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Day2

 夢だったらよかったのになあ……

保健室のベッドで仰向けになって、誰に言うともなくあたしは呟いた。


 不幸が身に降りかかった時は、いつもそんなことを考える。

これが夢ならいいのに、って。

目の前で起こってることが、ぜんぶただの悪い夢だったらいいのに。

ふと目が覚めて、それで何もかも無かったことになってくれればいいのに。


 パパが自殺したときも、ママがへんな男と付き合った時も、新しい家族に馴染めなかったときも。

いつだってあたしはそう。

これが夢ならいいのに、ぜんぶ嘘ならいいのに……とか言っていた。

もちろん今だって。


 ……有紀は生きているような気がしてならない。

ぜったいに、どこかで生きているとしか思えなかった。

有紀がいないなんて信じられなかった。

そんなことありえるわけがない。

嘘だとしか思えない。

悪戯だ。

おもしろくない冗談。


 ……なわけないのに。

有紀はもういないのに。

殺されたのに。

どこかの知らない誰かに、

腹を裂かれて、喉を裂かれて、レイプされて、蹂躙されて、

まるで子供が玩具を壊してしまうみたいな具合で、殺されたのに。


 あたしは有紀の死体を見たのに。

有紀をこの目で見たのに。

殺された有紀を、もう有紀とさえ呼べない何かをこの目で見たのに。

救急車が来て、警察が来て、それで、有紀がどっかに運ばれていくのを見たのに。


 それでもやっぱり信じられなかった。

だって信じられるはずがない。

有紀は、きのうまでしっかり生きていた。

あたしたちと一緒に歌ったし、一緒に全日本進出を祝ったし、一緒に喋ったし笑ったし「また明日」って言ってくれた。


 だけど、今日はもういない。

きのう有紀と別れてから、まだ一日、いや半日も経っていないのに。


 だけど、もう、いない……


 ……隣のベッドからは、屯倉の声が聞こえている。

屯倉の泣いてる声。

すすり泣いているかと思えば、急に大声で泣きじゃくりはじめたり、いきなり声を潜めたり。

すごく不安定な泣き声。


 あたしたちが保健室に来たのが8時で、あれからもう三時間くらい経つけど、その間、屯倉はずっとそうしていた。

泣くことしか能のない器械にでもなってしまったみたいに、泣くだけの生物になってしまったみたいに、屯倉はずっと泣いていた。


 あたしは……

もう泣く気力もなかった。

眼からは涙がこぼれてきて止められないけど、それは泣いてるってより水が眼から出てきてる、って感じ。


 何を考えていいのかわからなかった。

自分が今、何を考えていればいいのかわからない。

悲しいのだけは確か。

それ以外には何もわからない。


 なんていうか、心のどこか大事な部分が破損してしまったって感じ。

なにも感じられない。

まとまったことが考えられない。

点になってしまったみたい。

思考することのできない、ただの点。


 あたしは三時間、ずっとそんな状態だった。

そのあいだ、ずっと反復するように、頭のなかを駆け巡っていた。

夢だったらいいのに、夢だったらいいのに、って気持ちだけが。


 ……あれから、もちろん朝練は中止になって、あたしたちはいったん解散した。

他の部員たちはいったん個々の教室へ向かったけど……

あたしと屯倉だけ、いつの間にか保健室にいた。


 どうして保健室に来たのかはよく覚えていない。

保健室にいることだけは確か。

確かだと思う。

きっと。


 記憶は曖昧で、フィルムを切り刻んだように断片的。

ただ、有紀の身体が運ばれていく瞬間だったり……

藤島が半狂乱みたいに泣いてしまって友達に抱き寄せられてたこととか、保健室に来たとき8時だったこととか、そういうことだけは辛うじて覚えている。


 みんな今ごろ、どうしてるんだろう。

藤島たちは……

いつも通り授業受けてるんだろうか。

それとも授業は中止になって、休校にでもなったんだろうか。

早退した子なんかもいるんだろうか。


 何もわからなかった。

まるで世界から隔離されてしまったみたいに、あたしと屯倉は孤立していた。


 そんなとき。

ふいにドアが開いた。

ドアが開いて……知ってる顔が中に入ってきた。


 でも誰だっけ。

誰だっけこいつ……

明らかに知ってるヤツなはずなのに、名前が浮かんでこない。

どう考えてもお互い顔は見知ってるはずなのに。

えっと……


「河瀬先輩、屯倉先輩、おはようございます」


 そいつは、いつも通り礼儀正しく、あたしたちに向かってお辞儀をした。

ベッドに寝てるヤツに向かってお辞儀するってのも、なんていうか、変だなあ……


 だけど彼女はあたしの混乱にかまわず言葉を接ぐ。


「南原先生からの伝言です。昼休みに臨時ミーティングを行うから、部員は全員集まるように、とのことです。もちろん、先輩たちも……聞いてますか?先輩?」


 さっきまで泣き続けていた屯倉が、涙を拭いながらベッドから出てきた。

眼は真っ赤に充血していて、なんだか腫れぼったい。

