「浮遊港の運行管理など誰にでもできる」と婚約破棄されましたが、始発便の出港許可印を持つのはわたくしだけですので、どうぞそのままお続けくださいませ 〜前世社畜の空港令嬢、退職いたします〜
「セレスティア。お前との婚約を破棄する」
始発便の出港まで、あと三十分。
管制塔の石段の上で、王太子エイリーク・ヴェルグはそう宣言なさいました。
風向計が、かたりと東へ振れます。北北東から東へ、八度。予定より二分早い。わたくしは手元の板に鉛筆で数字を書き込みました。
「……聞いているのか」
「聞いております。婚約破棄、承知いたしました」
「承知……だと?」
拍子抜けした顔をなさいますね。叫んで縋ると思っておいででしたか。
申し訳ございません。わたくし、始発前の三十分に感情を割ける人間ではないのです。
殿下の背後には、朝の風に白いドレスを遊ばせた令嬢がひとり。ミストラル子爵家のリリアーナ様。王都の吟遊詩人が競って歌にしたという、《風の乙女の加護》持ち。
「わたし、風の乙女の加護を授かりましたの」
彼女は微笑みました。悪意のかけらもない、澄んだ声で。
「風脈さえ読めれば、帆船なんていくらでも飛ばせますわ。セレスティア様はもう、お休みになって? 毎朝こんな寒い塔にお上がりになって、おかわいそう」
――風脈さえ読めれば。
わたくしの背後で、記録係のミーナが息を呑む音がしました。眼鏡の奥で目を吊り上げ、一歩踏み出そうとする。
「――お言葉ですが、リリアーナ様。風脈というのは」
「ミーナ。いまは第三便の積載重量表を確認する時間です」
手の甲で、そっと制します。
「……失礼いたしました、管理官」
「そもそもだ」
殿下は片頬だけを上げてお笑いになりました。この方の癖です。笑うとき、必ず片側だけが上がる。
「浮遊港の運行管理など、誰にでもできる雑務だろう。帆を張って、風を待って、鐘を鳴らす。それだけだ」
石段の下で、随行の貴族たちがどっと笑います。
「そんなものに伯爵令嬢が十二年も張りついているから、お前は社交界で笑い者なのだ。インクの染みだらけの手をして、王妃になるつもりだったのか」
――定時運航率、九十八パーセント。年間発着三千二百十便。遅延十七件。事故ゼロ。
その数字を維持した人間に向ける言葉として、それは正気ですか。
と、内心では思いましたが、口には出しません。
出しても、この方には通じないからです。数字が通じる相手にしか、数字は武器になりません。
石段の下で、父――レイフェルト伯爵オーレンが目を伏せました。
「セレスティア。……こらえなさい。王家の御意向だ」
ええ、父上。存じております。
あなたが管制塔に上らなくなって、今年でちょうど二十年です。
わたくしは膝を折り、裾を摘まんで、丁寧に一礼いたしました。十二年、毎朝この石段でしてきたのと同じ角度で。
「承知いたしました。では殿下」
顔を上げます。
「本日の始発便の押印は、いかがなさいますか」
「……は?」
「《出港許可印》でございます。押印がなければ、帆船は風脈に乗れません」
殿下は一瞬だけ、言葉に詰まりました。
それから、心底どうでもよさそうに手を振られます。
「押せばいいだろう。それくらいはしていけ」
――それくらい。
わたくしは、もう一度頭を下げました。
「かしこまりました。それくらいは、いたします」
鐘楼の上から、朝の一打が降ってきます。
老ハルグリムの鐘。四十年、一日も欠かしたことのない音。
その音を聞きながら、わたくしは思いました。
――ああ、そうか。
この方は、ご存じないのですね。
この港の始発便が出ない日というものが、どういう日なのかを。
◆
管制塔の最上階は、風の音がいちばんよく聞こえます。
わたくしは風脈図を広げ、積載重量表を確認し、鉛筆で三箇所、数字を書き換えました。
「管理官。北風脈、開放まで十七分です」
「ええ。ですが今朝の東風は八度振れています。開放は十四分後、閉鎖は予定より三分早い」
