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今日もイッテツ先生の練習に付き合うべく、ミズティラ海岸を歩いていた。ざりざりの砂浜を歩む最中、ピコンとメッセージを知らせる音が鳴った。端末をタップすると現れたのは、先生からの連絡だった。
『ごめんね、しばらく練習行けなくなっちゃったの……』
ふぇんふぇんと泣いているスライムのスタンプが添えられていた。
「もっと早くに言ってほしかったなぁ……」
当日になってお休みかと、思わずそう呟いてしまう。
……モンスターの世界に戻ろうかな。
けれど、サハギンの海に戻って仲間たちに合わせる顔もない。きっとまた、「これからだって」と明るく背中と叩かれて楽しげに慰められるだろう。それを想像して、胸から黒い何か湧き出た。どうしようもない気持ちを抱えて、ふらふらと行く当てもなく、そのまま海岸を歩きつづけた。
絵本の世界は春も終わりに近づき、夏になる。潮の匂いが強くなるその季節を色濃く感じながら、歩いていると、不意にぐっと小さな何かが僕の腕を掴んだ。
「もしかして、先生?」
振り向くとそれは先生ではなかった。キラキラと、幼さの中にどこか期待の光を込めたお日様の瞳。さらりとした金色の髪があり、柔らかで、傷がつきやすそうな薄橙色の肌をした生き物。僕の顔をじっと見上げてくるそれを見た瞬間、背筋を氷のような冷たさが走り抜けた。
——人間の子供だ。
途端に頭の中に響く、「おぞましい」という声。海に入ってもいないのに、耳元であの声が繰り返される。
『おぞましい ばけもの』
僕はそれから逃げるように、小さな手を振り払った。
待ってと呼びかける声が背後から聞こえる。無視したかった。気のせいにしたかった。人間にとって僕は「ばけもの」。そんな僕に話しかけるなんて、そんなこと、あるわけが——。
「ねぇ!」
再び腕を掴まれた。顔を合わせるわけにはいかない。危害を加えないよう、そっとその手を退けようとすると、男の子はまっすぐに僕を見上げて聞いてきた。
「ねぇ、ふしぎな生きものさんって、泳ぐの得意なの?」
突然の質問に、一瞬言葉を探した。あの先生と同じ質問。なにかを期待するようなまなざし。質問の意図が分からず、苦々しく顔をそらす。心の奥で渦巻く感情を押し殺して、曖昧に答えた。
「そりゃ、まぁね」
「じゃあさっ」
男の子の顔がぱっと明るくなり、無邪気な声で続ける。
「僕に泳ぎを教えてよ!」
その声が、海岸に響き渡り、思わずその子供を振り返ってしまった。その明るい目は、あの娘と同じ春の太陽のような輝きで、けれどそこにはあの娘とは異なる無邪気さがあった。僕を恐れているようには、見えない。
「ムリだよ。ちゃんとした大人の人間に教わりな」
それでもきっぱりと言い放った。恐れているかなんて関係ない。先生の練習だけでも大変なのに、子供の面倒を見るなんて、御免だ。それに、人間なんて嫌に決まってる。そういった瞬間、男の子の瞳に涙が溢れ、ぽつりとこぼれ落ちた。
は、なんで、泣いて……。
小さな体が震えながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「ずっと、ずっと、お父さんもお母さんも、みんな教えてくれるんだけど……どうしてもうまくいかなくって」
涙を流しながらも、その手はしっかりと僕の腕を掴んでいた。
「思わず逃げ出して……でも期待に応えたくって」
しおらしい顔をしているけれど、その奥には「教えると言うまでは絶対に離さない」という強い意志が滲んでいる。
「毎日が苦しいんだっ」
悲鳴のような言葉とはっきり力の込められた腕。
随分としたたかな子だな。その姿を見て、胸の奥に不快な感情が広がった。 それは別にそのしたたかさを不愉快に感じるわけではない。この子の苦しみを、どこか理解してしまう自分がいる――それが嫌だった。僕の嫌悪感は、この子のせいじゃない。そんなことは分かってる。人間と関わっていいことなんてないことも、十分に。
けれどその言葉が、なんとかしたいという意思が、僕に突き刺さり、どうして無視できなかった。子供を突き放すことなんて簡単なはずなのに、なぜか向き合って立っていた。
「……分かったよ。でも他の人間たちには言わないでね。僕は人間が好きじゃないんだ」
諦めて呟いた言葉に、その子は笑顔を見せた。
「うんっ、僕はハル。これからよろしくお願いします!」
「ザハルだよ。よろしくね」
顔を背けてそっけなく返した言葉に、ハルは無邪気に言う。
「僕たち、名前がそっくりだ。おそろいだね!」
無垢な子供の笑顔を見つめて、すぐに後悔した。なんで引き受けちゃうんだろう……。人間と関わってもいいことなんてないのに。そうだ、良いことなんてきっとない。頭に残る、あの声の爪痕。「おぞましい」と人間に叫ばれたあの日の記憶が、静かに胸に沈んでいる。
それでもこの小さな手を、僕は振り払うことができなかった。