ヤツは声を震わせながらも、その後輩に応えていう。


「……わかった。伝えてくれてありがとう。場所は?」


「第一音楽室です。……大丈夫ですか、先輩」


 その後輩は、いつもなら鉄面皮みたいに表情の変化に乏しかったような気がする。

だけど、今日ばかりはさすがにショックを受けているようで、顔がどこかひきつっていて……

そして、あたしたちを憐憫しているようにも見えた。


「うん、大丈夫、大丈夫だから、心配しないで」


「……では、私はこれで」


 そう言ってから、後輩は、すこし躊躇したあとで、どこかに行ってしまった。


「ほら、榎並、昼休みに第一音楽室だって。聞いてる?ねえ、榎並」


 あたしは答えようとしたけど、脳の回転が言葉に追いつかなくて、マトモなことが言えなかった。

声も心なしか細くなってしまう。


「……なに、……なんか言った?……」


「だから、昼休みに、第一音楽室」


「……ん……」


「榎並、大丈夫?ねえ、榎並、しっかりして」


「……あ……うん、平気平気……誰だっけ?」


「えっ?」


「いや、あの子、さ、さっきこ、こここに来た子、だ、誰だっけ、って」


「……ごめん榎並、よく聞きとれなかったんだけど、もう一度お願い」


「だから、さっきの子、誰だっけ」


「さっき……って、三峰さんのこと?」


「あ……ああ、ああー、うん、そっか、そうだった」


 そっか、アイツは三峰名緒子だ。

アイツとは何遍も言葉を交わしたことがあるはずなのに、どうして忘れてたんだろう。

っていうかパートも同じなのに。

子どもの頃から合唱やってて親は指導者だとかで、歌が上手いんだけど、ちょっと近寄りがたくて、軍卒を思わせるほど生真面目で、ウチの合唱部には似合わないような子。


 あたしがそんなことをボンヤリ思い出しているうち、みるみる屯倉は不安げな目つきになっていった。

あたしにいきなり抱きついてきて、呪文でも唱えるような調子で囁く。


「ねえ榎並しっかりしてよぉ……榎並まで変になっちゃったら、私、私」


 屯倉には、あたしが変になってしまったように見えてるのだろうか。

だけど、ヘンにはなってない。

いや、なってるかもしれない。

わからない。

ぜんぶわからない。


「あたし……べつに、変になんかなってない……けど……」


「榎並……榎並ぃ」


 屯倉はあたしを抱きしめたままで、また泣き始める。

あたしはどうすればいいのかわからなくて、ただされるがままになって……

屯倉に全体重を預けて、もたれかかった。


 あたしは変になんかなってない。

なってないけど、なんていうか……

休みたい。

いったん脳を止めたい。

どこかに逃げたい。

どこでもいいから、逃げる場所が欲しい。


 それから、どれくらいそうしていたのかは、よく覚えてないけど。

ずいぶん長い時間、あたしたちは二人でそうしていた。


◇◇◇


 しばらくして、校長先生から臨時の放送があった。

校長先生曰く、今日の授業はぜんぶいったん中止にして、全校休校になるらしい。

午後からは警察の捜査が入るので、生徒は学校内に立ち入れなくなる。


 顧問の南原は、昼休みに一音でミーティングするつもりだったらしいけど……

休校になってしまった以上はミーティングだって中止だろう。


 あたしと屯倉も、いつまでも保健室にとどまってるわけにはいかなかった。

それぞれ鞄を手に取って、保健室をあとにする。


 そのころには、あたしたちはちょっと落ち着いて、いくぶんかは冷静な思考ができるようになってた。

もちろん悲しみが癒えたわけじゃない。

なんていうか、さっきまでは頭が完全にぶっ壊れてたのが、ちょっとだけマトモになってきた、って感じ。


 保健室を出てしばらく歩いていたら、また合唱部の子に出くわした。

三峰じゃなくて別の子だし、今度は同学年。


 こいつは黒崎加耶子だ。

そんなに仲良くもないしパートも別だけど、3年間ずっと顔を突き合わせてきたので名前と顔くらいはフルネームで覚えていた。


 ちょっと暗い子だけど、勉強がすっごくできて歌も上手い。

顔そのものも学校内じゃ可愛いほう。

はかなげな美少女、とかいう言葉があるけど、まさにそれが一発で当てはまりそうな顔。


 あたしが男子だったらぜったい好きになってた。

というか男子じゃなくても好きになってしまいそうだ。

あたしは内心ひそかに嫉妬している。


 いまはショートボブにバッサリ切ってしまってるけど、二年生までは腰まで届くくらいのロングで、しかも髪がすっごいツヤツヤしていた。


 その黒崎加耶子は髪をいじくりながら、あたしたちを呼び止めた。


「ねえ、待って」


 呼び止められた以上は無視するわけにもいかないので、あたしは仕方なく振り向く。

ワンテンポ遅れて屯倉も立ち止まった。


「なに?なんか用事?」


 黒崎は、相変わらず感情の見えない表情のまま言った。


「ミーティング、あるらしいよ。一音で、いまからすぐ」


 ミーティング、ってのは言わずもがな合唱部のミーティングのことだと思う。

でも、いまからって……

もう今日は休校になったんじゃないの?


