7 この味、国家転覆級
リュシエルが国外追放され、ひと月が過ぎた。
――王宮・第二戦略会議室。
昼下がりの柔らかな陽が窓辺のステンドグラスを通して机上に模様を落としていたが、部屋の中に和やかな空気はなかった。高官たちの顔は一様に険しく、机の上には地図と報告書が山積みされていた。
「……決定的ですな」
王国軍参謀長のセルディオ公爵が低く声を落とす。
「北東域"獣の森"にて、複数種のモンスターが"協調行動"を取っているという報告が確定しました。確認数は八十体を超え、いずれも通常個体より明らかに行動知能が高いです」
「縄張りを無視し、外来種との衝突も見られない。何か共通の目的があるのか……いや、統率者が存在するような……」
「統率者など、モンスターにあるはずがなかろう。精霊種でもあるまいし」
重臣の一人が吐き捨てるように言ったが、隣にいた魔術研究院長が表情を歪める。
「いえ、過去に例がないとは申しません。例えば、魔王の伝承のいくつかには――」
「やめろ。おとぎ話を持ち出すのは今ではない」
「……しかし、そのおとぎ話がまさに今、現実になろうとしているのです」
沈黙が落ちる。誰もがこの異変をただの"偶然とは思っていなかった。
その沈黙を破ったのは、ロイヒルト第三王子だった。
「群れの中心に"人の痕跡"があったというのは、事実か?」
「はい、殿下。調査隊の報告によれば、調理の痕跡、薪の使用、食材の残滓……"食事の準備"のような痕跡を発見しました」
「その"食事"を……モンスターに振る舞った者がいた可能性は?」
「モンスターに、ですか!? そんなはずは――いえ、完全に否定はできませんが……」
「殿下。まさか……"あの女"の仕業だとでも?」
会議室の空気が凍った。
ロイヒルトの視線がわずかに揺らぐ。それは忌まわしい疑念に苛まれる、避けがたい問いだった。
宰相がゆっくりと口を開く。
「陛下には未報告の事案ではありますが。問題が拡大する前に、火種を摘むべきかと存じます」
「――討伐、ということか」
「異常な群れは森の外縁に迫っており、周辺村落の避難も始まっております。王国として放置はできませぬ」
机上の地図の上、赤い印で囲まれた区域が徐々に広がっていた。そこは明らかに人里との距離が近すぎる。
放っておけば、いずれ市街にまで影響することは明らかだった。
「異例とはなりますが王国第三師団に加え、魔法騎士団より討伐隊を編成。週内に討伐を開始する方向で準備を進めます」
「問題は……その中心にいる存在が、もし"リュシエル・エルゼンベルト"であった場合」
その名が出た瞬間、ロイヒルトの眉がわずかに動いた。
「彼女は既に国外追放の身。王国法の及ばぬ者であるはず」
「はい。なので、仮に彼女がモンスターの組織的動員に関与しているとすれば――」
「その時は――"敵"として対処せねばならぬ」
誰かがそう言った。重く沈む声が響き、会議室に更なる深い静寂が落ちた。
リュシエル。
かつて、ただ誰かを喜ばせたくて鍋を振るい、善意のままに歩み続けた令嬢。
その行く末を誰も止める術を持たず、ついには追放という形で手放した。
もし彼女が王国に牙を剥く存在となって立ちはだかるのなら――それは、善意が生んだ悲劇と、その責を負いきれなかった王国の皮肉な報いだった。
「準備を進めろ。だが――」
ロイヒルトは言った。
「……極力、犠牲は避けろ。あれは――"戦うための女"ではなかった」
誰にも届かない小さな声だった。
だが、その場の全員が確かにそれを聞いていた。
同時刻。
森の奥深く。日の当たらない冷たさに包まれた中、パチパチと爆ぜる橙の火が辺りを淡く照らしていた。
そこは、モンスターたちと力を合わせて作り上げた簡素な調理場。大小の石を組んで土を固めた囲いがあり、その中央にカールドロンの大鍋が据えられている。その脇には平らな岩を並べた粗末な作業台が続いている。薪の束、木の器、粗野な調理道具が周囲に集められ、森の中にわずかな温もりの灯る台所が築かれていた。
その周りで、多くのモンスターたちが木立の影からそっと、リュシエルの様子を見守っている。時折鼻先をひくつかせたり、小さく喉を鳴らしたりしていた。
カールドロンの鍋は台の上で静かに煮え、根菜と森で採れたキノコ、乾いたハーブが湯気とともに香りを立ち上らせている。リュシエルはその横で、木皿に並べた残りの根菜の泥を布でぬぐい、火加減を確かめながら、次に鍋に入れる食材の順を考えていた。
「よし……次はこれを入れて、と」
リュシエルは根菜を一つ、くつくつと煮える大鍋へと放り込んだ。
傍らではキャツレツが鼻先を鍋に近づけ、くんくんと匂いを嗅いでいる。尾が地面をぱたぱたと叩き、その期待が隠しきれない。クロウストビーフは鍋の縁を小さくくちばしでつつき、急かすような小さな鳴き声を漏らした。
「もう少し待っててね。今日は"森の香ばし根菜のポトフ風"に挑戦なの」
「ポ……ト、フ……?」
キャツレツが首を傾げ、恐る恐るその言葉を真似た。
「そう、ポトフ。お肉とか野菜を煮るだけで美味しくなる、あったか~い料理よ。きっと、鍋の中で素材たちが仲良くなるからかしらね」
モンスターたちはその言葉にうれしそうに頷き、それぞれ鍋の周りにちょこんと座り込んだ。焚き火の光にその影が揺れ、まるで家族のようにも見える。
「うんうん、あなたたちみたいに。ここも、みんなで仲良く作った場所だものね」
――ところで。リュシエルは、彼らが変わり始めていることを感じ取っていた。最初に料理を口にしたあの日から、彼らに"言葉"が宿りはじめていた。鳴き声の調子が変わり、感情に応じた身振りが増え、そして、拙くも確かに発音している――単語。
「キャツレツ、あなたが持ってきてくれた根菜……これは"コーラルタネ"って言うの。とっても甘くて、美味しいのよ?」
「コー……ラ、ル……アマ、イ、タネ……」
「うんうん、大正解! えらいわねぇ、キャツレツ」
その声に、キャツレツは胸を張るように体を起こし、うれしそうに尾を高く掲げた。
「エラ、イ……ウ、マイ、ノ……ク、レル……?」
リュシエルは思わずくすりと笑い、鍋の中身をかき混ぜながら首を横に振った。
「もう少しで煮えるから、がまん、がまんよ」
「ガ、マ……ン……」
キャツレツはその言葉を口の中で繰り返し、鍋の周りをぐるぐると回り始めた。その動きは、まるで待ちきれない子供のようだった。
クロウストビーフもくちばしで小さく火かき棒をつつき、火加減を確認するようなしぐさを見せる。リザラニアは鍋のそばでじっと身を縮め、尾の先を小さく揺らしながら煮える音に耳を澄ませていた。焚き火の音に混じって、小屋の中でスパゲェダーが糸を張り直す微かな音が聞こえてくる。
リュシエルはそんなモンスターたちを優しく見渡し、ふと夜空を見上げた。星が静かに瞬いていた。
「私ね? これまで、ある程度のことは何でもできたの。でも――料理だけはちょっと違ったのよ」