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こちら、モンスター心療内科  作者: 泉 佑理
ミズティラ海岸のサハギン
13/25

7

 そうして始めた練習。驚くことに、ハルには泳ぎの才能があった。最初は変な癖がついていたのか、ただバシャバシャと音を立てて水を叩くだけだったその泳ぎが、だんだんと形になっていく。


「水の中から足が出ないように。力はそんなに込めなくていいんだよ」

「そうなんだ、こうだね」

「うん、そんな感じ。少し手を放すから自分で進んでみて」


 そういうと顔に水をつけ、少しずつ少しずつ息継ぎを繰り返して進んでいった。イッテツ先生のようにやたらと自分の流儀を押し通そうとしたり、急に別のことに興味を持ったりしない。素直に聞き入れ、すぐに言葉通りに実践する。真面目に努力する人間のハルは、問題児のスライムよりよっぽど教えやすかった。


「イッテツ先生より、だいぶまともだね……」


 ぽつりと呟くと、ハルが不思議そうに首をかしげた。


「先生って誰?」

「ごめんごめん、こっちの話」


 いけないいけない、ハルの特訓の真っ最中だった。あんな無責任なスライムのことなど、今は忘れてしまおう。思考から先生を追い出し、ハルに笑いかけて言う。


「じゃあ、次は息継ぎの練習をもう一回しようか!」


 それから何日も、僕はハルの練習に付き合った。

 イッテツ先生は相変わらず仕事が忙しいらしく、連絡もほとんどない。本当、あの先生の以前のやる気はなんだったのか。そう思って今日も真面目に練習するハルを見やる。最近は毎日泳ぎの特訓ばかりだ。ハルも疲れてきているだろうし、たまには違うことをするのもいいかも知れないな。


「今日は沖の方にいってみようか。試しに僕の背びれに捕まってみてくれる?」

「え、いいの?」

「ほら、早く!」


 戸惑うハルを急かし、背中に乗せる。スピードを速めつつ、振り落とさないように慎重に、遠く、遠く、海の先まで駆け泳ぐ。速度を上げていくと、ハルの笑い声が耳に響いた。


「ははははっ! すごいっザハルさんっ」


 その笑い声につられるように、笑みがこぼれる。僕ら以外誰もいない、広い海の果てを目指し、泳ぎ進んだ。そうして着いた、海のど真ん中。

 よし、ここなら丁度いいだろう。

 水深が増して足がつかなくなると、ハルはやはり不安なのか僕の背中にひしとしがみついた。


「怖がらなくて大丈夫。少し顔をつけて、海の中を覗いてごらん」


 そういった僕の言葉に恐る恐る水中に顔を沈めたハルが、小さく息をのむ声が聞こえた。

 色彩豊かな小魚たち、光の筋が宝石のような珊瑚の森を照らす。朽ちた沈没船は、まるで海底に眠るお宝のように静かに佇んでいる。


「すごい……こんな世界があるんだ……」


 僕の世界を喜ぶその純粋な感動に、胸からふわりとした何かが込み上げてくる。くすぐられるように背びれがどこかむず痒い。それを隠すように、ハルの手を引っ張った。そうして、僕のお気に入りの場所へ。海の中だけでない。海の真ん中にどんと構える大きな岩はもちろん、海岸からは見えない神秘的な鍾乳洞、遠く陸と陸を結ぶ橋。そのどれもがこの子にとって新鮮だったのだろう。キラキラとした瞳ではしゃいで、どこか興奮した様子で、僕の手を引っ張った。


「ザハルさんから見える世界は こんなにきれいなんだねっ。もっと、もっと見たいっ!」

「そのためにはもっと練習しないとね」

「うん!」


 僕の言葉に、ハルは元気よく返事を返した。


 それからというもの、ハルは一段と熱心に練習に取り組んだ。

 朝早くから水辺に向かい、僕が付き添えないときでも一人で泳ぎの練習をする。少しでも上手くなりたい、そのひたむきな心が伝わってきた。浮くことはもちろん、手足を滑らかに動かして長い距離を僕の補助なしでも泳げるようになっていく。飲み込みも早く、何より失敗しても何度も挑戦する勇気がある。

 やる気のあるいい子だ、ほんとに。でも、今まで泳げなかったなんて、誰が見てたんだろう?