「……三分」
「〈北鴉号〉には二百二十ロット積載させてください。三十ロット減らします。差分の穀物は第二便へ。荷主への詫び状はわたくしの名前で結構です」
ミーナはペンを走らせながら、震える声で言いました。
「管理官。……なぜ、まだお仕事を」
「まだわたくしが管理官だからです」
印を取り出します。
掌に収まる、黒い石の印。冷たいのに、魔力を通すとほんのりと温かくなる。十二年、毎朝この温度を指先に受けてきました。
押印。
羊皮紙に、淡い青銀の紋が浮かびます。
これで〈北鴉号〉は飛べる。本日の始発便、定刻通り。
――前世で、わたくしは成田で飛行機のダイヤを組んでおりました。
七歳のとき、石段で転んで頭を打った日に、それを思い出しました。深夜残業明けの帰り道、電車のホームで膝から崩れ落ちたあの感覚まで、まるごと。
以来十二年。
この港のダイヤは、わたくしが組んでまいりました。誰に頼まれたわけでもなく。
飛ばない船は、ただの木箱です。
定刻に出ない港は、ただの崖です。
それを知っている人間が、ここにひとりしかいなかった。それだけのことでございました。
出港鐘が三つ、鳴ります。
窓を開けました。
朝の、冷えきった空気。油と帆布と、遠くの海鳥の匂い。石段を駆け上がる船員たちの靴音。
――ああ。
前世の最後の夜、ターミナルの窓から見た滑走路の誘導灯が、一瞬だけ重なりました。青と緑の光の列。誰も褒めてくれない、けれど一本も消してはいけない灯り。
わたくしは窓を閉めました。
「ミーナ。日誌を全部、こちらへ」
「……全部、ですか」
「十二年分です」
ミーナは三往復して、机の上に革表紙の束を積み上げました。ひとつの塔のように。
わたくしは机に向かい、二枚の紙を書きました。
一枚目、《婚約解消同意書》。
二枚目――《運航管理官辞任届》。
ペンを置いたとき、ミーナが無言で胸元から折り畳んだ紙を出しました。
「わたしの辞表は、ここです」
「……ミーナ。いつから持っていたのです」
「三年前からです」
眼鏡の奥で、彼女の鼻の頭が赤くなっておりました。
「管理官がいつか辞める日が来ると思っておりました。そのとき慌てて書いて誤字があったら、記録係として恥ですから」
わたくしは、少しだけ笑ってしまいました。
この港で笑ったのは、いつぶりでしたでしょう。
◆
「お待ちなさい、セレスティア。辞任届とは何事だ」
謁見の間ではなく、管制塔の下の風待ち広間。
父が、青ざめた顔で紙をつまんでおります。管制塔に上らなくなって二十年になる父が、こんな場所まで来たのは記録上初めてでございました。
「王太子殿下がお認めになった通りでございます。誰にでもできる雑務ですので、どなたかにお譲りいたします」
「そういう話ではない! お前が辞めたら領地の収入が――」
「父上。十二年前から、そうでございました」
父は口を開けたまま、黙りました。
殿下が呆れたように鼻を鳴らされます。
「くだらん。辞めたければ辞めろ。誰にでもできるのだろう? では誰かがやればいい」
――いただきました。
わたくしはミーナに目で合図を送ります。彼女は日誌の一冊目を、ぱたりと机に置きました。
「では、殿下。三点だけ、ご確認いただけますか」
「三点?」
「一件目」
頁を開きます。
「殿下が『雑務』と仰ったものの内訳でございます。昨年の発着数、三千二百十便。遅延十七件。事故、ゼロ。なお十七件はいずれも他港側の事情によるもので、当港起因の遅延は三年間ございません」
「……偶然だろう」
「三千二百十回の偶然でございますか。ではこちらを」
二冊目。
「全便の風脈計算の控えでございます。一便につき、開放予測時刻、閉鎖予測時刻、積載上限、迂回脈の第二案。すべて手書き。筆跡はご覧の通り、一種類です」
殿下の目が、紙の束を上から下へ滑ります。
「二件目」
わたくしは研究ノートを取り出しました。表紙が擦り切れて、角が丸くなった一冊。
