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2 煮詰まったのは関係でした

 大理石の床が、場に集う貴族たちの重厚な気配を飲み込んでいた。


 ここは、王都の中央にある大広間。王家が国の重大事を伝える場であり、今ここに、王家にまつわる重要な儀が執り行われようとしている。壇上に立つのは、王国第三王子ロイヒルト・エグレストン。儀礼用の正装を身にまとったその姿は、いつにも増して引き締まっていたが、その眼差しはどこか硬く決意を滲ませていた。

 その隣には、彼の婚約者である北方の名門・エルゼンベルト公爵家の一人娘――リュシエルの姿。だが彼女は、この場に満ちる張り詰めた緊張とはまるで無縁のように、どこか浮き立った様子で王子を見つめていた。


「ねえ、ロイヒルト様。こんなに大きな広間で……もしかして、私たちの正式な婚約発表ということかしら? ふふ、いよいよね」


 彼女の声は明るく無邪気だった。その問いに、ロイヒルトは短く目を閉じた。耳には貴族たちが交わす、かすかな囁き声が入ってくる。


『まさか本当に……』


『いやはや、あの王子があそこまでハッキリと動くとは』


『彼女には何も伝えていないのか?』


 場に居並ぶ貴族たちの視線が、やがて一つの焦点に集まり始める。そして宰相が前に進み、儀式の開式を告げた。


「本日は、王家と北方大公家との縁談に関わる大事な報せがございます。……第三王子ロイヒルト殿下より、直々にご発言がございます」


 静まり返る大広間。リュシエルは、まだ微笑みを浮かべたままだ。まるで、花嫁の祝辞を待つように。

 ロイヒルトは一歩前へ進み、はっきりとその名を口にした。


「リュシエル・エルゼンベルト」


「はいっ!」


 彼女は嬉々として返事をする。


「ロイヒルト・エグレストンは、この場をもって――お前との婚約をここに破棄する」


「………………え?」


 時が止まった。

 リュシエルは一拍置き、戸惑いを含んだ笑みを浮かべた。


「もう、そんな風に驚かすなんてひどいわ。冗談にしては少し冷たいかしら」


 だが、ロイヒルトは一切の表情を変えなかった。ただ、静かに彼女を見ている。

 その様子に、ようやく異変を察したのだろう。リュシエルの笑みが、ゆっくりと揺らぎはじめた。


「ロイヒルト様、冗談……よね? 私、何かいけないこと、しちゃったかしら?」


「……では、王家として正式に告げよう。お前との婚姻は不適当である、と」


「――ッ! どうして!?」


 リュシエルの声が裏返る。大広間にざわめきが走る中、ロイヒルトはほんのわずかに目を伏せた。


「理由は……お前の"料理"だ」


「え……? ま、待って……それは、どういう――」


「お前の料理には明確な問題がある、と判断された。これ以上は見過ごすわけにはいかない」


 何を言われたのか、リュシエルは理解するのに数秒を要した。

 けれど、周囲の反応は早かった。あちこちから、抑えた咳払い、見え透いた動揺、ざわめき……そして何より、"納得したような視線"が彼女に注がれていた。


 リュシエルはぎゅっと胸元を押さえた。


「私の料理に一体……何が足りていなかったというの? 腕前? 工夫? ……愛情? いいえ、どれも全部足りて――」


 そして、ハッと息をのむ。彼女の顔に希望のようなものが灯る。


「……もしかして――量?」


「いやいやいやいや、勘弁してくれ……」


 ロイヒルトが眉をひそめた瞬間、列席者たちの間で低く呻く声が走った。


「――うっ!!」


 苦悶の表情が次々と広がる。『量』という言葉に、彼女の料理を経験した者たちは想像してしまったのだ――大鍋に山のように積まれるソレを。彼らは椅子にもたれ呻きながら顔を覆った。


