないか。
「じゃあ、誰のためにずっと呼び出しを断り続けてきたか知ってる?」
僕がどうしてこんな人間を演じているのか、君はわかっているのだろうか。
「稜介、あのね」
すると彼女はいきなり真面目な表情で僕を振りかえり、ほのかに赤い頬を隠しながらこう言った。
「あんまり心のメモ帳がパンクしそうになる事は言わないで。ただでさえ、最近残りページ数が少なくなってる気がしてるんだから」
切実そうに訴えるような目で見られては、こちらに返す言葉はない。
恐らくそれは、彼女の頭の中では何か大きな意味がある言葉なのだろう。ただ生憎と僕にわからないだけで。
「そろそろ午後の授業始まるから、行かなくっちゃ」
慌ただしく裁縫用具を片付けて、小夜子は家庭科室を後にする。僕はそれを複雑な気持ちで見送った。
この言動を彼女なりの照れ隠しと都合良く思い込むには、どうも少し違うような気がしてならなかった。
※
「佐川稜介君」
授業が終わり、慌ただしく各々が部活や下校で教室から姿を消す中。背後からそろそろ来るのではないだろうかと思っていた人物の声がした。
短い黒髪に意志の強そうな目をした彼女は、確かに上原が美人と称するのに恥じない端正な顔立ちをしている。数人の友人達の視線を気にもせず僕の席まで歩み寄ると、彼女、片桐美奈子テニス部部長は開いていた前席に足を組んで腰掛けた。
「ちょっと時間あるかしら」
「僕も先輩も部活では?」
小夜子から彼女も県大会への出場が決まっている事は聞いていた。高校最後の夏、引退をかけた大切な試合であるはずだ。
けれど彼女は首を振って、机の上にあった僕の鞄の上に両肘をついた。
「その前に2人だけで話がしたいの。内容は手紙の件の続きよ」