「ほんとに?誰から聞いた?」


 あたしの質問を疑りとして解釈したのか、黒崎は間髪入れずに


「嘘はついてないの。担任から聞いたから。ほら、わたしの担任、南原先生でしょ」


って言った。


 そっか。

黒崎って1組だったんだ。

南原は合唱部顧問。


「そっか、わかった。ありがとう黒崎さん、教えてくれて」


「べつに。気にしないで」


 黒崎はそれだけ言い残すと、さっさと階段のほうへ歩き去ってしまった。


「あたしたちも行こっか、屯倉」


 屯倉にそう言ってみたら屯倉は頷いたけど、すぐに不審げな顔になる。


「だけど、今日は休校なんでしょ?今からミーティングって……なに考えてんのあの先生」


「知らないよあたしに訊かれたって……南原の思考なんて常人には理解不能だからさ、ほら、行こう」


 屯倉の手を引っ張って、なかば無理やり歩きだし、一音へ向かう。


 道中、何人かの部員とすれ違った。

その誰もが、みんなどこか沈んだ表情をしている。


 南高合唱部において有紀はほとんど神みたいな存在だった。

神っていうといいすぎかもしれないけど、少なくとも絶対主義国家の元首くらいには求心力があった。

前にも言った気がするけど、有紀のために合唱部を続けてきた子はたくさんいる。

あたしだってその一人。


 だから今、みんなはきっと、国王が暗殺されたときの臣民みたいな気持ちなんだと思う。

あたしや屯倉にとっては、部長である以前に大事な友達だったから、それどころじゃないけど。


 一音に入ると、もうそこにはだいたいの部員がそろっていた。

どうやら皆あたしたちを待っていたらしい。

藤島や三峰の姿もある。

あんなに泣きじゃくってた藤島も今では落ち着いていて、とはいえ眼は真っ赤だし時々鼻をすすっていた。


 教壇には顧問の南原律彦が立っていて、ちょっと離れた位置に副顧問の野々原先生がいる。

南原は部員が全員揃ったことを見て取ると、いつもの甲高い早口で喋りはじめた。


 髪はボサボサだし無精髭も生やし放題で、中年なんだか若いんだか、どことなく年齢不詳感があるそいつ。

イケメンとはいえない顔だけど一部の女子には人気があるらしい。

眼は小さめだけどいつも見開かれていて、薬物でもキメてるんじゃないかと思うくらいに目力が強い。


「えー、じゃあね、全員揃ったみたいなんで、ミーティングをはじめていきたいと思うんですけどね。……まずみなさん」


 南原はいったん言葉を区切ってから続ける。


「皆さん知っての通り、部長の向井有紀さんは、昨日……いや、本日か。本日でいいんだよね?……学校内で遺体で発見されました。これはね、私としても全く予期してなかった事態で、大変に当惑しているところなんですけどね」


