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4 やっぱり料理は愛ね

 しなやかな四肢に、流れるような筋肉をまとった獣。その身体を低く構え、全身を覆う紫の体毛を逆立てている。体長は三メートル近く。鋭く湾曲した牙が口の隙間から覗き、前足の爪は地を抉るほど鋭い。


 モンスターは獲物を狙うように、よだれを垂らしながら歩を進めてくる。しかし、リュシエルはまったく動じる様子がなかった。平然とスープをかき混ぜながら、ぽつりと呟いた。


「あらあら、あなた。もしかして……これが食べたかったのね!」


 リュシエルは微笑みを浮かべると、おもむろに鉄兜のスープから、煮えたぎる一杯をなみなみとすくいあげた。


「ひとくち、どうぞ」


 彼女は猫をあやすような手つきで、熱々のスープを差し出した。モンスターは一瞬だけ警戒する素振りを見せたが、恐る恐る……ぺろりと舌を伸ばしてそれを舐め取った。


 ……どっかん。


「グギャアアアアッ!!!!」


 まるで背中に火が点いたかのようにモンスターはその場で飛び跳ね、荒れ狂ったように地面を転げ回る。爪で地を抉り、尻尾を振り回し、紫の体毛を逆立てながら絶叫する。

 それを見たリュシエルは首をかしげた。


「火傷かしら? でも、ちゃんと冷まさずに渡した私も悪いわね。反省っ」


 ようやく転げ回る動きを止めたモンスターが、荒い息を吐きながらゆっくりと立ち上がる。血走った目でリュシエルをにらみつけ、牙を剥き出しにして唸っている。


「……ギ、ギャオ……ォォ……!」


 一歩、また一歩とリュシエルににじり寄る。その爪が地を抉るたびに土が跳ね、体毛がビリビリと逆立つ。

 リュシエルはスプーンを置きながら、悲しそうに目を細めた。


「モンスターのお口には合わなかったのかしら……」


 リュシエルの口ぶりは、まるで人間の口には合っていたと言わんばかりだった。とはいえ、それは料理の腕に自信を持つ彼女らしからぬ発言であり、料理人としての確信が、ほんのわずかに揺らいだようだった。


 そんなリュシエルの動揺など一切意に介さぬ様子で、モンスターの肩がぐっと沈む。全身の筋肉が収縮し、重心が前へと傾いた。土を踏み締める足に力がこもり、空気がぴんと張り詰める。

 ――そして、次の瞬間。


 モンスターは……うっとりとした顔で、ごろんと腹を見せた。そして舌を出し、もっと欲しいと示すかのように前脚を差し出した。


「……え?」


 目の前の巨大なモンスターは、まるで仔猫のように甘える仕草を見せている。血走った瞳は怒りではなく、味わった快楽への渇望が宿っていた。


「気に入ってくれたの?」


 リュシエルがそう問いかけると、モンスターは小さくグルルと喉を鳴らし、ぺろんと彼女の頬を舐めた。さっきまでの唸り声が嘘のように、モンスターは今やすっかり従順な犬のようだった。

 彼女はゆっくりとモンスターに近づき、再びスープをすくって差し出す。モンスターは表情を崩しながら鼻先を近づけ、一舐め、また一舐め……止まらず舐め続け、最後はごくりと飲み込んだ。


「ギャオォ……ホァアア~~ン……!」


 天を仰ぎ、まるで魂の奥底から震えるような叫びを上げるモンスター。その顔は明らかに"恍惚"の表情だった。


「よかったぁ~。これでもし味がイマイチだったら、あなたを煮込んで調整するところだったわ」


 もはや彼女の中での"料理"の概念は、常人のそれとは根本的に乖離し始めていた。そんなことはつゆ知らず、モンスターは最高の料理を提供してくれたリュシエルに顔をすり寄せてくる。


「うふふ。そんなにくっついたら、私がお料理を食べられないじゃない」


 だが、モンスターは聞く耳を持たず、ぴたりと彼女の横に身を寄せ、尻尾をブンブンと揺らしながら地面に寝転がった。スープの香が漂う鉄兜を片手に立ち上がろうとすると、モンスターは立ち上がって後をついてくる。しかも、ぴったり一歩分の距離を保ったまま、まるで護衛のように横に並んで。


「もう、私の味なしじゃ生きていけない体になっちゃったわね?」


 リュシエルは満足げに頷くと、モンスターの目に宿った執着の色を見逃さなかった。もう完全に自分の味に取り込まれている――その確信があった。


「ここまで夢中にさせちゃった以上、もう放っておけないわ! ……そうね、名前を決めてあげましょう。キャツレツ――ってどうかしら?」


 モンスターは「ギャオッ」と鳴いた。肯定なのか否かは不明だったが、


「決まりね! 今日からあなたはキャツレツよ。よろしくね、キャツレツ!」


 と、半ば強制的に。そう言って彼女は、鉄兜の中身を全て惜しげもなくキャツレツの前に差し出した。鉄兜の縁をつたって流れ出した液体は、キャツレツの足元にどろりと広がり……じゅう、と小さく音を立てて周りを溶かしていく。彼は目を見開き、液体の中に沈みかけたぬめぬめ光る物体や、青黒く脈打つ固く尖った欠片、さらには正体不明の足のようなものを、迷いなく舌で巻き取った。


 ごくん。音を立てて飲み込むと、キャツレツはうっとりとした声を漏らしながら、鉄兜の底にへばりつく最後の一滴まで、丁寧に舐め取っていく。


「まあ、育ち盛りね! あとでデザートも作ってあげちゃうから!」


 キャツレツは鼻を鳴らしながら、再び彼女の膝元にぴたりと身を横たえた。腹はほんのりと膨らみ、舌は脱力しきったように垂れ下がっている。


 ――彼女はまだ気づいていなかった。今、隣で甘えるモンスターが、既に自らの意志で"従属"を選んだことに。それは、餌付けなどという次元を超えた、"契約"に近い依存。この出会いが後に、世界を巻き込むほどの数奇な運命を呼び込むことなど……知る由もなかった。

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