第13話 ※稜介編※
朝目覚めると、僕は必ず自分のベッドの横にあるそれを見つめる。
無機質な灰色のボディをしたそれは、相変わらず昨日までと同じ表示のままで何も変わらない。
今日も変化なし。そしてそれに僕は失望し――心の奥底では安堵している。
※
「そんなに気にする事はないと思うけど」
大好物のキャラメル・ポップコーンを目の前にしながらも、小夜子は眉間に皺を寄せて渋い顔をしている。手元に置かれたオレンジジュースのカップの水滴が垂れて、彼女の白いワンピースに染みを作った。
「無理……」
片手で顔を覆っている小夜子から飲みかけのカップを失敬し、一口ばかり喉へ流し込む。100%独特の濃い甘酸っぱさが口に残ったので、からんと音を立てる氷も飲み干した。
「あれは小夜子のせいじゃないんだから。先生も窓の施工業者側が工事不備を認めたって言ってたじゃないか」
「それはそうだけど、もしかしたらって罪悪感があるじゃない」
つい最近自らが宇宙人だという事実を知った彼女は、何かにつけて例の事件を気にしている。そのまま本日何度目かの溜息を吐きながら耳元で流れた髪を指先で正し、ようやくカップを口に運んだ。
「みんなに申し訳ないじゃない、かといって真実も言えないから謝罪も出来ないし」
「だから謝る必要もないでしょ?」
小夜子は普段髪を束ねているが、休日は大抵ロングのまま背中に流している。個人的には彼女はこちらの方がよく似合うと思うけれど、いつものポニーテールもつい手に絡めたくなるので捨てがたい。
「カーテンとか、どうかな」
そっと伸ばしかけた手が、その言葉で動きを止める。
「何が?」
「ガラスが付着したり所々切れ切れになって、カーテンも変えなきゃって言ってたの。あれをわたしが用意しようと思って」
名案を思い付いたとばかりに小夜子の目がきらきらと輝いた。
「一生徒から理由もなくカーテンの貢献なんて、学校側も受け取らないかもよ?」
「生地だけ買って、家庭科室を借りて作るの。ほら、卒業記念……じゃなかった、かなり気が早いけど3年生への進級記念って事で」
白い頬が興奮で薄く色づいて、自然と笑みが浮かんでいる。彼女の笑顔は子供の頃からちっとも変わらない。無邪気で自然で、ふわりと優しい。
不意に幼い彼女の笑顔が脳裏を掠めて、今の小夜子と重なった。何かとても眩しいものを見たような気がして、僕は目を細める。
「いいんじゃない。そしたらこの後は生地を見に行こうか」
ついでに言いだしたら聞かない頑固な一面も知っているので、僕は彼女が一際喜びそうな提案をしてみる。案の定大きな目を見開いて小夜子は身を乗り出してきた。
「いいの?」
「勿論。でも今はそれより映画が始まるよ」
上映開始時間が近づいたため、疎らだった客席が次第に込み合ってざわつきはじめていた。薄暗い館内の中、菓子やジュースを片手にはしゃぐ親子連れに道を譲ると、僕達が席をとった真ん中の列は満席になっている。
大ヒットしたアクション映画の続編というだけあって、前評判は上々。特に小夜子は熱心なファンだったはずだ。
「小夜子」
キャラメル・ポップコーンを片手にパンフレットを注視していた彼女の無防備な耳元に、僕はそっと口元を寄せる。
「地区大会優勝おめでとう」
彼女が答えるより早く幕開きのベルが鳴り響き、辺りは暗闇に包まれた。
※
金髪を振り乱した美女がサブマシンガンを物陰から打ちまくり、麻薬の運び屋の足を中心に血飛沫が舞う。派手なアクションで見栄えのする転がり方を披露してくれた悪役は、後ろに控えていた仲間へトランクを渡し、力尽きる。勿論この最後の最後を気のきいたアメリカンジョークで皮肉る事は忘れないのがハリウッドのお約束だ。ついでに爆発の景気良いラッシュも定番か。
平和主義者と見せかけて、小夜子が好むのはこういったバイオレンス要素を含む活劇物が多かった。それは多分健太郎の影響だと思う。
「で、今日はどうだったの?」
今日も参考書と睨めっこをしていた健太郎は、先程から1ページも進んでいないそれを気にもせず僕を問いただしてくる。
藤倉家のリビングは広く、健太郎の座っているテーブルは6人掛けだ。その向かい側に腰掛けた僕は、今日の夕刊の目ぼしい記事に目を通す。
「楽しかったよ、最近の洋画の中ではそこそこの出来かな」
特別映画が好きなわけではないので、僕の総評は曖昧だ。どうもああいった類の物は映像の出来だけで腹を満たされる気分になってしまう。
「違うって、そこじゃなくてさ」
赤いマーカーを振りかざして、健太郎は首を横に振る。
「デートだったんだろ?」
「そうだよ」
彼が何を期待しているのかわからないわけでもないが、伝える義務はないだろう。
