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陽が沈み、人間が寝静まる頃。黒々と不気味に波打つ冬の海、その崖の上で僕は一匹佇んだ。見下ろした水面は波紋が交差し、月の光でやんやりと照らされている。そこに映る自分の姿に、手足がすくみながらも向き合った。
「おーい、いつまでそんなところにいるんだよ!」
水面から仲間の呼ぶ声が聞こえる。
「ごめん! 今、いくねっ」
震える足に力を込め、ためらいを振り払うように、水面を割ってそのまま海の中へ。その先に広がる夜の海が、僕を静かに包み込んだ。潜り込んだ海は夜空のように広大で、小魚の群れがオーロラとなり光りを放つ。海底で暮らす仲間たちはわいわいと、ほどけた空気で居心地がいい。
——そう、かつては。
「ようやく来たか、ザハル。相変わらずノロいなぁ、お前。ほら、さっさと飲みに行くぞっ」
肩を組んできた同じくサハギンの陽気なルズに連れられ、海底のバーへ向かった。
そこは小さなクラーケンが一匹経営するバー、"ショフケ・スキープ"。海の物語から帰還したモンスターたちの憩いの場、兼、愚痴吐き場だ。
僅かな扉の隙間から、喧騒が波のように漏れ溢れる。
「なんだよ海賊の野郎! 信じらんねぇ。俺の美しい柔肌が傷跡でザラザラになっちまうだろうがっ」
「オメーのそれは柔肌じゃなくて、サメ肌だろ」
「いやいや、もともとザラザラの砂肌」
サメのモンスターが喚くのに、やいのやいのヤジを飛ばし笑う声が騒がしい。
「おーおー、みんなやってんねー」
物騒なモンスターたちの笑い声が聞こえることなど物ともせず、楽し気に店内に入るルズ。その背中を追ってと扉を抜けた先には、ゲラゲラと酒を仰ぐ海のモンスターたちがいた。
昔と、全く変わらないバーの風景。今の僕にはそれを懐かしむ余裕すらなかった。
「しっかし、久しぶりに来たなー。どうよ、そっちの調子は?」
「うん……」
カウンターチェアに腰掛けたルズが、適当な酒を頼みながら僕に問いかける。曖昧に帰した返事に、ルズは眉を寄せた。
「なんだよ、お前。いつもの調子はどうした?」
「その……前の絵本の話なんだけど、その、」
「絵本が何だよ?」
あのことを打ち明けようとしても、「あの、」「その、」と言葉が詰まって出てこない。小魚のようにパクパクと口を開くのを、ルズは不思議そうに見つめた。
ダメだ、こんなのじゃ。
お酒の力を借りようと、自分を奮い立たせるようにバーテンから渡されたグラスを勢いよく掴んだ。飲み干そうと仰いだグラスに、びくりと手が止まる。かたかたと手が震え、力が抜けていき、するりとグラスが手から滑り落ちた。
——ガシャンッ。
鋭い音を立て、飛び散る酒とガラスの破片。バーの一面に響いたその音に、皆が静まり返り、何事かと視線を送られる。
「おいおい。大丈夫かよ、ザハル」
友人が、ルズが心配する声も鈍くしか聞き取れない。胸の奥が詰まるような感覚に耐え切れず、逃げるようにバーから飛び出した。
みんなの沈黙が怖かったわけじゃない。
友人の心配する声が恥ずかしかったわけじゃない。
地面に散らばった"グラスの破片"。
きらきらと反射する、そのひとつひとつが、鋭い言葉を放っていた。
「きもちわるい」
「みにくい」
「けがらわしい」
「おぞましい」
「ばけもの」
頭の中でつぎつぎと誰かが責め立てる、そんな声が離れない。ガラスを見ても、そこから離れても、海の底を逃げ回っても、そいつらは冷たく、容赦なく、僕を追い詰める。
ここには、モンスターしかいない。人間なんて、そんなもの、いないはずなのに。
そうやって逃げた海の果て。そこでも、あの声はずっと僕に付きまとってくる。海底に沈む割れた食器、美しく花咲く貝殻に寄り添う真珠、そしてあのオーロラのような鮮やかな魚たち。そのどれもが反射するようにきらめいている。
大好きで、美しく、穏やかな、僕の居場所。
それが、あの日を境に恐怖の底へと変わった。
それらに映された姿を見るたびに、深い海の底にいるたびに、頭の中に声が響いた。
『おぞましい ばけものだわ——!!』
声がぐるぐると渦巻き、意識が霞む。目の前が暗く染まり、気を失ってしまいそうだった。
「……ル、……ハル、ザハル!」
肩をぐいと力強く掴まれ、意識が現実に引き戻された。振り向くと、ルズが息を切らして見つめている。どうやら心配して後を追いかけてきたらしい。
「おい、本当に大丈夫かよ? 顔色悪いし、どっか具合でも悪いんじゃないか?」
顔色悪く俯く僕に、背中をさすって声を掛けてくれた。こんなに優しく心配してくれるルズ。何も言わないのはさすがに失礼だと、重い口を開いた。
「声が……聞こえるんだ」
「声?」
ルズは意味不明だと言わんばかりに目を丸くする。馬鹿みたいだと思われるのが怖くて、視線も合わせられずに俯きながら続けた。
「うん。陸の上だとそうでもないんだけど、海の中とか、自分の姿が映ると何か声が聞こえて……『おぞましい』って」
「それ、ずっと前からか?」
「いや、前の絵本の役のときからなんだけど……」
そう答えて、唇を強くかんだ。
どう思われるんだろう。「お前、モンスターが『おぞましい』って言われんの気にしてどうすんだ?」って笑われるのかな。ルズの小さな沈黙が怖い。今すぐここから逃げ出したい。けれど。
「なんでそのこと早く言わねーんだよ。そんな風になってんなら、陸でもなんでも行って、解決策一緒に考えれたじゃねーか!」
いつも通りの砕けた、いやむしろ心配するような口調。両肩を掴んでそう叫ばれ、思わず僕は顔をあげた。ルズはやれやれという表情をしながらも、手を口に当てながら、ぶつぶつとなにかを考えているのが分かる。呆然として見ていた僕の手を、強引に引っ張り、海面へと進む。水を割り、ぷはっと顔をあげて、そのまま海岸の砂浜へ。
「とりあえずさ、出来ることなんでも試してみようぜ!」
にこりと笑っていうなり、ルズは迷いなく、次々と仲間たちに声をかけ始めた。
「おーい、悪いんだけど今来れる?」
「あ、ちょっと用があってさ」
「頼むよ~。ほら、前に貸したアレの分あるだろ、な?」
「いや~さすが、大将! 分かってるね!」
気づけば、呼びつけられたサハギンの仲間たちに僕はぐるっと囲まれていた。
「よっ、ザハル、元気ないんだって?」
「おいおい、洒落臭えじゃねぇか。早く相談しろよ!」
「俺たちに任せとけば、治る、治る」
腰に手を当てたり、サムズアップしたり、ドヤ顔したり、皆一様に自信満々だ。
「じゃ、いろいろやってみっか!」
ルズのその声につられた皆の雄叫びに、空気が揺れた。そうしていつの間にか、ある計画がスタートしていた。名付けて、「あなたはそのままでも魅力的よ♡~友人たちより愛をこめて~」。
——命名はルズである。