 誰かのすすり泣く声が聞こえてきたけど、構わずに南原は喋る。


「とはいえ、ね、昨日われわれは地方大会を突破したじゃないですか。ようやく全日本への切符を手にできたというところなんですよ。

そういう局面に来てだよね、部長に死なれたからって『はいじゃあ合唱部はいったん休部します』とかそういうわけにもいかないですよね?……でしょ?そうじゃないですか?」


 ……ああ、やっぱり。

南原だったら絶対こう言いだすと思っていた。

南原には人の心がないんだ。

いままでさんざん、あたしたちをパワハラまがいの強権で抑えつけてきた南原には。


 あたしたちのことなんて人間扱いしてないのかなこの先生……

じぶんの指導してる合唱部の部員が殺されたっていうのに、南原は特に悲しいともショックだとも思わないらしい。

いや、あたしたちにそんなそぶりを見せてないだけで内心では悲しんでるかもしんないけどね。

だけど、そんなことより大会の方が大事だ、とでも言いたげ。


「ですからね、今日のミーティングでは、みなさんに、部長代理をだれにするか決定してもらいたいと思います。

つまり向井さんの代わりに部長職を引き継いでくれる方をですね。そして明日からは通常通り練習を再開します。

わかりましたか?では、これ以降の司会進行は現副部長の屯倉さんにお願いしたいと思います」


 そのとき、藤島がいきなりデカい声を出した。


「なんですかそれ!?先生は、先生はなんとも思ってないんですか」


 南原は据わった目で聞き返す。


「なんとも、って何がですか?」


 藤島はちょっと言いよどんで、それからまたデカい声で言う。


「部長が、部長があんなひどい殺され方したのに、いまの先生の言い方だと、まるでそんなのどうでもいいってみたいに」


「どうでもいいなんて思ってないですよ、もちろん?だけどね、われわれの目標って全日本で金賞を取ることじゃないですか。そのためには一秒だって無駄にできないんですよ」


「だけど……」


「なんですか?何か言いたいことがあるならはっきり言ってくれないと、ね、わかりませんから」


「私、部長がいるから、有紀先輩がいるからずっと合唱部続けてきたんですよ!?やめたいって思ったこともあるけど、先輩がいたから……

先輩がいないのに全日本なんて行ったって」


「それはあなた個人がそうだった、ってだけですよね?個人の問題を、部活に持ち込まないでもらえませんか?そういうの迷惑なんですよ」


「私だけじゃないです、有紀先輩のおかげで合唱続けてた子なんて、他にもたくさん」


「じゃあ全日本を目指すの辞めるんですか?今、ここで。あなたは。ああ、そうですか、そうなんですね。

いいですよ全然、止めませんよ、止めない止めない。


止めないけどね、あなたが全日本を目指したくないなら、退部してください、ね、わかりましたか?全日本金賞を目指さない部員ってね、ウチの合唱部には必要ありませんから。

や、べつにやめたいなら今すぐにでもやめていいですよ?所詮たかが部活の大会ですし、あなたの自由にしてください」


「先生が決めることじゃないです、そんなの、合唱部は先生のものじゃないんですよ」


 二人が言い争ううち、なんともいえない気まずさが部屋いっぱいに沈殿していく。


 みんなはきっと、多くが藤島と同じ思いだったはずだ。