「……まぁあの姉ちゃん相手じゃあ大した進歩もないだろうけどさ。映画と買い物だけでさっさと帰ってくるし」
さすが弟と言うべきか、健太郎は感慨深そうに呟いてそれ以上の追及はしなかった。代わりに僕の手元にあった夕刊のテレビ欄と時計を見て、慌ててテレビのリモコンを掴む。
「おっとビビンジャーの時間だった」
一瞬眉を顰めたくなる固有名詞だったが、テレビ画面に映し出されたそれを見て納得する。最近健太郎が好んでいるSFアニメだ。今日最終回なんだよね、と言う彼の目は真剣そのもの。その熱意の半分でも参考書に向けてみれば、受験勉強など遥かに捗ると思うのだが。
『ミカ……』
画面には若い男と少女が宇宙を背景に立っている。赤い服を着た長い黒髪の女の子は、背格好がどことなく小夜子に似ていた。その優しそうな目元が涙で潤み、男の袖をぎゅっと掴んでいる。
『僕はこれまで自分の星に還る事を第一に考えていた。地球の平和を守っていたのも、この星での居場所を作るために行っていた浅はかなカモフラージュさ。本当は故郷から通信が入り次第、何もかも見捨てて即シャトルに乗ろうと考えていたんだ』
『……ハロルド』
『けれどそう……ミカ、君が現れた』
男はミカの頬を両手で包みこみ、零れおちる涙に口づける。
『僕が辛いときには支えてくれて、そばに居てくれた。ミカと離れる事がこんなにも辛いとは思わなかった。だから……』
腰に腕が回され、ハロルドはミカをしっかりと抱きしめた。
『僕と一緒に、宇宙の彼方にある僕の故郷まで来てくれないか。そこで一緒に暮らそう、君が開発してくれたフルロイシンTXのおかげで決心がついたんだ』
『ハロルド……ああ、嬉しい……!』
少女の涙のパワーは物凄い。あっという間に背景を薔薇に変え、周囲に甘ったるい雰囲気を撒き散らす。まさに大団円に相応しい演出で、恋人達は幸せそうに自分達の世界を作っている。
僕は全くこのアニメのストーリーを知らないので、感動巨編として涙を流す事は出来なかった。そもそもどんなお涙頂戴劇を見ても泣いた事なんてなかったけれど。ついでに男の言う不可解な単語は延命薬だと健太郎が教えてくれた。不老不死に近い宇宙人ハロルドとごく普通の人間ミカの恋物語で、お互いの命の時間の差がキーポイントになっていたらしい。
「結局ミカと旅立ちエンドか。けど寿命を延ばす薬なんて安直過ぎるよなぁ、せめてコールドスリープとか、時間圧縮とか、使い古された古典SF手法でも出せば良いのに……ま、よかったハッピーエンドで。父さんにも教えておかないと」
鼻をすすりながら目を瞬いている健太郎は、やっぱり小夜子の弟だなと感じさせる。彼女も映画を見ると、大抵目を真っ赤にして泣き腫らすからだ。ちなみに先程の映画でもラストはぼろぼろと大粒の涙を零していた。泣き所が何処にあったのかは甚だ疑問だが。
時計を見れば時刻は18時をまわっている。夏場の窓の外は赤い夕焼けに染まっていて、そろそろ夕飯の食材を買いに出かけた小夜子が戻ってくるだろう。
「ハロルドは超能力者で、念力に予知に透視、テレパシーやサイコメトリーなんかも使える超万能のオールラウンダーなんだぜ。俺達みたいなよくわからないちっぽけな力とは違うよなぁ」
「そんな力が欲しかったの?」
物語を見納めた健太郎は、興奮が冷めきらないのか頬を上気させて笑っている。
「だって格好良いじゃん。正義の味方になって悪者を懲らしめるんだよ」
彼の頭の中で想像されているのは、悪人を蹴り倒し、か弱き人々を守り、不思議な力を駆使して宇宙を飛び回るヒーローに違いない。人々に望まれ、愛され、認められている存在。
屈託ない笑みを浮かべる健太郎は、年より幾分か幼く見えた。けれど僕は彼の言う能力が決して素晴らしいものではないという事を知っている。
「たとえそんな力があったて、本人が望むように生きていけるとは限らない。それに故郷も彼女も両方とろうなんて、甘い考えだよ」
画面のクレジットを見つめながら、僕はぼんやりと呟いた。
「現実はこんなに楽じゃない」
そう、現実は厳しい。
「どうしたの兄ちゃん?」
参考書に作った涙の染みをティッシュで拭きとりながら、健太郎が怪訝な顔をする。
「いや、よかったね。ハッピーエンドでさ」
「兄ちゃん達もそうなるでしょ、限りなく完璧に近い優秀な人間と欠点の多いおとぼけ宇宙人だけど」
別段何の含みもなく発せられたその言葉に、僕は頷けない。その理由を健太郎は、そして小夜子はまだ知らない。
当然、相手が異星人でも僕は構わないよ。
けれど小夜子、僕は君にいくつか嘘をついている。
僕の嘘を、この裏切りを、彼女は許してくれるだろうか?