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1 料理に謝れ

 リュシエルが特製スープをふるまった翌朝、エルゼンベルト家の食堂には異様な静けさが漂っていた。

 メイド長のセリアが銀器の手入れをしながら、何度もちらちらと入口を見やる。料理番のエルダはというと、朝から戸を閉ざして出てこない――リュシエルがまた台所に現れた証である。執事のカラムは、昨夜から胃を押さえて時折呻き声を漏らしていた。


「ふふ。みんな、今朝の献立が気になるのね?」


 そこへ登場したリュシエルは、手に自作のレシピノートを持って満面の笑みを浮かべていた。ページには、奇怪な色の液体と形容しがたい物体が描かれたスケッチが添えられている。題名は『シェフの気まぐれポタージュ ~未知なる草を添えて~』。


「今回は少しだけ冒険してみたわ。昨日の反省を踏まえて"ナメクジ草"をペースト状にして煮詰めたの。ほら、そうすれば喉越しが良くなるって言うじゃない?」


「ナ、ナメクジ草……ですか……」


「でも、ただペーストにするだけじゃ物足りないから、塩の代わりに……ええと、何だったかしら。緑の粉。そう、祖父の薬棚にあったやつを少し――」


「りょ、料理に薬品を混ぜるのはっ……!」


 思わず身を乗り出しかけたセリアを、カラムが咳込みながら制止した。


「セリア、ダメです。耐えるのです。これは我らに課された使命なのです……」


「おお……神よ……」


 彼女がそう呟いたのを聞いて、リュシエルはふわりと微笑んだ。


「そうでしょう? 神も見てくださっているのよ、私の料理への情熱を……!」


 それでも誰一人、彼女に本当のことを言わなかった。

 使用人たちは皆、知っていたのだ。いつからかリュシエルにとって料理とは"誇り"であり、台所は誰も立ち入れぬ"聖域"となっていたことを。そして、それを否定する言葉がどれほど彼女を傷つけるかも。


 しかも彼女は、皆があまりの出来に圧倒されているのだと思い込んでおり、


「今日のスープ、どうだったかしら?」


「は……はは……はい、あの……たいへん、あたたかかったです……!」


「嬉しいわ! やっぱり料理って、人の心を温めるものよね」


 返ってくる言葉がどれほど苦し紛れであろうと、彼女はそれを素直な賞賛だと信じて疑わなかった。


 ──かくして朝食は、地獄の饗宴と相成った。リュシエルの一匙を口にした者は、その異様な味と後遺症により、誰もがまともな状態ではいられなくなる。セリアは手を震わせながらロザリオを握りしめ、エルダは戸を閉ざしたまま未だ姿を見せず、カラムは腹部を押さえたまま床に崩れ落ち、それでも「完食が……礼儀……」と泣いていた。


「今日もみんな、いっぱい喜んでくれたみたいね!」


 裏庭の片隅では若い下男が青ざめた顔で、そっと胃の中のすべてを土に還していた。




 そんな日々が過ぎていく。

 リュシエルが料理をふるまうたび、使用人たちは祈り、呻き、そして倒れた。その異常さは次第に屋敷の外へと伝わり、やがて王都のあちこちで噂話となって囁かれるようになった。


『ねぇ、聞いた? 例のエルゼンベルト家の……』


『うん……"毒入り鍋のリュシエル"』


 誰がそう呼び始めたのかは定かではない。だが、気づけばそれが彼女の異名となり、街でも耳にするようになっていた。


 そして、ついに王宮にも動きが生じた。リュシエルの婚約者――王国第三王子にして、誠実で温厚と名高いロイヒルトのもとにも、彼女についての報告書が届いたのだ。それは分厚い書類だった。エルゼンベルト家の使用人たちによる匿名の証言、料理によって体調を崩した客人の記録。さらに、王子の婚約を不安視する声が、各家から相次いで寄せられていた。

 ロイヒルトは無言で書類に目を通す。その目が、一枚ごとにわずかに曇っていく。


「殿下、ご無礼を承知で申し上げますが……ご決断を」


 進言したのは王子の側近である老侍従だった。表情には怒りも軽蔑もない。ただ、深い疲労と静かな哀れみが浮かんでいた。

 だが、ロイヒルトは応じず、代わりにふと視線を逸らした。


 視線の先には小さな銀の菓子皿があった。リュシエルが以前、王宮に届けた"手作りクッキー"の残りだった。誰も手を付けられずに置かれているそれを、彼はじっと見つめていた。


「悪気なんてないのだろう。……ただ、受け止めきれない。それだけの話だ」


 そして、ゆっくりと立ち上がる。老侍従は目を伏せ、首を横に振った。

 ロイヒルトは菓子皿の前に歩み寄り、静かに一枚を手に取る。色は悪くない。形も――少し歪ではあるが、以前に比べれば整っている方だった。

 指先に重みを感じる。いや、重いのは菓子そのものではなく、それに込められた"想い"だった。誰かに喜ばれたくて、善意で、愛情で。だからこそ、突き返す方がよほど難しかった。


「……これを"興味深い味"と表現したのは、俺が最初だったな」


 彼の胸に浮かぶのは、幼いリュシエルが庭園で手渡してきた粘土細工のマカロン。歪な形に満面の笑顔を添えて差し出されたあの日、何も考えずに口にしてしまった自分。


「いただきます」


 そう呟いて口に含む様子を、老侍従は黙って見つめていた。

 ロイヒルトは表情ひとつ変えずそれを噛み、ゆっくりと喉に流し込んだ。


「──ヴォエッ!!!!」


 ロイヒルトは口元を手で押さえ、しばし沈黙したのち、ぐらりと体を揺らす。菓子皿は静かに傾き、一枚だけ残ったクッキーがカランと転がった。


「殿下……っ! 殿下――!」


 老侍従が駆け寄り背を支える。しかし、ロイヒルトの顔は真っ青で目はうつろだった。うっすらと震える唇が、かろうじて一言を漏らす。


「……すごく……ねっちょりしてた……」


「喋ってはなりませぬ、殿下! 誰か、侍医を――今すぐに!」


 老侍従の叫びが廊下に響いた。




 ──その翌日。


「ロイヒルト殿下が……倒れたと?」


「はい。例のクッキーを召し上がった後、ふらつかれて……。医師の話では、胃腸への深刻な刺激によるショック症状とのことです」


「…………」


 限界だった。

 リュシエル・エルゼンベルト――才気溢れる令嬢は、いつしか王家に仇なす存在と見なされていた。

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