「リリアーナ様。加護について、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「え……ええ、なんなりと」
「《風の乙女の加護》は、いま吹いている風の向きと強さを読む力。相違ございませんか」
「はい。とても正確に読めますわ」
「では――明朝、北風脈が開くのは何時何分でしょう」
リリアーナ様は、まばたきをなさいました。
「……朝の、鐘の頃ですわ」
「その『頃』が、十一分から四十三分ずれます」
「……え?」
頁をめくり、机の上で殿下の側へ滑らせます。
「過去三年の実測です。風脈の開閉時刻は季節と月齢で変動します。王国の公式風脈図は、三十年前に作られたまま更新されておりません。三十年前の数字で飛ばせば、閉じかけた脈に突っ込みます」
「そんな補正表など、国庫の書庫に――」
「ございません。この一冊にしかございません。わたくしが十二年かけて取った実測ですので」
広間が、しんとしました。
風向計の軋む音だけが、上から降ってきます。
「……三件目は」
殿下が、掠れた声で仰いました。
わたくしは掌の上に、黒い印を載せました。
「《出港許可印》は、血縁ではなく『港が認めた者』にのみ宿ります。譲渡はできません。売ることも、貸すことも、王命で移すこともできません」
「……」
「前任者が辞任した場合、港が次の適格者を認めるまで、最短で一年」
一拍、置きました。
「つまり明日から、《天穹始発港レイフェルト》は、始発便を出せない港になります」
「――は?」
語尾が、上がりました。
この方が動揺なさるときの癖でございます。
「始発が出なければ、風脈の第二便も第三便も出せません。一日三度しか開かない脈に、始発を待つ船が詰まるからです。王都への穀物輸送は月十二便。うち十便が当港経由でございます」
「待て、セレスティア。待て。それは――それは脅しか」
「いいえ。運航計画でございます」
わたくしは辞任届を、そっと机の中央へ押し出しました。
「殿下。わたくし、辞めさせていただきます」
「認めん!」
「殿下がお認めにならずとも、港が認めます」
印を、机に置きました。
ことり、と乾いた音。
十二年間、毎朝温めてきた石が、初めてわたくしの手を離れました。
指先が、ひどく冷たくなりました。
「……セレスティア」父が震える声を出します。「こらえなさい。頼む、こらえて――」
「父上。わたくし、十二年こらえました」
背を向けます。
扉の前で、一度だけ振り返りました。
「誰にでもできる雑務でございますから。どうぞ、そのままお続けくださいませ」
背後で、リリアーナ様が小さく呟いたのが聞こえました。
「……わたしが、代わってさしあげますわ」
本気で、そう仰ったのだと思います。
それが一番、残酷でした。
◆
港を出たのは、昼を少し過ぎた頃でした。
荷物は鞄がひとつ。研究ノートと、着替えと、鉛筆の束。
石段を下りていくと、桟橋の突端に黒い影が立っておりました。
身の丈六尺三寸。革の飛行外套。左の側頭部から首筋へ、鱗状の紋が青銀に光る。
〈北鴉号〉船長、ヴァルト・ドラウゼン。
「……本当に辞めたのか」
「はい」
「役人どもは止めなかったのか」
「止め方をご存じなかったようです」
彼は鼻から息を吐きました。笑ったのかもしれません。わかりにくい方です。
「おれは十二年、あんたの手書き通りに飛んできた。公式図は三十年前の紙切れだ。あんな紙を信じる馬鹿は、おれの船には乗せねえ」
「存じております。〈北鴉号〉は補正表の遵守率が百パーセントでした。港で唯一です」
「……そんなもんまで数えてたのか」
「全部数えております」
彼はしばらく黙って、甲板の縁の傷を掌で撫でていました。癖なのだと、船員から聞いたことがあります。傷のひとつひとつに、乗せた荷と人の記憶が刻まれているのだと。
「令嬢」
琥珀色の、縦に長い瞳孔がこちらを向きました。
「あんた、何ができる」
