ウミガメの味噌汁
菜湖が教室の扉をおもむろに開ける。胸まで伸びた艶やかな黒髪が扉を開けた衝撃で、少し揺れた。
「珊瑚、ゲームを考えた。その名も『ウミガメの味噌汁』」
その声に、教室で座っていた珊瑚はゆっくりと振り向く。
「菜湖ちゃん。ウミガメのスープじゃなくて、なんて?」
「味噌汁。『ウミガメの味噌汁』」
菜湖は珊瑚に近づいて言う。その瞳はいたって真剣なようすだ。
「ウミガメの味噌汁……。いつも思うけど、菜湖ちゃんは見た目と発言が一致しなくて頭バグるよね。初見じゃ絶対に変な奴だと見抜けない。ザ・大和撫子優等生美少女JKみたいな見た目で変なこというのやめれる?」
「ウミガメのスープの日本版なんだけど、やる?」
菜湖は珊瑚の言うことを気にも留めない様子で話を続ける。いつも通り。
「え、ちょっと待って、ウミガメのスープって日本発祥じゃなかったの?ちょっと興味湧いてきたかも」
珊瑚は菜湖が自分の発言を気にも留めていないことを気にも留めず、少し驚いた表情で食いつく。これもいつも通り。
「そう。ウミガメのスープはもともとはイギリスのビジネス書が発祥」
菜湖が淡々と答える。
「イギリスのビジネス書!?そうなんだ......。菜湖ちゃんどうしよう、私の興味がウミガメの味噌汁よりもウミガメのスープの発祥にもっていかれそうだよ」
「じゃあ、すぐ終わるからまずウミガメのスープの発祥を教える」
菜湖はかけていない眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げる動きをする。
「聞かせてもらおうか」
珊瑚はかけていない眼鏡のつるを中指で押し上げる動きをする。
「さっきも言ったけど、実はウミガメのスープはイギリスのビジネスマンが書いた本の中で紹介されたことで広まったとされているの。でも、このお話自体は、その人が考えたわけではないみたい。そのビジネスマンは”こういう推理ゲームがあるよー”っていうのを載せただけ。それがウミガメのスープの別称の”水平思考ゲーム”」
「なんか聞いたことあるかも。じゃあ、あの有名なスープのお話は誰が考えたの?」
「あの話が誕生した裏には、実はとても悲しい出来事が隠されている」
そういって菜湖は黒板へ向かって歩く。
「悲しい出来事……」
珊瑚は菜湖を目で追いかけながら唾を飲み込む。
菜湖はチョークを手に取り、黒板に文字を書き始める。
「アメリカの田舎町出身で、ハーバード大学に通うジョン・スミスという男がいたんだけど、」
「佐藤太郎みたいなやつだな」
菜湖が珊瑚を少し睨む。
珊瑚は睨み返す。
「ジョンはとても頭がよくて、大学の周りの同級生たちでさえ、レベルが低いと感じていた。大学生活の初めのうちはそれでもなんとか楽しくやっていたんだけど、次第に、どうしても同じレベルで会話をしたいと思い始めた。もっといい大学に転入するという選択肢ももちろんあったけど、ジョンは自分のことを試したくなった。自分がどうにかして周りの友達の思考力のレベルを引き上げられないか考えた」
「お、なんかウミガメのスープにつながりそうだね。今のところあんまり悲しい気配はないけど」
珊瑚が合いの手をいれ、菜湖が続ける。
「ジョンは休日に友達を集めて勉強会を開いたり、空き教室で勝手に講義をしたりして友達の勉強の手助けをしていた。でも、あがるのはテストの点数ばかりで、根本的な思考力は上がっていないことに課題を感じていた」
「ほうほう」
「そんなとき、大学の中庭で寝ころびながら、ストローで息を吹いてピンポン玉を浮かせる遊びをしている男を見つけた」
「は?」
