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あれからどれだけ時間が経ったのか。ピコンと気の抜けた音で意識が現実に引き戻された。画面を見れば、ぷかぷかと涙の海に浮かぶスライムのスタンプとともにメッセージが送られてきている。
『しゅみましぇん、どうしても手が離せなくって……』
またか、あの先生は本当に……。
疲れはてた面持ちで端末を消した。青筋が立つほどの苛立ちも、鏡を叩き割る怒りも、その気力さえ今の僕にはない。先の見えない暗い海は、透き通る青へと変わっている。気付けば太陽は昇っていて、どれだけあの鏡の前にいたのかと自分を嘲った。濡れた体を軽く振り払って陸に上がる。
なにも変わってないのかもしれないな、僕は。このまま、何も治らずにあの世界へと帰るのか。
砂浜をゆっくりとした足取りで歩いていると、不意に背後から声が聞こえた。
「……さん、ザハルさん!」
振り返ると、そこにはハルがいた。手を振りながら、真っ直ぐこちらに駆け寄ってくる。
「特訓はもう終わったって、」
「うん! でも、特訓のお礼をまだしてなかったから」
ハルは満面の笑顔を浮かべ、握り込んだ拳を広げる。その手には、小さな袋があった。
「これ、ザハルさんに渡したくて……」
差し出された袋を、戸惑いながら手に取った。袋を開けて逆さにすれば、ころりと何かが手に落ちる。中から現れたのは、緑色のガラスでできたペンダント。
「これ、」
「ぼく、昨日夜の海で光ってるのを見つけて、きれいだったからプレゼントにしようって思ったんだっ」
促されるままにペンダントを手に取り、太陽の光にかざしてみた。透明な緑のガラスのそれは、光を受けてキラキラとハルの瞳のように輝いている。その表面には、僕の姿がぼんやりと映り込んでいた。
「ほら、ザハルさんの姿が映ってるでしょ? すっごくカッコいいよ!」
「カッコいい?」
思わず聞き返してしまう。ばけものと言われたサハギンが、カッコいいだって?
僕の不信に思うその表情に、ハルは大きく頷いて言葉を続けた。
「泳ぎもすごくキレイで速いし、鱗が太陽の光でキラキラ光ってて、海の中にいるザハルさんを見ると、本当にカッコいいなぁって思うんだ」
その言葉に、胸の奥にぐっと締め付けられるような感覚が広がった。
「それに、僕が泳げるようになったのも全部ザハルさんのおかげ。ザハルさんは僕のヒーローだよ!」
『かっこいい』『ヒーロー』
その言葉が、頭に何度も何度も響き渡る。あの娘と全く同じ瞳が、全く違う言葉を伝えてきた。頭にその言葉が反芻していく。まるで僕の思考を塗り替えていくみたいに。
「ふふっ、そっか。かっこいい……か」
手の中のペンダントを見つめ、そう呟く。ハルの言葉にウソはない。光に揺れる緑のガラスに映る自分がかっこいいと、あの嫌悪感がスッと消え、どこか誇らしささえ感じる。なぜか海の仲間たちに、ルズに、無性に会いたくて仕方なかった。
ペンダントを握り締めると、ハルがぽつりといった。
「ぼく、ザハルさんとおともだちになりたいな……」
「おともだち?」
「お城だと、こうして話せる相手もほとんどいないから」
どこか寂しそうに、小さく震える声でつぶやいている。声だけじゃない。手も、足も震わせながら、小さな体で必死に言葉を紡ぐ。モンスターの、サハギンの僕に向かって、勇気を振り絞るように。
「だから、ぼくとおともだちになってください!」
意を決したように、ハルは手を差し出しながら言った。背中を曲げてひしと願う姿は、まるで愛の告白のようで。自然と、表情がやわらいでいくのを僕は感じた。
「……そんな風に誘われたのは初めてだ」
微かに、口角が上がる。努力家で、必死で、一生懸命で。僕の意気地なさと正反対で。そんな男の子の春のひだまりのような気持ちを、今ならちゃんと受け止められると思った。
あーあ、いいな。……ずるいよ。
僕もそうやって素直に言えるようになりたいよ。
だからさ、ハル。
「これからもよろしくね」
笑って、その手を強く握り返すと、ハルはおひさまみたいに笑った。
今日、初めて僕に、人間の「おともだち」ができた。