 何気なしに、問いかけた。


「ねぇ、君って誰に泳ぎを教わってたの?」

「お父さんとお母さん。それからお城の人たちも。たくさんだよ」


 軽くストレッチしながら返された言葉を聞いて、以前からあった違和感が確信に変わった。太陽のような目、王子と同じ金色の髪とモンスターの僕に物怖じしない勇気、「お城の人たち」という言葉。

 ――ハルは、あの娘の子だ。

「おぞましい ばけもの」という叫びを頭に植え付け、映る姿に呪いをかけ、僕の海での生活をぶち壊した、あの人間の。あいつが全部、ハルはあいつの……。そう思い返し、ぐわりと真っ暗な感情が腹の底から湧き上がる。


 けれど、なぜだろう。

 娘を恨むように、その子どもを恨んでもおかしくないはずなのに。


「ザハルさん、みてみて! ここまで進めたよ!」


 ハルの笑顔に、どこか救われている自分がいた。嬉しそうに僕の前を泳ぎ、スイスイとターンを決める。それを見ながら、少し目を細めた。


「すごいじゃん、ハル。もう僕が教えることなんてほとんどないんじゃないかな」

「えへへ、でももっと練習したいな! だって、ザハルさんみたいに自由に泳ぎたいから!」

「じゃあ手本を見せなきゃね」


 そうして入った海の中。ふと気づいた。

 ……一体、いつから。

 あの声が聞こえない。あの耳を劈くように罵る声が。呪いのように付き纏う声が。今は全くない。まるで潮が引くように、いつの間にか僕の中からすっと消えていた。思わず立ち止まり、辺りを見渡し、目に留めた先。


 ——そこには、小さな男の子がいた。


「ザハルさんっ、はやく手本見せてよ!」


 期待の声に、ざぶりと身を沈め、緩やかに体を動かす。海の中は静かで、美しく、穏やかだった。かつてここにいることが苦痛だったなんて信じられないほどに。イッテツ先生の時からか。あのトラブル続きに、確かにあの声は薄れ始めていたのかもしれない。

 けれど、こんなにすっきりと消えたのは。


「やっぱりすごいね、ザハルさん!」

「ハル、もう十分君も泳げてるよ」


 いつも通り、尊敬の眼差しでこちらを見つめるハル。その頭を軽く撫でると、ハルは一瞬目を丸くしてから、ぱっと表情を輝かせた。


「ほんとっ」

「ほんとほんと」


 太陽みたいに眩しい瞳を見て、笑って頷き、遠くに見える小さな岩を指さした。


「今日は最後に、沖のあの岩まで行ってみようか」

「わかった!」


 元気よく返事をすると、あの子はすぐに水に飛び込んだ。勢いよく水を掻き分け、真っ直ぐに沖の岩を目指して泳いでいく。その姿は、最初の頃のぎこちなさが嘘のように洗練されていた。僕は横で追いかけながら、それをじっと見守った。波に負けることなく、スイスイと前に進むハル。彼が岩にたどり着いて小さく手を振ったとき、安堵と誇らしさが胸いっぱいに広がった。


「……今日で、練習はもう終わりだね」


 十分な泳ぎを見せられ、そう告げた。その言葉に、小さく頷き、納得したハル。

 しかし、その直後だった。ハルは突然顔を伏せ、小刻みに震えるように泣き始めた。出会ったときのように。


「え、ど、どうしたの? どこか痛いの?」

「ちがうよ……」


 人間のことなど全く分からず、あたふたとする僕に、ハルは首を振り、涙もぬぐわず、嗚咽混じりに言葉を続け、僕に抱き着いた。


「ぼく、やっと……お父さんとお母さんの期待に応えられる……。ちゃんと、泳げる、ザハルさんのおかげで、ぼく、やっと……」

「もう大丈夫だよ」


 遮るように、するりと、言葉がでていた。


「なんてったって、海の怪物・サハギンの僕が教えたんだから!」


 胸を張って笑うと、ハルも涙で濡れた顔を上げて、大きく笑った。


「本当にありがとう、ザハルさん」

「気をつけてね」


 陸に上がるハルが、僕に向かってブンブン手を振る。僕も軽く手を振り返す。

 そしてあの子は城の方へ向くと、そのままこちらを振り向かずに走り去っていった。


「今日で終わり、か」


 自分に言い聞かせるように、そう呟いた。別れはあっさりとしたものだった。少しの寂しさはあるけれど、今の僕には確かな解放感がある。今まで苦しめられてきたあの声はもういない。明日からまたイッテツ先生も顔を出すと言ってるし、その時に治ったと報告しよう。

 すっきりとした気持ちで絵本の海に潜り、海底を目指す。海の懐かしい静けさが心地よい。小魚の群れを楽しみながら、底に沈んでいる鏡が目に留まり、近づいた。

 もう大丈夫だろう。そう思って。

 そして、きらりと光るそれにその身を映して凍りついた。映ったものは緑と青の入り交じる鱗、そしてひらひらとしたヒレや鋭い歯のいたって普通のサハギン。

 え、なんで……治ったはずだ。なのに、どうしてこんなに——キモチワルイ。

 あの声はもうしないのに。鏡に映る自分は、醜悪なものだと思ってしまう。いつも通りの姿であることには違いない。けれど、胸の奥にこびりついた嫌悪感がなぜか拭えずにいる。鏡に映るおぞましい化け物から目が離せずに、僕はまた以前のように立ち尽くした。

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