――その問いを、わたくしは十二年間、誰にもされたことがありませんでした。
皆、わたくしが何をしているか知らないまま、できて当然だと思っておりましたので。
だから、答えるのに少しだけ時間がかかりました。
「……風脈の開閉時刻を、誤差三分で当てられます」
「――ならやってみろ。おれの港で」
「……港?」
「大陸南端。岩礁だらけの廃港だ。十年かけて少しずつ買った」
「風脈の外れでございます。船が入れません」
「だからあんたを呼んでる」
彼は外套の裾を翻し、タラップを顎でしゃくりました。
「あそこには、船を追われた連中を置いてる。飛べねえ船と、行き場のねえ船乗りだ。港として動きゃあ、あいつらに仕事ができる。動かなきゃ、ただの岩だ」
わたくしは、鞄の紐を握りしめました。
「……ひとつ、申し上げておきます」
「なんだ」
「わたくし、朝が早うございます。始発の三時間前には塔に上ります」
「知ってる。十二年見てた」
「食事を抜きます」
「おれが持ってく」
「……愛想がございません」
「おれもだ」
そのとき、背後から荷物を抱えた足音が二つ。
「管理官。副管理官として同行いたします。異論は受け付けません」
ミーナ。眼鏡が少し曇っております。
そしてもう一人、曲がった背の老人が、鐘つき棒を一本だけ抱えて立っておりました。
「はァ? 南の岩場? 遠いのう」
「ハルグリム。あなたは残るべきです。四十年、この港の鐘を――」
「お嬢」
老人は歯のない口で笑いました。
「鐘はの、港に鳴らすもんじゃねえ。人に鳴らすもんじゃ」
わたくしは、何も言えませんでした。
タラップを上るとき、鐘楼から一打、余分な鐘が鳴りました。
――船を見送るときではなく、人を見送るときの作法。
「管理官。いま、鐘が一打。……余分に鳴りました」
「鳴らす人が、もう乗っておりますのに」
港の古い船乗りたちが、代わる代わる綱を引いていたのだと知ったのは、ずっと後のことでございました。
◆
――以下は、元レイフェルト浮遊港記録係ミーナ・ホルグレンが、第二始発港の開港報告書に添付した「旧港状況記録」の抜粋である。
【第一日】
始発便、出港せず。出港許可印の適格者不在のため。第二便、第三便も連鎖的に停止。滞留船十四隻。
【第九日】
リリアーナ・ミストラル、仮運航責任者として着任。公式風脈図に基づき出港指示。〈翡翠の梭〉号、出港十九分後に風脈より脱落、崖下に不時着。負傷者三名。
【第二十三日】
同責任者の指示により〈北砦号〉出港。脱落。船体大破。死者なし。船員一名、右腕切断。
【第三十一日】
三隻目の脱落を受け、ミストラル嬢、運航指示を停止。以後、管制塔に上らず。
※付記。当該令嬢に悪意はなかったと記録者は判断する。彼女は風を読めていた。ただし、風がいつ止むかを読む術を、誰も彼女に教えなかった。
【第五十四日】
王都向け穀物輸送、月十二便から四便に減少。王都の小麦価格、一・七倍。
【第八十日】
同、月二便。価格三・二倍。北区で配給所に列。
【第百十二日】
ヴェルグ商会連合、拠点移転を決議。移転先、大陸南端《第二始発港》。
【第百四十日】
レイフェルト伯爵家、王都邸を売却。同日、当港宛に伯爵より書簡。返信は以下の一文のみを送付した。
「レイフェルト伯爵家との商取引は、公正な条件でお受けいたします。ただし前払いにて」
【第百八十二日】
出港鐘、鳴らず。鐘つき不在のため。
※港の者はこの日を「鐘の止んだ日」と呼んでいる。
――そして同じ頃、大陸南端の岩礁港では。
「管理官。裏脈、開放まで二十二分です」
「ええ。今日は四便出します」
「四便……本当に日に四度、出るんですね」
「出ます。風脈は一日三度しか開きませんが、岩礁の隙間を抜ける小さな気流――わたくしは『裏脈』と呼んでおりますが、これが日没前に一度だけ立ちます。幅は狭く、開いているのは十九分間。ですから」
わたくしは風脈図に線を引きました。
「誤差三分で当てられる人間がいれば、通れます」