南原はパワハラ野郎だから部員間の支持は低い。

いちおうは実力のある教師で、もうずっと前から南高にいるらしいけど……

だからってムカつくパワハラ教師であることには変わりないんだ。


 実質的に部を支配してきたのは、南原じゃなくて生徒たち。

とくにあたしたちの代は、ほとんど有紀のワンマン運営といっても過言じゃなかった。

あたしや屯倉なんて、いてもいなくてもあんまり運営には関係ない。

ただ、有紀だけが……


 有紀がいなくなって南原だけが支配者として君臨してるいま、全日本を目指す理由なんてない。

みんな有紀に扇動されて目指してただけなんだから。


 とはいえ、ただの部員でしかないあたしたちが南原に逆らったところで勝てるわけもなかった。

南原は腐っても顧問だから、独断で部をどうとでもできてしまう。

部長代理をだれにするかだって、あたしたちが決めなきゃ南原が勝手に決めてしまうだけのことだ。


 みんなそれをわかっていたので、可哀想なことに藤島へ加勢する子は誰もいなかった。


「部が自分のものだなんて思ってませんよ、もちろん?

ただね、全日本を今ここで諦めるわけにはいかないじゃないですか?それだけなんですけどねえ、理解できないんですかねえ」


「それはわかりますけど……」


「私はですね、生徒の自主性を重んじてますから。ね、ですからみなさんで部長代理を誰にするか決めてください、では屯倉さん、お願いします」


 自主性を尊重してるなんてのは嘘だった。

南原は最初から、全日本で金賞を取ることしか頭にない。

さっき南原自身が白状してたように、そのために邪魔な部員は要らない、切り捨てるって主義。

たかが部活の大会、っていうのは切り捨てるための方便で、南原の本心じゃない。


 表向きは放任主義のポーズを取ることで、あたかも自主性を重んじてるように見せかけてるだけ。

あくまで南原にとって都合のいい範囲での自主性。

そこから一歩でもはみ出すことは許されない。


 ……それから、仕方なく屯倉は教壇へ向かった。

さすがに屯倉だけを壇上に立たせるのは心もとなかったので、あたしも一緒に向かう。


「……じゃあ、いまから、部長代理をだれにするか、決めていきます……まず何人かに立候補してもらって、その中から多数決ってことで、いいよね」


 そこでまた南原が横やりをはさむ。


「いや、そういうやり方なんだったらね、私が候補を何人か上げますから。その中から多数決で決めてください。いいですね」


 いいですね、と訊いて、同意を確かめないまま南原は黒板に舞い戻った。

それからチョークで何やら書いていく。

あたしたちは何もできず、ただ書き続ける南原をずっと眺めていた。


 書き終わった後の黒板には、幾人かの氏名があった。

そのなかには屯倉の名前もあったし、黒崎もいたし、二年生なのになぜか三峰も書かれていたし……

そして、あたしもいた。


 それを見てすぐ、黒崎が手を挙げる。


「なんですか黒崎さん」


 やっぱり感情の見えない顔のまま言った。


「部長代理は、私には荷が重いので辞退したいんですが」


「えーいやね、そういうわけにもいきませんよ?部員の総意で決めることですからね」


「私自身の意志は尊重されないということですか?」


「個人の意志よりも総意の方が重要ですよ。

そうじゃないですか?そうでしょ?

