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5 地獄からの追い風

 翌朝。

 鳥の声が薄く響く森の奥地。リュシエルは小川の水辺にしゃがみ込み、鉄兜をくるくると回しながら洗う。ふと、背後をちらりと振り返る。

 ――そこには、ぐっすりと眠るモンスターの姿があった。


「……この子、野生じゃなかったかしら……?」


 リュシエルは首を傾げて呟いた。

 キャツレツは腹を上にして寝転がり、口を半開きにしたまま小さく寝息を立てている。どう見ても野生生物の寝相ではなかった。かつて、魔導図鑑で見たモンスターたちは、どれも警戒心が強く、寝ているときでさえ片目を開いていたものもいると、彼女の記憶にはある。

 それが今、目の前のキャツレツときたら――


「まるで、お屋敷で飼われてる猫ちゃんみたいね」


 鼻をつんと指先でつついても、軽く足をばたつかせるだけで目を覚ます気配はない。安心しきった寝顔に、思わずリュシエルはくすりと笑う。


「もし王都に戻ったら、モンスター専用レストランを開いてみるのもアリね!」


 彼女は再び鉄兜を磨きはじめる。ぬめりがなかなか取れず、光沢の代わりに灰紫色のシミが染みついていた。


「……スープの跡って、意外としぶといのよね。昨日もスープだったし……その前も、その前も……あれ? もしかして私、ここのところスープばっかり?」


 リュシエルはそこでようやく今までの自分の料理傾向に気づき、頬をふくらませる。


「毎回スープばっかりじゃ流石に芸がないかしら。――よしっ、今日は炒め物にしましょう! 世界一の料理人になるなら、スープだけじゃ足りないもの」


 そう言って立ち上がると、布袋の中から昨夜使わなかった素材――白い毛がびっしり生えたキノコ、つやつやと光る黄土色の塊、謎の細い根を取り出す。……まさにその時、キャツレツの鼻がぴくりと動いた。


「うふ、起きた? 食べ物の気配に敏感ね。モンスターの本能かしら?」


 ぐぐっと前脚を伸ばして伸びをし、のそのそとリュシエルの元へと歩み寄ってきた。そして当然のように、彼女の隣に座り込む。


「ちょうどいいわ。味見役、お願いね? キャツレツ」


 キャツレツは耳をぴんと立て尻尾をぶんぶんと振り回した。瞳は期待にきらきらと輝き、鼻先をくんくんと動かしながら、今にも涎を垂らしそうな勢いで鍋を見つめる。食べられる、あの美味を口にできる――その喜びに全身が小さく震えていた。

 リュシエルはそんな姿にくすりと笑い、鉄兜の火を魔法で灯した。


「今朝の献立は――『日替わりキノコのあんかけ炒め ~森から噴き出たネバネバ仕立て~』よ。作るのは初めてだけど、私にかかれば朝飯前ね! ……朝ごはんだけに、ね?」


 彼女は満足げにドヤ顔を決めたが、キャツレツはぽかんとした顔で彼女を見つめている。


 微妙な沈黙が流れた後、リュシエルは気を取り直すように鍋に向き直り、炒めの作業を再開した。

 鉄兜の中では灰色と黄土色の具材が、じゅうじゅうと音を立てながら絡み合っていた。油に照りを帯びたそれは何とも言えない色合いで、立ちのぼる蒸気は鼻の粘膜を刺激するようなクセの強い香りを放っている。


 そのときだった。


 ――バキンッ!


