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「はーい! 遠慮なくどうぞー!」
僕の不安をかき消すほどの、能天気な声が扉の向こうから聞こえた。ガチャリと開けると、足元にいるのはちょこんと転がる緑のスライム。ほにょほにょとした笑顔を浮かべるその雰囲気は、クラーケンさんの言う「頼れる方」にはとても見えない。
このスライムがイッテツ先生……?
「初診さん?」
「え、あ、そうです」
「いやー、だーれも来ないし、暇で暇でねちゃいそうだったんだ~。ちょうど良かった」
先生は口元を緩めて言った。そのままぺちゃりぺちゃりと弾み、診察室へと連れて行かれる。
「それで、今日はどうしたの?」
ちょこんと椅子に座るイッテツ先生と机を挟んで向かい合い、事情を説明した。
「声が聞こえる?」
「はい……。絵本の役回りがきっかけで。最初は鏡とか、自分の姿が映ったときだけだったんですけど、だんだんと、海の中にいるだけで聞こえるようになってしまって……」
「それは困るねぇ、だってサハギンさんって海が住処みたいなものでしょ?」
「そう、なんですよね……」
ふむふむとワザとらしい相槌を打たれ、ほんの少しの不信感を覚えた。本当にこんなスライムに治せるのかと、もやもやとしたものが胸に渦巻いたとき、椅子でぴょんと先生は跳ねた。
「念のため、他の病気の可能性がないか確認するね!」
「えっ……」
「大丈夫、大丈夫、採血だけだから。ササっと終わるし、怖いことないない」
机に飛び乗ると、僕の下までやってきた先生。まるで子供を宥めるようにぷにぷにと僕の身体を叩く。
そりゃ、まぁ、採血程度で怖がるモンスターなんていないだろうな……。
なんだか気が抜けてしまって力を抜いていると、先生が後ろを振り向いて声を掛けた。
「おみつさーん、採血お願いしまーす」
呼ばれ出てきたのは、ゆるりとした深紅の服を纏う少女。Tシャツでも、僕らが着るような服でもない。袖が広く、金色に煌めく腰紐か帯のようなものを巻いた、滅多に目にすることのないその服は「和の服」 だった。
少女の肌は色が抜け落ちたように白く、その小さな顔にはやわらかな茶色の瞳と深海の珊瑚を思わせる薄桃色の唇。それらは彼女の魅力を一層引き立てているようで、僕は思わず見とれてしまったが、すぐに息を呑んだ。
「——ッ、人間……ですか?」
そう、その少女は正しく人間の姿。僕の驚きに、少女は顔色ひとつ変えず口元に袖をやるだけで何も言わない。
人間は苦手だ。だって、前に。
思考がぐるぐると渦を巻いて絵本の世界へと引っ張られる。またあの声が聞こえると、ギュっと瞼を閉じようとして、
「あー、ちがうよー」
間延びした声がそれを引き留めた。くにょりと曲がった先生は、身体を伸ばして少女を指さす。
「おみつさんはね、吸血鬼。ほら、西洋のヴァンパイアってあるでしょ。それの日本バージョン?みたいなのだよ」
「ヴァンパイア」と言われ、なるほどと腑に落ちた。確かに彼らは鋭い牙を持っているが、日常的に人間の暮らしに紛れ込めるほど、姿は人間そっくりだ。それなら僕と一緒だと、ふっと安心して小さく息を吐いた。
「じゃ、おみつさんよろしくね」
先生は軽く手を振って少女を促した。少女はくいっと首を向けて僕を採血室へと促す。そのまま採血台に腕を乗せると、血管を確かめるように腕に少女が触れる。その細い指先が、桜貝の爪が、近づいた顔が、あまりに綺麗でどぎまぎとしてしまう。
ほんと、綺麗な子だなぁ……。
つい見とれていると、血管に針を刺された瞬間にひょこりとイッテツ先生が顔を出した。
「あ、忘れてた。今日は飲んじゃだめだよ、おみつさん」
今日は、飲んじゃ、だめだよ……?
