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「——くしゅんっ」
むずむずとこそばゆく、耐え切れずくしゃみがでた。
——ぽふり。
次の瞬間、あっという間に本の外へと追い出されてしまった。また、だわ。これでもう5回目。最近、ホントに調子が良くない。一体どういうことかしら。くしゅん、くしゅんと鳴りやまないそれをスミレ色のハンカチで堰き止める。うんざりと表情を歪めながら、モンスターの街へと帰還した。
真昼間のそこは夜の仲間が集まる賑やかな街。冬の気配が色濃く、樹木の枝が白く染まり、道端の草花は凍りついたようにしおれている。あちこちに小さく積もった雪が、鈍く輝いていた。陽に照らされすくすく育った樹木の並ぶレンガの通りを抜け、広場の中央にある噴水の縁へと腰を下ろした。ようやく止んだくしゃみにせいせいしながら、すらりとした足を見せつけるように大きく組む。
ホーント、なんなのかしら、これ。人間のエネルギーをもらおうと思ったら、出てくるし。物語もうまくいかないし。上からごちゃごちゃ言われるし。ヤになっちゃう。ため息まじりに腕を組んだその瞬間、小さな影がふっとアタシを覆った。
「あ~ら。こんなところでため息ついていやね、ミリス。また失敗?」
馴染みのある高い声。ちらりと見上げれば、陽の光を受けてキラキラと目障りに光るブロンドのストレートヘア。小柄な同類が、同じく腕を組んでいる。晴天を思わせる空の瞳は楽し気に細められ、桃色の唇は意地悪そうに弧を描いていた。
「なに? アナタにかまってあげるほど、アタシ暇じゃないんだけど」
「噂のお仲間が心配で見に来てあげたんじゃない。やあね、ツンケンしちゃって」
さも心配そうにいいながらも、内心楽しんでるのが丸分かりよ。まったく、しかも噂になってるなんて、ホント最悪。さっさと立ち去ろうとしたそのとき、むすっとした表情の男型の夢魔 「インキュバス」が目の前に現れた。ほんの少しの布地しか纏わないサキュバスとは違い、体を見せつけることなく、黒のコートで全身を覆っている。
「聞いたぞ。また追い出されたらしいな」
「あらあら、今度はアナタ? アタシも随分人気者になって辛いわね」
「誤魔化すな。下手すれば処分喰らうんだぞ、分かってるのか」
「えーえー、分かってるわよ」
あぁ、メンドクサイことになったわね。冗談も通じない、愛想もない、融通も利かない。人間から性のエネルギーを食べる、自由奔放なアタシたちには珍しい律儀で真面目な性格。通称、「石頭のグレイ」。みんな面白がってコイツを突っついてるけど――こうやって説教されると、うんざりする。しらとして膝に肘をつき、顔をそむけた。正直、あまり絡みたくないわ。
「グレイ、久しぶりね!」
「あぁ、サルマ。お前は今回もうまくやったみたいだな」
「アハッ! やだっ、そこのと同じにしないでよ」
明るく笑いながら、グレイの腕に飛びつくサルマ。キャッキャッとはしゃぐ姿に、なるほど、次の獲物はコイツかしらと呆れた。サルマは食欲旺盛で、浮いた話しか聞かない。夢魔同士でエネルギーを奪い合っても、対して腹も膨れないのに。そんな無駄な労力を惜しまない食い意地には、さすがに恐れ入るわね。まぁ、それにしても。豊満な胸を押し付けられて顔色一つ変えないこの堅物もどうかと思うけど。
「何度も続くようなら、一度診てもらった方がいいと思うぞ。見当もついてないんだろう?」
「グレイ、 ほっとこうよ、こんなの。どうせ上手くいかないのをくしゃみがどうとか言ってるだけなんだから!」
軽口に、内心カチンときた。アタシだって好きでくしゃみして、失敗してるわけじゃないわよ。何度も放り出されて、散々な目に遭っている。じりっと目尻が上がる感覚に、指先を叩いた。ふと、グレイに目を向ければ、いつもの無表情でじっとアタシを見ていた。 何か言いたげなその視線が、余計にイラつかせる。
「……何よ」
じろりと睨みつけると、グレイは少し間を置いてから、静かに言った。
「次は、ちゃんとやれ」
「本当! 上手くいくといいわね?」
サルマはぐいぐいとグレイの腕を引っぱり、「あっちで遊びましょ」と誘っている。去っていく二人の背中を見送ると、不意にサルマが振り返った。グレイの言葉に同調して発した先の言葉とは正反対に、べっと舌を見せつけ、くるりと顔を戻す。グレイもそれに気づかず、そのまま歩を進めた。
二人の小さくなる背中に心の中で舌打ちした。サルマとは長い付き合いだけど、毎回つかかってくる。しかも顔を合わせる機会も無駄に多い。腹立たしいことばっかり。いちいち言い返すのもバカらしいけど、黙ってるのも癪に障る。水面に映ったサキュバスを、ぺちっと叩いた。
あぁ、いやだわ、ホントに。
「かわいくない女」
小さく呟いた言葉は思いのほか冬の空に響いた。
……しかし。グレイの言葉が、妙に引っかかっている。
——『何度も続くようなら、一度診てもらった方がいいと思うぞ』
大した事ないと思っていたくしゃみも、こうも何度も続くのは確かにおかしい。あの石頭が、わざわざ忠告すること。もちろん皮肉や冗談ではないでしょう。
「病院、ね」
言葉にしてみると、案外悪くない気がした。……別に、行って損するわけじゃないし。見当もつかないけど診てもらえば解決するでしょ。ポケットから端末を取り出し、画面を叩くように操作した。転移の光が視界を覆い、次の瞬間には広場の景色が消え去った。