「……それができるのは、大陸でおひとりだけですが」
「ええ。ですので、ここにおります」
桟橋では、右腕を失った元〈北砦号〉の船員が、片手で綱を捌いておりました。ヴァルトが拾ってきた男です。
「管理官。今日の風、どうです」
「良好です。定刻に出ます」
「……定刻に、出ます、か」
男は、少し笑いました。
この港では、それが挨拶になりつつあります。
◆
王太子殿下が岩礁港に到着なさったのは、開港から百八十二日目の午後でした。
馬を三頭潰して来られたそうです。三頭も潰さなくとも、南回りの定期便が週四で出ておりますのに。もっとも、その定期便もわたくしの押印で飛んでおりますが。
「セレスティア。……戻れ。国の損失だ」
香油の匂いは、もうなさいませんでした。埃と汗と、旅の匂い。
「国の損失。……その言葉を、ずいぶん早く覚えられましたね」
「――王都で人が並んでいる。小麦の配給に、子供が並んでいるのだ!」
「存じております。第二始発港から週に三便、王都向けの小麦を出しておりますので。輸送量、価格、すべて記録がございます」
殿下の顔が、こわばりました。
「……出しているのか。お前が」
「商売ですから」
「ならば戻ってくれ。レイフェルトの印を押してくれ。あの港が動けば――」
「押せません」
「なぜだ!」
「わたくしは、あの港の管理官ではないからです」
わたくしは懐から、印を取り出しました。
黒ではなく、白に近い灰色の石。岩礁の色をした印。
「殿下。これが何かおわかりになりますか」
「……印、だと? だがその色は」
「はい。この港が、わたくしを認めました。二つ目でございます」
「……二つ、目」
殿下は、一歩下がりました。
「わたくしの押印なしに飛べない港が、いま大陸に一つございます。こちらです」
風が吹き抜けました。
岩礁の隙間を抜ける、細く鋭い風。裏脈の予兆です。あと十八分。
「……なぜ。なぜ、あの港でなく、ここなのだ。お前が育った港だろう。父も、鐘も、塔も、全部あそこに――」
「誰にでもできる雑務だと仰ったので」
わたくしは、はじめて殿下の目をまっすぐに見ました。
「わたくしにしかできない場所を、作りましたの」
「……っ」
殿下は、何も仰いませんでした。
口を開きかけて、閉じて、また開きかけて。
幼い頃、弟君に比べて風読みの才がないと父王に言われ続けたという話を、わたくしはミーナから聞いたことがございます。
だからこの方は、言い続けねばならなかった。
才など要らぬ。誰にでもできる。
そう言い続けなければ、自分が立っていられなかった。
――けれど。
「殿下。ひとつだけ、申し上げます」
「……なんだ」
「公式風脈図を、ご自分の手でお開きになったことは。……一度も、ございませんね」
沈黙。
「裏脈まであと十八分でございます。お引き取りを」
殿下は、答えませんでした。
答えないまま、踵を返して、馬に乗られました。
「……後に聞いた話です」
報告書を綴じながら、ミーナが言いました。
「殿下は王都に戻られ、国庫の書庫で三十年前の公式風脈図を、初めてご自分の手でお開きになったと。止まったままの数字を、指でなぞって。……その指先が震えていたことに、誰も気づかなかったそうです」
「そうですか」
「ミストラル様は、いまも毎朝ひとりで風向計をご覧になっているとか」
「風は読める。けれど、いつ止むかがわからない。……ようやく、お知りになったのでしょう」
「知らないまま微笑んでいられた頃の方が、幸せだったかもしれません」
「わたくしは、そうは思いませんが」
◆
夕刻、ヴァルトが管制室の戸口を塞ぐように立っておりました。
手に、一枚の羊皮紙。
「令嬢。妙なもんを拾った」
「妙なもの?」
「旧港の風脈図の写しだ。あんたが最後に押印した日のやつ」
わたくしは、手を止めました。
「……なぜ、そんなものを」
「旧港から流れてきた船乗りが持ってた。半年、これで飛んでたんだとよ」
彼は羊皮紙を机に広げ、太い指で三箇所を示しました。