「ジョンは気になってその男に話かけた。ジョンとその男はすぐに打ち解けて30分ほど雑談をした。去り際に名前を聞いていなかったことに気づいて名前を聞いたら、その男は『ミスター・タイヤマン』と名乗った」
「いやいやいや、ミスター・タイヤマンて、ありえないでしょ。あのタイヤ屋さんじゃん」
珊瑚は笑いながら机を軽く叩く。
「そう。その創業者」
「え?」
珊瑚は動きを止めて菜湖を見る。
「のちにその男はミスタータイヤマンを創業する」
「え、あれって日本の会社じゃないの?だってアメリカでミスタータイヤマンっていうタイヤ屋やるなんて、日本で、自動車男さんっていう車屋やるみたいなことでしょ?ありえないって。そもそもそんな名前にする親がありえない」
「そう?アメリカ版キラキラネームでしょ。イーロンマスクの子供だって『X Æ A-12』だし」
「ねえ菜湖ちゃん今なんて言ったの?聞き取れたのに一文字もわからなかったよ。でもそうか、タイヤマンていう苗字はなさそうでありそうだし、ミスターっていう名前にするのは信じられないけどありえなくはないか」
珊瑚は顎に手を当てながらなんとか納得したようすだ。
「で、ジョンはタイヤマンとの会話で何かを得たのか、その年の夏休み、飛行機で単身イギリスに向かった」
「行動力がすごい」
「でもその飛行機が事故で墜落する」
「展開がすごい」
「そして墜落した飛行機が不時着したのが、なんとあの北センチネル島」
「あのと言われても」
「北センチネル島はすごいよ。先住民たちが高度文明を受け入れずに暮らしていて、取材ヘリが弓矢とか槍で撃墜されたりしてるヤバい島」
「ああ、北センチネル島への興味も湧いてきちゃった」
「じゃあ、北センチネル島がなぜ文明を受け入れなくなったか、それでなぜ生活が成り立っているのかを教えようか。そもそも……」
「ちょ、ちょ、ちょっとまって」
珊瑚がとうとう立ち上がる。
菜湖は「何か?」という表情で珊瑚を見つめている。
「ウミガメの味噌汁は?」
珊瑚が聞くと、菜湖は無表情のまま舌先を少し出し、言った。
「ばれたか」
「え?ばれたかってなに?どういうこと?」
珊瑚が眉間にしわを寄せて訝しむ。
「10分いかなかったな。珊瑚の勝ち」
菜湖が時計をみて言う。
「お願い菜湖ちゃん、何でもするから説明して」
珊瑚がわざとらしく泣きそうな声をだす。
「だから、ウミガメの味噌汁。ウミガメの味噌汁のルールは、私がゲームとして『ウミガメの味噌汁』と言うワードを出してから、そのゲームを始めるまでにどれだけ別の話ができるか、っていうゲームだったの。10分いかなかったから珊瑚の勝ちでいいよ」
珊瑚は足の力が抜けたように椅子に座りこむ。
「はあ、なんだい。まあまともなゲームじゃないことは想像できてたけど、勝った気もしなければゲームをした気にもならないよ。……え?じゃあ全部嘘?タイヤマンは?北センチネル島は?」
「北センチネル島はある。でもウミガメのスープの発祥はイギリスのビジネス書ってことだけが本当」
「タイヤマンはいないのか。そりゃそうだよ。ていうか冷静に思い返したら飛行機が墜落してるんだか不時着したんだかよくわからないし、なかなかひどい話だったよ」
「面白かった?」
菜湖が薄く笑みを浮かべながら珊瑚に向かって歩く。
「まあ、菜湖と話すのは、楽しいけど」
「ルールを知っちゃったから、二度とウミガメの味噌汁はできないけど」
「本当じゃん、まあ別にいいけど」
「そういう意味では、ゲームの性質はウミガメのスープより、マーダーミステリーとかに近いかも」
「まあ、そうなのかな?」
「あ、ちなみにマーダーミステリーの発祥は……」
「もうやめて!」