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こちら、モンスター心療内科  作者: 泉 佑理
ミズティラ海岸のサハギン
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6

 今日もイッテツ先生の練習に付き合うべく、ミズティラ海岸を歩いていた。ざりざりの砂浜を歩む最中、ピコンとメッセージを知らせる音が鳴った。端末をタップすると現れたのは、先生からの連絡だった。


『ごめんね、しばらく練習行けなくなっちゃったの……』


 ふぇんふぇんと泣いているスライムのスタンプが添えられていた。


「もっと早くに言ってほしかったなぁ……」


 当日になってお休みかと、思わずそう呟いてしまう。

 ……モンスターの世界に戻ろうかな。

 けれど、サハギンの海に戻って仲間たちに合わせる顔もない。きっとまた、「これからだって」と明るく背中と叩かれて楽しげに慰められるだろう。それを想像して、胸から黒い何か湧き出た。どうしようもない気持ちを抱えて、ふらふらと行く当てもなく、そのまま海岸を歩きつづけた。


 絵本の世界は春も終わりに近づき、夏になる。潮の匂いが強くなるその季節を色濃く感じながら、歩いていると、不意にぐっと小さな何かが僕の腕を掴んだ。


「もしかして、先生?」


 振り向くとそれは先生ではなかった。キラキラと、幼さの中にどこか期待の光を込めたお日様の瞳。さらりとした金色の髪があり、柔らかで、傷がつきやすそうな薄橙色の肌をした生き物。僕の顔をじっと見上げてくるそれを見た瞬間、背筋を氷のような冷たさが走り抜けた。

 ——人間の子供だ。

 途端に頭の中に響く、「おぞましい」という声。海に入ってもいないのに、耳元であの声が繰り返される。


『おぞましい ばけもの』


 僕はそれから逃げるように、小さな手を振り払った。

 待ってと呼びかける声が背後から聞こえる。無視したかった。気のせいにしたかった。人間にとって僕は「ばけもの」。そんな僕に話しかけるなんて、そんなこと、あるわけが——。


「ねぇ!」


 再び腕を掴まれた。顔を合わせるわけにはいかない。危害を加えないよう、そっとその手を退けようとすると、男の子はまっすぐに僕を見上げて聞いてきた。


「ねぇ、ふしぎな生きものさんって、泳ぐの得意なの?」


 突然の質問に、一瞬言葉を探した。あの先生と同じ質問。なにかを期待するようなまなざし。質問の意図が分からず、苦々しく顔をそらす。心の奥で渦巻く感情を押し殺して、曖昧に答えた。


「そりゃ、まぁね」

「じゃあさっ」


 男の子の顔がぱっと明るくなり、無邪気な声で続ける。


「僕に泳ぎを教えてよ!」


 その声が、海岸に響き渡り、思わずその子供を振り返ってしまった。その明るい目は、あの娘と同じ春の太陽のような輝きで、けれどそこにはあの娘とは異なる無邪気さがあった。僕を恐れているようには、見えない。


「ムリだよ。ちゃんとした大人の人間に教わりな」


 それでもきっぱりと言い放った。恐れているかなんて関係ない。先生の練習だけでも大変なのに、子供の面倒を見るなんて、御免だ。それに、人間なんて嫌に決まってる。そういった瞬間、男の子の瞳に涙が溢れ、ぽつりとこぼれ落ちた。

 は、なんで、泣いて……。

 小さな体が震えながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。


「ずっと、ずっと、お父さんもお母さんも、みんな教えてくれるんだけど……どうしてもうまくいかなくって」


 涙を流しながらも、その手はしっかりと僕の腕を掴んでいた。


「思わず逃げ出して……でも期待に応えたくって」


 しおらしい顔をしているけれど、その奥には「教えると言うまでは絶対に離さない」という強い意志が滲んでいる。


「毎日が苦しいんだっ」


 悲鳴のような言葉とはっきり力の込められた腕。

 随分としたたかな子だな。その姿を見て、胸の奥に不快な感情が広がった。 それは別にそのしたたかさを不愉快に感じるわけではない。この子の苦しみを、どこか理解してしまう自分がいる――それが嫌だった。僕の嫌悪感は、この子のせいじゃない。そんなことは分かってる。人間と関わっていいことなんてないことも、十分に。

 けれどその言葉が、なんとかしたいという意思が、僕に突き刺さり、どうして無視できなかった。子供を突き放すことなんて簡単なはずなのに、なぜか向き合って立っていた。


「……分かったよ。でも他の人間たちには言わないでね。僕は人間が好きじゃないんだ」


 諦めて呟いた言葉に、その子は笑顔を見せた。


「うんっ、僕はハル。これからよろしくお願いします!」

「ザハルだよ。よろしくね」


 顔を背けてそっけなく返した言葉に、ハルは無邪気に言う。


「僕たち、名前がそっくりだ。おそろいだね!」


 無垢な子供の笑顔を見つめて、すぐに後悔した。なんで引き受けちゃうんだろう……。人間と関わってもいいことなんてないのに。そうだ、良いことなんてきっとない。頭に残る、あの声の爪痕。「おぞましい」と人間に叫ばれたあの日の記憶が、静かに胸に沈んでいる。

 それでもこの小さな手を、僕は振り払うことができなかった。

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