 森の奥で枝を折る音が響いたかと思うと、ガサガサと茂みをかき分けて巨大な影が姿を現した。牙を剥き、複数の眼をぎらつかせたそれは、異形の蜘蛛型のモンスターだった。

 キャツレツが唸る。敵の気配を察知して前脚を地面に叩きつけた。しかし、その威嚇に応じるように、さらに左右から現れる影が。角を持つ二足歩行のトカゲ型モンスターと、黒い大きな鳥のようなモンスター。いずれも高位のモンスターであり、人里に現れれば討伐対象になる存在であることを、このときリュシエルはまだ知らない。


「まあ! もしかして、私の料理の匂いにつられて?」 


 リュシエルが嬉しそうに鉄兜を持ち上げると、その中から湯気と共に濃厚な何かの香りが広がった。


 次の瞬間。三匹のモンスターは、まるで合図でも交わしていたかのように、一斉に鉄兜へと飛びかかった。蜘蛛型のモンスターが前脚で兜をがっしり押さえつけ、トカゲ型のモンスターが舌を伸ばして中身を啜り、鳥型がくちばしで兜ごとがぶりと丸ごと咥えた。


「えっ! ちょっと、待っ――」


 リュシエルの制止の声も届かぬうちに、ごしゃあっ、と音を立てて、鉄兜は三者三様の攻撃により引き裂かれる。そして、ぺしゃんこに潰され、瞬く間にモンスターたちの胃袋へと消えていった。

 中身と共に――。


「そんな……まだ隠し味、入れてなかったのに……」


 飛び散った残滓だけがその場に取り残され、呆然と立ち尽くすリュシエル。そんな彼女の隣で、キャツレツはずっとその一部始終を見ていた。料理に対する狂気じみた執着――血走った目、だらしなく垂れる涎、荒く波打つ息遣い。三匹は皿の破片をかき集め、ただ無心に貪り続けていた。


 まるで過去の写し鏡を見せられたかのように、キャツレツは引きつった顔で三匹を見つめていた。自分がどれほど恍惚と貪っていたか、第三者視点で今ようやく理解したのだ。 


 一方で、リュシエルはしゃがみ込み、地面にこぼれた数片の炒め物を手ですくいながらしょんぼりと呟いた。


「今日は炒め物にしようと張り切ってたのに……鍋も食材も、なくなっちゃった……」


 それを見たキャツレツがハッと我に返り、三匹のモンスターの前に立ちふさがる。


「ギャゥッ!!」


 彼の一喝するような怒りの声に、蜘蛛、トカゲ、鳥の三匹はぴたりと動きを止めた。モンスター同士であればいつ、ここで争いが始まっても不思議ではない。


「クギィ……」「グルゥゥ……」「……コゥゥ……」


 ――しかし、三匹はそれぞれ顔を伏せ、申し訳なさそうにうつむいた。まるで、反省しているかのように。縄張り、食料、優先順位。彼らの社会ではそれが全てだったはずなのに。

 だが、三匹は争わなかった。それほどまでにリュシエルの料理はモンスターの"精神"に作用するのか――それは、もはや依存の範疇ではなかった。


 その時、黒い鳥のモンスターがすっとリュシエルのそばへ寄り、裾をくちばしでついばんだ。


「……ん? なぁに?」


 くいくい、と引っ張る。


「ついてきて、ってことかしら?」


 彼女は引かれるように歩み出る。促されるまま森の奥へと進むと――そこには、半ば苔むした"古びた小屋"がぽつんと建っていた。石造りの外壁は半ば崩れかけているが、奇跡的に原形を保っていた。

 扉は半開きで、ゆっくりと押すとギィ……という重たい音と共に開いた。中には埃をかぶったままの家具が並び、誰にも使われていない様子。


「――ッ! これって!」


 部屋の中央に鎮座するのは、脚付きの黒い――"大釜"だった。三本脚で支えられ、丸く膨らんだ胴体に刻まれたルーン文字。リュシエルが魔導理論で学んだ記憶が蘇る。


「これは……"カールドロン"。ここに住んでいた魔術師が使っていた、調合用の大鍋ね! これは料理に使えそうだわ!」


 埃を払い魔力を注ぐと、鍋の脚元に灯る小さな炎。深い鍋の底からは不思議とちょうどよい温度の気流が立ち上がる。きっと、魔力によって自動調整されるのだろう。


「さあ、もう一度……朝食を作り直しましょ!」

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