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「……疲れた」
そうして帰った部屋は静かだった。辺りは暗く、夜の眷族が飲み歩く気配がする。手洗いとうがいを済ませ、首を回しながらそのままソファに身を沈めた。すっかり習慣になってしまった動作。けれど悠長に休んでもいられない。期限は限られている。端末を爪で操作し、「モンスターフリックス」を開いた。投影された映像をスクロールし、目的のドラマへ。
『花咲け! 乙女たち』
……アタシ、今からこれを見るのね。
思わず遠い目をした。見れば全部で8シーズンもある長寿ドラマ。それなりに面白いかも——そんな期待は一切なかった。
「さっさと終わらせましょう」
そうして始まった鑑賞会。中身はなんてことない。真面目に働く果歩が勇気がないだのと言い訳し、相手に気持ちを伝えることはおろか話しかけすらしない。幼馴染・陽介の背中をうじうじと見つめ、ライバルが出ては嘆き悲しむ。
あのスライムが「参考になる」といった内容は、ただ虫唾が走るだけの代物だった。行動しないヒロインを見ているうちに、指が自然とソファの布地を叩いている。
『外見も自信を持たないと』
友人・美羽の声に押されるように化粧も服にも気を使い始め、ダイエットにも手をつけるが、なかなかうまくいかない。美羽も悩みがあるのか、時にはケンカし、泣きながらパンケーキを食べて、カラオケで叫ぶように憂さ晴らしして、愚痴を言い合う2人。それに眉根を寄せた。なに、この茶番。これが人間の、恋愛? おままごとにしか見えないわ。『物語』初出勤の赤ちゃんだってもっと上手くやるわよ。
あぁ、いやだわ、ホントに。
「……いいなぁ」
無意識に口から出た正反対の言葉。それを、思わず手で堰き止めた。洗練された美しさを誇るサキュバスのアタシが、あんなくだらない恋愛を羨ましい? 冗談じゃない。苛立ちを払うように2話、3話と進めていった。
結局幼馴染と付き合うことなく、ぽっとでが「果歩さんのこと、気になってたんだ」と告白して終わったシーズン1。勝手に再生し続ける指のせいか、いつの間にか見切ってしまった。でも。
「こんな自信もない女を、随分と物好きだこと」
もう十分。よく分かったわ。こんなの役に立たない。ソファからすくっと立ち上がる。胸の奥で、ぐつぐつと煮えたぎるなにか。軽く喉を鳴らした。そうして気付けば、もう靴を履いていた。発散するように外へと飛び出す。冬の冷たい空気がいくらか落ち着かせてくれる気がした。大通りから路地裏へ。夜のランニングは、アタシの習慣。夜の街の喧騒を聞きながら、風が肌を切る心地よさを感じる。けれどいつもとは違った。走るたび、頭の中で勝手にあのドラマが再生された。
——どの服が似合うか美羽と一緒に悩むシーンも
——大盛パンケーキを食べて泣いているシーンも
——笑いながら、涙をぬぐうシーンも
「……バカみたい」
呟きながら、ペースを上げた。雑音を潰すように、強く踏み込んだとき。
「ヤダッ、ミリスじゃない!」
飛び込んだ気やすい声。小さく舌打ちをした。忘れてた。そういえばこの時間帯にいつも走ってたわね、この女。前に被って絡まれてから、避けてたはずなのだけど。
「やあね、辛気臭い顔。そんなもの見せるならとっとと家に帰ったら?」
いつも通りの憎たらしい笑顔。僅かに探るような視線に、避けるように顔に手を当てる。
「心配かけてごめんなさいね。アナタと違って少食なものだから。もしかして儚げに見えたかしら」
「ハッ。充分、図太そうに見えるわよ!」
ケラケラと笑う黄金色の髪が、夜風に揺れる。月に照らされたそれが目障りで。少し目を細めた。
「あ~あ。軽く走ってお腹空かせないと。だって今日もたくさん食べるのだもの。女の子って大変」
サルマは口をとがらせ、長い髪を弄っている。また男あさりね。ホント、食欲旺盛だこと。腰に手を当て、肩をすくめた。
「食べ過ぎて太らないように気を付けなさいな」
「アハッ、私はいつだってカワイイから大丈夫よっ」
キャハッと笑う明るい声。煽るように返そうとして、言葉に詰まった。けれどそれはほんの一瞬のこと。すぐに言葉を返した。
「……あっそ」
結局、短く吐き出すことしかできなかった。鼻を鳴らし、踵を返す。背後に漂う、サルマの何か言いたげな雰囲気を無視し、帰路に就いた。
靴を脱ぎ捨て、ベットに倒れ込む。喧騒はドアの向こう。静寂の中でぼんやりと天井の影が揺れている。脳裏で繰り返し再生される映像。不愉快なノイズ。
「……あぁ、もうっ」
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。手の甲を額に乗せ、夢に沈むように目を閉じた。遠く夜の街で響く笑い声が、なぜか耳障りだった。