鉛筆で書き加えられた、小さな数字。
「ここと、ここと、ここ。三箇所だけ修正が入ってる。北風脈の閉鎖時刻を六分前倒し、西脈の積載上限を四十ロット減、南迂回脈の第二案を追記」
「……ええ」
「これのおかげで、始発が止まった後も、旧港の残り便はかろうじて飛べてた。三隻落ちたのは、この修正を無視して公式図で出した便だけだ」
彼は顔を上げました。
琥珀色の瞳が、わたくしを見ています。
「あんた、婚約破棄されたその日に、これを書いてから出てったのか」
「……」
「なんでだ」
わたくしは、風向計を見ました。
見なくても、風はわかっておりましたが。
「殿下やリリアーナ様のためではございません」
「だろうな」
「乗るのは、船員です。荷主です。荷の向こうには、小麦を待っている人がおります」
指先を、机の上で揃えました。
「わたくし、飛ばない船が嫌いなのです。誰が管理官であろうと、飛ぶべき船は飛ぶべきなのです。それだけでございます」
ヴァルトは、しばらく黙っておりました。
それから、低く呟きました。
「――だからあんたは、始発を任されてたんだな」
わたくしは、うまく息ができませんでした。
十二年。
誰にも言われたことのない言葉でした。
父にも、殿下にも、社交界の誰にも。
「……ヴァルト様」
「なんだ」
「わたくし、泣きませんので」
「知ってる」
「ですので、いま外を見ていてくださいませ」
「……おう。いい夕陽だ」
この方は、船員が初飛行を成功させた夜に隅で洟をすするような人でございます。
だから、たぶん、わかってくださったのだと思います。
窓の外では、岩礁に夕陽が落ちておりました。
◆
夜明け前。
岩礁港の空は、まだ濃い藍色でした。
風向計が、かたりと北へ振れます。北北西、風速三。裏脈の立ち上がりまで、あと十一分。
「管理官。第一便、積載確認完了です。二百八十ロット、定刻出港可能」
ミーナの声。ペンを耳の後ろに二本挟んで、眼鏡を押し上げながら。
「荷主への到着予定は」
「送付済みです。誤差三分以内と明記しました」
「三分以内、ではありません」
わたくしは訂正いたします。
「三分、です」
「……失礼しました。訂正いたします」
石段を、曲がった背の老人が上ってきます。鐘つき棒を一本、抱えて。
「お嬢。はァ? 何分じゃと?」
「十一分後です、ハルグリム」
「十一分か。ちょうどええ。年寄りは息を整えるのに十分はかかる」
老人は鐘楼へ上っていきました。四十一年目の腕で、綱を握るために。
わたくしは、白い印を取り出しました。
風脈図。積載重量表。裏脈の開放予測。閉鎖予測。第二案。
確認、確認、確認。
押印。
羊皮紙に、淡い金の紋が浮かびます。
指先に、印の温度が戻ってきました。
鐘が、鳴りました。
一つ。二つ。三つ。
岩礁に反響して、まるで海そのものが鳴っているようでした。
桟橋で船員たちが走り出します。片腕の男が、片手で見事に綱を捌く。帆が開く。油と帆布の匂いが、風に乗って塔まで上ってきます。
管制塔の階段を、大きな足音が上ってきました。
革の飛行外套。肩幅だけで戸口が塞がる男。
ヴァルトは、わたくしの前に立ち止まり、分厚い掌を差し出しました。
帆綱の胼胝で硬い、傷だらけの手。
「令嬢。始発の時間だ」
「……前世のわたくしは、誰にも見送られずに倒れました」
彼は何も言いませんでした。
「組んだダイヤは翌日も動いて、誰もわたくしがいないことに気づかなかった。……気づかれないのが、いい仕事だと思っておりました」
「手を出せ。いいから」
わたくしは印を握りしめ、その手に自分の手を重ねました。
十二年、ひとりで印を押し続けた指先に、他人の体温が触れます。
「……温かいのですね」
「胼胝だらけだがな」
そして、生まれて初めて――前世を含めて初めて、わたくしは笑いました。
「ええ」
夜明けの風が、藍を白へ押し開いていきます。
「わたくしの港の、始発です」




