森の奥、まどろみに沈む
「はっ、はっ、……ックソ、」
肺が痛い。冷たい夜の空気が容赦なく自分を襲う。俺は無我夢中で駆け抜けた。止まっている暇などない。足を止めるな。止まれば捕まる。捕まれば死ぬのだ。
「っこんな依頼、受けなきゃよかった——!!」
森の奥深くで発生した正体不明のモンスター。そいつは夜に出現するらしい。俺はその討伐へと駆り出された。毎日を怠惰に過ごし、暇なときにクエストをこなす。そんな生活を送っている自分に大したことができるなんて思っちゃいない。ギルドにはランクの高い奴が大勢いたし、俺は精々後方支援、あわよくば何もせずとも少しの報酬さえ貰えばラッキーだとも思っていた。
そうして向かった森の奥。そこで見たターゲットは可愛いものだった。桃色の球根のような顔の小さな生き物。くりくりとした目で、頭から可憐な花が生えている。
「なんだ……こんなに構えてくることなかったな」
誰かが発した言葉に同調し、笑い、みな安堵した。さっさと討伐して終わろうと、一人が剣を抜く。そのまま振り被った瞬間、そいつの心臓を蔓が突き刺した。体が崩れ落ち、血が散らばった。土がまだらに赤に染まる。その遺体を、蔓はゴミのように放り投げた。一瞬遅れて、俺たちは戦闘態勢に入ったが、その一瞬が命取りになった。地面から無数の蔓が生え、ギルドのメンバーを襲う。蔓を避けようとも風を切る俊敏な動きで味方はとらえられ、投げ飛ばし、首を絞め、無残に殺された。
「本体の球根を狙え!」
リーダーが球根目掛けて走り、その声に何人かが続いた。モンスターの小さな目がちらりとそちらを見ると、頭の花がぐわりと大きくなり、そのままリーダーを飲み込んだ。もぐもぐと美味しそうに食べて、ぺっと吐き出されたのは、真っ白な骨だった。一人、また一人が悲鳴を上げ、飲み込まれ、吊るされ、殺される。
こんな化け物、勝てるわけがない。恐ろしさに耐え切れず、俺は一人、命からがら奴から逃げるため森の中を走り続けた。
「はっ……、はっ……。はやく。早くっ……だれかを」
応援を呼ばなくては、助けを呼ばなくては。ギルドへ行こうにもこの深い森を抜けなくてはならない。辺りは闇に包まれ、ただ月明かりだけが頼りだ。森を抜けようと必死で、枝が刺さることなんて気にしていられない。永遠に感じる時間が続く。足がどんどん重くなり、息が切れ、視界が揺らぐ。息の白さが煩わしく、せめて隠れるところはないかと辺りを探し、目の前の大きな岩に気づいた。
「これ、さっきも、」
走り抜ける最中に見かけた見覚えのある岩。
まさか、迷ったのか?
愕然と立ち尽くし、途方に暮れた。それでも止まればまた化け物が追ってくるかもしれない。捕まれば死ぬと、その一心で震える足を動かした。いつになれば、どうしたら、抜けられる。絶望していた俺の前に、淡く光る何かが現れた。もしかしたら人かもしれない。微かな望みをかけて、一直線に走り抜けた。近づいてみると、それは人ではなく、宿だった。
なんだっていい、助けを呼べるなら。
荒れた息のまま、扉を叩くように開けた。
「おいっ、助けてくれ! モンスターがっ」
そこにいたのは、美しい一人の女。
波打つ黒髪。濡れたように光る鮮やかな赤の瞳。身に纏う黒を基調としたドレスは、肩から胸元まで大胆に開き、滑らかな肌を際立たせている。スカートの裾は非対称に裁たれていて、すらりと伸びた脚は艶やかで、あまりにこの森の様相に相応しくないのその姿に、今の事態など忘れ、思わず目を奪われた。
「旅人さん? こんな時間に珍しいわね」
彼女はふわりと微笑んだ。あまりに完璧な笑顔で、どれもが異様なほど整いすぎている。その声はまるで鈴の音のように澄んでいるのに、不思議な響きを孕み、深紅の瞳はどこか妖しげな雰囲気を纏っていた。吸い込まれるように、その目に惹きつけられる。気づけば、足が一歩、彼女に向かっていた。
「どうされたの?」
森の奥でモンスターに襲われたことを説明すると、彼女は「大変だったわね」と優雅に頷き、穏やかで美しい笑みを浮かべて答えた。
「この宿は大丈夫よ。モンスターが近寄らないように、少し細工をしてあるの。もしよければ、少し休んでいかれたら?」
「細工」という言葉に少し不安を覚えた。けれどもうくたくたに疲れ切っていた。ケガも多く、一刻も早く休みたかった俺は、彼女の提案を受け入れた。
「どうぞ、くつろいでいってね」
──その瞬間、宿の扉が音もなく閉まった。
彼女の名前は「ミリス」と言った。
この宿は、森で疲れた旅人を迎え入れるための場所だという。しかしなぜか宿に他の客の姿はない。深い森と同じ静けさ。それ以上に奇妙だったのは、その場の空気が、森のそれと完全に違っていたこと。外の冷え切った空気とは違い、宿の中はほのかに温かい。けれど、焚き火の類は見えない。息が白くならないのに、妙な寒気だけが背を這った。振り払うように頭に浮かんだ考えを消した。
この宿が、彼女が不気味だなんて、そんなはずがない。
夜、ミリスに用意された食事を済ませた俺は、落ち着かない気持ちのままベッドに横たわった。
疲れた。あのモンスターは一体何だったのか。早朝にはここを出て、ギルドに——。そうしているうちに、ぐらっと思考が揺れた。瞼が重い。意識が沈む。そして。
——どこかで、甘い香りがした。
「こんにちは、旅人さん」
声に目を開けた。そこは部屋で、ミリスがいた。ひらりと薄いシルクの服。雪のように白い肌。細い首筋、艶めいた唇。何よりも異様なのは、彼女のぎらぎらと光る赤の目。月明かりの中で輝く彼女の姿は、どこか現実離れしているように見える。
「大丈夫?」
そっとオレの隣に腰を下ろし、その深紅の瞳で見つめられた。目を逸らそうとしても、彼女から視線を外せない。心臓が早鐘のように打ち始め、微かに体が震えた。
「あなた、とてもおいしそうね」
小さく囁き、俺の額に細い指が触れた。冷たい。ぞくりとした悪寒が背筋を駆け抜ける。けれど、ふわふわと心地よい。相反する感覚に、頭が混乱した。
「ミリスさっ、一体なに……?」
声を絞り出そうとするが、まるで喉が焼けつくように掠れた声しか出てこない。咄嗟に身を引こうとした——が、動けない。腕が重い。どれだけ力を入れようとしても、震える程度にしか動かすことができない。脚も、力が抜けきっている。森の中のように、白い息が自分の口から洩れ、空気に溶けた。そんな俺を気にすることなく、彼女は俺に触れた。胸に手を当て、首筋に彼女の唇がそっと当たる。触れた部分から広がる甘美な感覚と共に、目の前がぐらりと歪んだ。
「大丈夫、あなたは楽しむだけでいいから」
そういって、服の中に、そのしなやかな手が滑り込んできた——。
小説「森の奥、まどろみに沈む」より




