5
そうして転移したミズティラ海岸。こちらは冬のモンスターの世界と違い、春の終わり。少し暖かな日差しを感じる。イッテツ先生はこの世界を見たことがないのか、ぽにょぽにょ飛んで駆け走っていた。
「わわわ~、これが海! これが砂浜! これが太陽!」
「ほらほら、海は逃げませんから。とりあえず浸かってみてください」
「そ、そうだね。まずは海に足を入れなきゃね」
病院の時とは真逆、こちらが子供をあやすように声をかけた。この先生の面倒を見なきゃいけないのかと、少し不安になる。なぜか不穏なことが起きるような、そんな気がしてならない。
先生はどこが足かも分からない体を、恐る恐る海に浸した。そうして入っていくうちに、段々と浮かび上がり、ぽよりと海面に浮かぶ緑の球体。
「あれ、あれれっ」
ふにょふにょ慌てた様子でぷかぷかと漂い出す。その姿は海に浮かぶブイのよう。まさかと思い、問いかけた。
「スライムって……浮くんですか?」
「そ、そうみたいだね!」
浮くなら水泳なんて必要かな?
腕を組んで頭を悩ませると、はるか遠くの方から小さな叫び声が聞こえた。
「たすけて~、ザハルさん、はやくっ」
叫び声に視線を向ければ、いつの間にか遠くの彼方へと流されているイッテツ先生。浮いてはいるが、ツンツンと海鳥に突っつかれて泣いている。僕は慌てて飛び込んで、一気に先生の元へと泳ぎ寄った。近くに来た僕に安心したのか、息を吐いて、くふりと先生は笑った。
「びっくりしちゃった」
そういって、くふくふ笑う姿に、呆れながら先生を引っ張って浜辺へと向かう。
「ザハルさんはやっぱり泳ぎが早いんだねぇ。一瞬でこんなところまで来れちゃうなんて」
「そういう問題じゃないですよ……」
海鳥に虐められてたくせに、よくそんな呑気でいられるな。のほほんとした姿に呆れながら、先生を波の影響が少ない浅瀬まで連れ戻し、人差し指を立てて厳重に注意する。
「先生、もう少し波には気を付けてください」
「うんうん、気を付ける、気を付ける。ありがとうね、ザハルさん」
本当に分かってるのか、このスライムは。
にこにこっと明るく返事をする先生に、何かを言い返す気も失せた。まん丸で能天気で……あれ?、このモンスター、そもそも手足があるのか?
「イッテツ先生は、その、足のように動かしたりできるのですか?」
「うん! 少し時間はかかるけど、形は変えられるよ」
にょきり小さな角のようなものを生やした。これなら多分いけるかもしれない。少し柔いから波を打つ力は弱そうだけど、動く方向くらいは定められる。
「では、それを足のような形に変えて泳いでみましょう」
声をかけ、先生の背中を押した。どうせ浮くのだから僕の手は必要ないだろうと、海に足を入れなかった。先のトラブルはどうしようもないが、やはり海の中で聞こえるあの声が、おぞましいと叫ぶ声が、どうしても気にかかった。砂浜から大きな声で伝えながら、泳ぐ姿勢を見せる。
「さて、まずは泳ぎの基本を教えますね。足は交互に、まずはゆっくりと動かしてみてください」
「うん!」
先生はやる気十分ににょきりと足をはやし、バタバタと動かすが……。
「うわっ、あわわ!」
バシャリと水を跳ね飛ばし、つるんとひっくり返った。ぶくぶくもがもがと呻く泡の音が漏れ、ぴちぴちと足を天に向けて動かしている。
「先生っ、大丈夫ですか!」
流石に慌てて海に入り、引き上げると、イッテツ先生は目をしょぼしょぼさせながら、弱々しくぼやいた。
「み、みずが目に染みるぅ……」
「そりゃ海水ですからね。というかスライムなのに、海が苦手なんですか……?」
「温泉とかは入ったことあるけど、海には近寄ったことすらなかったよ……。だってなんか怖いんだもんっ」
それでよく「泳ぎ教えて」と言えたな。
僕はおもわず頭を抱えた。
水泳教室は続いた。
「ほら、腕でカーブを描くように水に滑り込ませて!」
「う、うん、こうかな?」
必死に腕を動かすも、直線的にバシャリと水を叩いて撒き散らすだけで前に進めない。
「それじゃあ、水中で足を交互に動かしてみてください」
「はぁ、はぁ、はぁ……足ってどこだっけ?」
何度も何度も何度も説明しても、動きが一向に良くなる気配はない。むしろ。
「キャーー!!」
「次は何ですか、イッテツ先生!」
「クラゲが……クラゲが……、ピリピリッて」
涙を潤ませながら訴えてくる。
あんたもクラゲみたいなもんだろうが。
大きくため息をついて首を横に振った。そう、先生はトラブル体質なのか次々と海のトラブルに巻き込まれる。浮いていたらクラゲや海鳥に絡まれ、泳げば波にさらわれ、果てにはザリガニに挟まれパニックになる始末。
「はぁ、はぁ、どれだけトラブルを引き寄せたら気が済むんですか……」
「やっぱり、海って怖いねぇー」
救い上げられ浅瀬に引き戻され、悲鳴を上げた本人はへらりと笑う。
僕は対照的に、何度目かの救出を終えて、頭痛がしていた。このスライム、おそろしく泳ぎの才能がない。
「とりあえず、ひとまず休憩しましょう」
というか、僕が休みたかった。このお転婆で何をしでかすか分からない未知の生命体を砂浜に置きたかった。疲れ果てた僕に対し、ぷかぷか引きずられながら先生は楽しそうに笑う。
「ねぇ、ザハルさん。あっちの渦巻いてるところ、何かあるのかな?」
そうして指差したのは、沖の方で小さく見える渦潮だった。あんなのどう見ても危険に決まってる。さすがの先生もそこまで馬鹿じゃないだろう。
「じゃ、見てくるねー」
……は?