え、何、先生なにか間違ったこと言ってますか?言ってませんよね?言ってないでしょ?」


 黒崎はそれで引き下がってしまったけど、藤島がすぐ野次をはさむ。


「三峰さんって二年生ですよね?なんで名前があるんですか」


「二年生ですけどね、彼女にはとりわけ実力がありますから」


「二年生に部長やらせるなんて聞いたことないです……ねえ、三峰さんはそれでいいの?」


 そう訊かれた三峰は存外自信にあふれた顔で、


「私は先生の判断に従います」


 とだけ言った。


 ああ、たしか三峰って南原のこと贔屓してるんだっけ。

尊敬してるって公言さえしてた。

南原なんかのどこに尊敬要素があるんだか全然わからないけど。


 とはいえ三峰はどう頑張っても選ばれないと思う。

三峰にはたしかに実力がある、あたしたちなんかより何倍もある。

とはいえ、あいつはその有りすぎる実力ゆえに一部で嫌われてるんだ。

性格だって軍卒みたいだから人を寄せ付けないし。


 それからは誰も反論者が出なかったので、けっきょくそのまま、多数決が行われることになった。


「はい、じゃあ皆さん、顔を伏せてください」


 候補者以外の部員には顔を伏せさせて、その状態で手を挙げさせる。

公平を期すための典型的な手法だ。

つっても、はじめから南原の恣意が入りまくってる選挙な時点で公平もなにもないんだけど。


 ……そのとき、あたしは正直、油断していた。

順当に行けば部長になるのは屯倉だ。

屯倉以外が部長になるシナリオは万に一つもない。


 正直、挙げられた候補者のなかには、部長になれるほど求心力があるヤツなんか誰もいなかった。

どれも部のなかで比較的目立ってる部員ばかりだけど、有紀の代わりなんか務まるわけがない。


 だから、副部長の屯倉がそのまま部長へスライドするに決まっていた。

そうだとばかり思っていた。


 ……だから、選挙結果が出そろったときも、あたしはぜんぜん嬉しくなかった。

嬉しいわけがない。

どっちかっていうと地獄に突き落とされたみたいな気分。


「じゃあ皆さん、顔を上げてください……」


 屯倉が言って、みんなは顔を上げる。


「では、投票の結果……

部長代理は、河瀬榎並さんに決定しました」


 それから、しばらく静寂があたしたちを包む。

あたしはどんな表情をしていればいいのかわからず、ただ俯いて床を眺めた。


 みんなの顔を見るのが怖くて仕方がなかった。

これ以上ここにいたくなかった。

逃げたかった。

今すぐにここから逃げ出したかった。


 ……そっと屯倉があたしの手を握ってくれる。

あたしの気持ちを察してくれたんだろう。

いまこの場で、あたしが信頼できる存在はもう屯倉しかいない。

外はみんな、敵対者。


「はい、じゃあね、そういうことになりましたから、いいですね?皆さん。じゃあ河瀬さん、新部長から一言、なにかお願いします」


 沈黙を破るように南原は無神経な声を響かせた。


 だけどあたしはなにも言えなかった。

鼓動が速くなって、身体中が汗ばんで、視界がグラグラする。

空間から色が抜け落ちていくような気がした。

逃げたい。

逃げたい。

逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい。


 できるわけない。

あたしに有紀の代わりはできない。

あたしは有紀にはなれない。

きっとみんなそう思っている。


 きっとみんな、思っている。

なんでこいつが部長なんだよって。

なんでこいつが有紀の代わりなんだよって。

こんなヤツ、信頼できないって。

こんなヤツについてけないって。

こんなヤツと一緒に合唱なんかやりたくないって。

こんなヤツと一緒に全日本なんか出たくないって……


 ……そんな様子を見て取ってか、南原は言った。


「では、これで部長代理決定選挙を終了するので、皆さん拍手してあげてください」


 まばらに拍手が起こる。

やがて、ゆっくりと音数が増えていって、第一音楽室のなかを包み込んでいく。

その拍手は呪いに聴こえた。


 まるで、罵倒のように。

あたしに対する、

罵倒。

嫌悪。

拒絶。

不信。

否定。


 ……あたしなんかいらないのに。

あたしなんか合唱部にはいらないのに。

いてもいなくても変わらないのに。

ここにいる必要がないのに。

いなくてもいいのに。

いない方がいいのに。


 有紀の代わりになんか、ならないのに。

有紀にいつも引っ付いてただけのゴミでしかないのに。

雑誌の要らない付録みたいな、ゴミなのに。


 ……それからあたしたちはいったん解散して、ほとんどの部員は教室から出て行って……

先生たちも出て行って、あとにはあたしと屯倉と、あと数人の部員が残った。


 屯倉はあたしを抱き寄せながら言ってくれる。


「私、榎並のこと全力で助けてあげるから。私だけは絶対、榎並の味方だから、みんなが何言ったって、私が守ってあげるから。二人で頑張ろう、ねっ」


 ……嘘つけ。

アンタ本当は安堵してんじゃないの?