不穏な言葉に少女を見やれば、先ほどの柔らかな茶色の瞳はあわい光を放つ金色となり、どこか興奮した視線は注射器の指す方へ。軽く僕の腕を固定していた少女の細い腕のどこにそんな力があるのか、ぐっと押さえつけられ、獲物を狙っているようで。ただでさえ血色の良くない僕の顔色が、海の青さに変わっていくのが分かり、ごくりと唾を呑んだ。
もしや……この子、僕の血を飲もうとしてる?
ササっと終わるはずの採血が、体が強張り、永遠に感じる地獄の時間へと変わる。少女の口からはちらりと鋭い牙がのぞき、ぺろりと唇をなめて、僕の腕を凝視している。
……怖すぎる。とっっっても怖い。
終わったのか針を抜かれて、一息つくも、少女は採った血液を恍惚とした表情で眺めていた。にんまりと怪しく上がった口角に、またしても頬が引き攣った。ぶるりと震えあがると、ひょっとイッテツ先生は顔を出した。
「それ、検査に回すからね。飲んじゃだめよっ」
先生は少女に釘を刺し、僕を診察室へと連れ戻した。先の少女にどっと疲れて腰掛ける僕を気に掛ける様子もなく、イッテツ先生は明るく話しかける。
「ザハルさんってさ、泳ぐの得意?」
それは突拍子もない質問だった。何の質問なのだろうと、意味が分からずも言葉を返した。
「そりゃ、まぁ、得意というか、サハギンとして普通だとは思いますが……」
「へぇ~、じゃあさ、泳ぎ教えてよ! ススイッと海を泳ぐのが僕の夢でねぇ~」
先生はどこかふわふわと遠くを見つめ、ススイッと泳いでいる自分の妄想をし始めた。
泳ぎを教える? なんでそんなこと、というか僕のことはどうなったんだ? ムッとした表情で聞いてみた。
「あの、それは治療に関係あるんですか……?」
「まぁまぁ、こういうのって時間かかるから。焦らず焦らず」
どこか答えを濁されているようで、胸がもやもやとする。
もしかして、バカにされてるのだろうか。そう思うと思わずカッと熱くなって、「早く解決する方法を!」と訴えようと立ち上がった。
「あのっ――」
「君たちサハギンのいる海の世界にも行ってみたかったんだよねー」
その言葉で氷海をばしゃりをかけられたように体が冷えた。身体から力が抜けて、唇がわななく。
「それは! ……やめた方がいいと思います。あそこは結構気性が荒い奴らが多いですから」
引き攣った笑みを浮かべて言った自分の言葉が、ひどく苦しい言い訳のように感じた。今あの仲間と、ルズと、顔を合わせてどうしようもない自己嫌悪に襲われるのが嫌で。
「そっかー。ならさ、絵本の世界は?」
「絵本って前の僕が行った世界ですか?」
「そうそう、あそこはザハルさん以外モンスターもいない平和な世界でしょ?」
その言葉に胸を撫で下ろした。仲間と会うこともない。確かにあの世界は平和で、「物語」も終わり、もう海岸に近づく人間もほとんどいないんだろう。
「でも、役回りもないのに、絵本の世界に行くことなんて可能なんですか?」
「ふふん。なんと僕はね、医療目的として物語の世界に行くのを認められているのだ!」
胸を張りながら「これぞ、医療特権!」とぴょんぴょん椅子の上を愉快に跳ねている。無邪気で、責任感のかけらもなさそうな、緑のスライム。その姿を、僕はぼんやりとみることしかできなかった。
あの声を何とかしてほしいはずだったのに、なんで泳ぎを教えることになってるんだろう……。
浮き輪にサングラスにビーチパラソルにと、ワイワイはしゃぎながら支度するイッテツ先生。過去のルズたちのとんでもない計画が脳裏をよぎり、嫌な予感で体を震わせた。