『拷問だった……アレは料理じゃない、兵器だ!』


『緑の粘液が皿から逃げ出したの……私の目の前で……』


『神よ……災いの鍋は再び煮えたぎっております。いま一度、聖なる導きを』


 呻き声に満ちる大広間。ロイヒルトはゆっくりと視線を巡らせ、苦悶に顔を歪める被害者たちの姿を見つめながら、静かに問いかけた。


「お前の料理が引き起こした、この有様を見て――どう思う?」


 リュシエルは目を閉じ、真面目な顔で頷いた。


「やっぱり、みんなの心には届いているのね。そうよ、料理って……人の記憶に残り、魂を震わせるものだもの!」


「残ってるのはトラウマで、震えてるのは恐怖からだろ」


 その健気な表情に、ロイヒルトのこめかみが引きつる。


「……話が進まん。はっきり伝えよう。お前はこの一年で五度、王城で料理をふるまった。その度に味見役の料理人が体調を崩し、侍従たちは医師の世話になった。これまでに体調を崩した者、確認されただけで二十八名。そして、俺自身も床に伏した」


「そ、そんな……私のせいで!?」


「全員共通して、お前の手料理を口にした直後に倒れている」


「…………」


「当初は、お前の善意を尊重しようと努力した。だが、誰の制止も耳に入らず、称賛と誤解したまま突き進んだ。その結果――毒を盛ったのと変わらぬ結末を迎えた」


 その言葉に、リュシエルの表情が凍りついた。


「……毒……? ち、違うわ……私、そんな……誰かを傷つけようなんて――!」


「知っている。だからこそ、長く不問にしていた」


 ロイヒルトの声は、あくまで静かだった。怒りではない。失望でもない。ただ――疲労の滲んだ、本物の諦念。


「王家の名において、お前との将来を見据えることはできない」


 リュシエルは唇をわななかせたまま、一歩も動けずにいた。彼女の中で何かが崩れていく音がした。


「――では、申し上げます」


 ゆっくりと歩を進めた宰相が一礼ののち、王家の印章が刻まれた文書を広げた。一字一句を逃さぬ厳かな口調で王国の裁定を読み上げ始める。


「リュシエル・エルゼンベルト嬢の一連の行動は、王家直系たる第三王子ロイヒルト殿下に深刻な身体的危害をもたらし、これは王国特例法『王威保全令』第一条――"王家の威信と身体に対するいかなる侵害も、最大級の敵対行為と見なす"に明確に抵触するものである。よって、リュシエル・エルゼンベルトに対し――"国外追放"の裁定を下す」


 場内がざわめいた。


『国外追放? 何もそこまで……』


『いや、当然だろう。あの王子殿下が倒れたのだぞ!』


『むしろ処刑でもおかしくない事態だった……温情だ、これは』


 囁きが渦を巻く中、リュシエルはしばらく呆然と立ち尽くしていた。――その目に、うっすらと涙が浮かんだ。


「……私……そんなに、みんなを傷つけてたのね……気づかなかった……」


 リュシエルは静かに首を垂れた。足元に落ちた視線は、床に映る自分の影さえも見えぬほどぼやけていた。胸に抱えたレシピ帳の手触りだけが、まだここに居る自分を辛うじて繋ぎとめている。

 周囲の感情が洪水となって押し寄せてくる中、彼女の足がようやく重たく動き始めた。衛兵に軽く背を押されるようにして歩き出した、その時――


「――大丈夫! キミの料理は、きっと誰かに喜んでもらえるよ!」


 突如として放たれた一言が空気を裂いた。

 場内が凍りつく。


『だ、誰だ! 災厄を助長する反逆者は!?』


『もうやめてくれ! 二度と作らないでくれッ!』


『あの鍋を……あの悪夢を決して蘇らせてはならない……』


 阿鼻叫喚の嵐を背に、リュシエルは歩みを止めなかった。

 けれど――そのたった一言だけが、まるで光の矢のように胸の奥深くまで突き刺さっていた。

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