自分が部長に選ばれるの回避できて、あたしにぜんぶ押し付けられて、安堵してんじゃないの?

ねえ、わかるんだよ、そういうの。

あたしがわからないとでも思ってんの……?


 ……どうしてもそんな考えがよぎってしまって、あたしはつくづく自分が嫌になった。

屯倉はあたしと違う。

そんな性格悪いこと考えるわけない。

いや、もし屯倉がそんなことを考えていたとしても、それは責めるようなことじゃない。


 だって、あたしだって、ぜんぶ屯倉に押し付けて責任逃れするつもりだったんだから。

部長代理なんて屯倉に押し付けてしまえばいいと思っていた。

押し付けて、それで大切な友達が傷ついていくのを安全圏から眺めて、ときどき無責任な励ましの言葉を贈るつもりだった。


 あたしはゴミだ。

ゴミだから有紀の代わりになる資格はない。

ゴミだから屯倉に助けてもらう資格もない。

存在価値も、ここにいる意義も、なにもない。


「私も先輩のこと助けますから!ぜったい、守ってあげますから」


 藤島もそう言ってくれる。

そんな価値あたしにはないのに。

守る価値なんてこれっぽっちもないのに。


 ……そのとき、三峰がつかつかと歩み寄ってきて、そして言った。

あたしじゃなく屯倉に。


「副部長、はっきり言わせてもらいますけど、この人に部長が務まるとは思えません」


「ちょっと三峰さん、先輩に向かって……」


「河瀬先輩は尊敬できる人ですが、部長の器にはないと思います。そのことはご本人が一番理解しているはずです」


「じゃあ何?自分が部長に選ばれるべきだったとでも言いたいわけ!?三峰さんはさっ!」


「……河瀬先輩よりは、私の方が適任だと思います」


「ちょっとあんたねぇ、調子乗んのもいい加減に」


「……あたし、死ねばよかったんだ」


 ふいに口をついて、そんな言葉が出てしまった。

みんなは度肝を抜かれたように黙り込んでしまう。


 一度口に出してしまうと止まらなくて、あたしは吐き出すようにグダグダと呟いた。

もう涙は出なくて、代わりに乾いた笑いが漏れ出てしまう。

じぶんがなんで笑ってるのか全然理解できなかった。

たぶん、自分自身の惨めさが滑稽すぎたんだろう。


「あたしが死ねばよかったんだよ、有紀じゃなくてさぁ、そうだよねえ?そう思ってるでしょみんな、三峰さんだってさあ」


「そんなこと思ってないですけど。河瀬先輩、何言って……」


「あたし死んだほうが良かったんだよ、有紀の代わりに殺されてればよかったんだよ。そしたらみんなハッピーだったんだよ、だってさ、あたしが殺されたって悲しんでくれないじゃん、きっと誰も」


「そんなわけないじゃない!榎並、アンタやっぱり変よ」


「殺してよぉっ……殺してぇ……殺してよ、お願いだから、だれか殺してよ、あたしを、死なせてよぉ……」


「先輩、しっかり」


「もう生きてたくないよぉ、もうこれ以上生きてたくないよぉっ、だって、もう有紀いないのに、有紀いないのに生きてる意味ないよ、有紀のいない世界でなんか生きてたくないよぉ」


「……榎並……」


「死にたい……死にたい死にたい、有紀と一緒に死にたい……死にたい……」


 ……三峰さんは呆れたような憐れむような目であたしを見下ろすと、何も言わずどこかへ行ってしまった。

藤島はあたしの背中をさすってくれたけど、どこかやっぱり憐憫するような目つき。


 屯倉だけは、何も言わずにあたしをずっと抱きしめてくれた。


 その日、あたしは部長にされてしまった。

有紀の代わりに。

代わりの部長になってしまった。


 できるわけないのに。

有紀の代わりなんか、あたしにできるわけないのに……

有紀になんかなれるわけないのに。


 だって、あたしは、いまにも壊れてしまいそうなのに。

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