興味津々に浮力に任せて沖に流れて向かい始めた好奇心の塊。慌てて捕まえようとして、するりと抜けた。
「わわわわっ! なんかっ引っ張られてっ」
案の定、渦に巻き込まれた先生は、くるくると回転しながら飲み込まれていく。慌てて抱え込むように先生を引っ張り上げ、全力で浅瀬まで走り泳いだ。ぜぇぜぇ息を切らしながら砂浜まで戻り、ようやく息を整えて、声を荒げて叱りつけた。
「先生、なんでそんな危険な場所に行くんですか!」
「だ、だって、すごいおもしろそうだったし……」
目をぐるぐるとさせながら、言い訳をする先生。なにがおもしろいだ。毎回助け出すこっちの身にもなって欲しい。
「……あれはおもしろいんじゃなくて危ないんですよ。次は絶対に近づかないでくださいね」
「うん、もう行かない……たぶん」
最後の一言に、思わずこの緑の塊をぶっ叩きそうになった。
ミズティラ海岸の夕暮れ時。日も沈み、水泳教室の終わりを告げようと口を開けると、先生は円らな瞳でこちらを見つめた。
「ザハルさん、僕、もっと泳ぎたいなー」
「まだやるんですか?」
これ以上上手くなるかなぁ、ムリだろうなぁ、休みたいなぁ。そう思ったが、先生の目は真剣そのものだった。
「泳げるようになってさ、宝さがしに出かけたいんだよね」
目をドルマークにに輝かせながら、ほわほわと海賊船に眠る金銀財宝を想像している。
もう呆れ果てて言葉も出ない。これ本当に医者か?
「それにザハルさんも、こういうトラブル楽しいでしょ?」
ニヤリと笑って、煽るように見つめられた。
なにが、楽しいだ。こっちは先生のトラブル吸引体質のせいで、こんなに疲れ果てているというのに。文句を告げようとする僕に、キラキラとした期待の眼差しが突き刺さる。それに耐えきれなくて、結局流されてしまった。
「……分かりましたよ。先生の気が済むまで、つきあいます」
「やったー! がんばろうね、ザハルさんっ」
先生の顔がぱっと明るくなってぽゆりと跳ねた。飛び跳ねはしゃぐ先生に、少し後悔しながら僕は海へと視線を向ける。また、絵本の世界にいることになるのか。おぞましい叫び声が聞こえるきっかけとなった物語。その世界にこうしていることが、何処か不思議だった。
そうして数日後、また水泳教室は始まった。
「今日こそ泳げるようになるねっ」
毎回そう意気込む先生だったが、何も進歩は見えない。今もぷかぷかと浮いているだけだ。僕は早々にクロールを諦め、背泳ぎの練習へと切り替えていた。そもそもスライムには浮力があるせいで、顔を水につけることが難しいことが分かったからだ。
先生は両手をわずかに動かしながら、今もぷかぷかと漂っている。まさしく海に浮かぶクラゲだ。先生には多分、泳ぎの才能がない。
『僕、もっと泳ぎたいなー』
けれど熱意だけは毎回ブレない。相変わらず進展は遅いが、少しずつ腕や足の動きがぎこちないながら形になってきた気がする。今日のところはこれで十分だろうと練習を終えようとしたとき、またあのはしゃぐ声が海に響いた。
「あの波すごい、あれなら遠くまで連れてってくれそうだよっ」
大きな声で、ぺちぺちと体を動かして、大波へと向かっていく。予測不可能な緑に腕を伸ばして叫んだ。
「待ってください、また——」
「大丈夫、大丈夫。波はおともだち」
そういってふよふよと近づき、先生は渦潮の時と同じようにざばりと大波に巻き込まれ掻き消えた先生を、僕は慣れた手つきでそれを救い出し、砂浜にぽんっと置いた。
「いいですか、真剣に聞いてください」
「うん」
「波は友達じゃありません」
「はい」
みずみずしいスライムが、しおしおと枯れた。




