社会の時間
第一部、第四話。
「ということで、僕も入院することになりました」
「はぁっ!?」
リコがものすごい顔をする。
しょうがないじゃんか……。
やっぱり怒られるのかな……。
「あんた、大丈夫なの!? 体はなんともないの?」
あれ、意外と心配してくれてる。
なんか優しい。
「う、うん。とりあえずは大丈夫みたいだけど、やっぱり隔離されて個室になるみたいだね」
「こんなところに来て怒られない?」
「昼間は自由にしてていいって。学校には行けないけど、これでリコといっしょに勉強できる時間増えるね」
「ばか」
「うん?」
「それどころじゃないわよ。ちゃんと治療に専念しなさいよ」
リコが顔を背けてしまう。
どうしたのかな。
「あの、リコさん……?」
「あ、あんたが無理しないように見張っててあげるから、ちゃんと顔出しなさい」
「分かった!」
「もう」
リコが許してくれたから、また明日もちゃんと顔出そうっと。
「ねぇリコ」
「どうしたの?」
「今日も勉強しようよ」
「あんたねぇ……」
「暇なんだよね。気晴らしに付き合ってよ」
「……」
「……怖いんだ、僕」
「タクミ……」
「これからどうなるか、分からない」
「……」
「……あはは。ごめんごめん。気にしないで」
「……わたしより……」
「え?」
「わたしより先に死んだら、許さないから」
「分かってる」
「あんたがいなくなったら、誰が勉強おしえてくれるのよ」
「リコなら大丈夫」
「そういう問題じゃないっ!」
リコの声が、震えてた。
「お父さんも、お母さんも、わたしを見ると悲しそうな顔するし。学校行ってもなにも出来ないし。そもそも行けないし。頭が良いとか病弱だとか、幸せだとか不幸だとか、頑張ってるとかサボってるとか、もううんざり!」
リコが取り乱してる。
僕は、どうすればいい。
「あんたが、あんただけが普通に接してくれてたのに。これからどうすればいいのよ。もう、わたし……」
「リコ」
椅子から立ち上がって、リコが体を起こしてるベッドに近づく。
「っ、なにするの」
「ごめんね」
リコの手をそっと掴んで、やさしく握りしめる。
「なっ、なによ」
「僕はまだ生きてる。リコも生きてる。生き物はみんな死ぬんだよ? だったらさ、思いっきり生きようよ! 時間は限られてるかもしれない。僕たちにできることは勉強くらいしかないかもしれない。それでも、いっぱい勉強して、いっぱい思い出作ろうよ!」
「……死んじゃったら、勉強しても意味ないじゃない」
「この世界をしれば、死ぬことだって受け入れられる! 知識は救いなんだよ! 恐怖も必要だったんだって思えるよ!」
「……あんたは」
「なに?」
「やっぱりあんたは変態ね」
「へ?」
「いつまで手を握ってるのよ、変態」
「あっ、ごめん」
リコの手を離す。
「あんたみたいな変態に教えられるなんて、わたしもレベルが低いわね」
「ごめんね」
「……いいわよ」
「なに?」
「付き合ってあげるって言ってんの」
「ふむ」
「なにとぼけてるのよ! あんたの遊びに付き合ってあげるって言ってんの!」
「勉強してくれるの?」
「ええ。死ぬ直前まであんたと遊んであげるわよ。どっちが長く生きられるか競争よ」
「いいね!」
「……あんた意味分かってる?」
「もちろん!」
「……タクミの頭の中が知りたいわ」
「ありがとう」
「……」
そうやって僕とリコは、勉強を再開した。
社会の教科書の一ページ目に、きれいな写真はなかった。ちょっとさみしいけど、それでもよかった。
社会は大好きなんだ。
だって。
「ほらリコ、ここ」
「なに?」
「この『歴史の旅を始めよう』ってやつ」
「よく気づくわね」
「うん。その中の、『経験の宝庫』のまわりをみて」
「分かった」
リコがちょっと読む。
「えと、『教訓とヒント』ってこと?」
「そうだね。歴史は、いろんな人の失敗と成功を学べるひとつだけの手段なんだよね」
「考えたことなかったわ」
「みんな、暗記するだけの記号だと思ってるけど、じっさいはほんとに『リアルな』教えがつまってるんだ」
「なるほどね……」
「だから僕はいちばんすき」
「そのつもりで見とくわ」
「うんうん」
僕はそのとなりのページを見る。
「じゃ、『つながる歴史』の八ページ目。『ハンムラビ法典』『カースト制度』『殷』を見て」
「なかなか重いところね」
「そう。人類の歴史は、差別と格差の歴史でもあるんだ。紀元前十八世紀って……いつごろだろ」
「いまから……三千八百年くらい前かしら?」
「わお、すごいね」
「リコさんを舐めないでほしいわ」
「舐めてないよ」
「ふん」
「それで、三千八百年前にはもう身分なんてものができてる」
「ひどい話よね。身分なんてどうしてあるのかしら」
「そこを話しだすと長いから、別の話をするね」
「うん」
「それで、個人的には、人間が互いに苦しめ合うのは、本能の影響も大きいと思っててさ」
「そうなの?」
「うん」
「生き残るために大事なことは、だいたい理性と反するんだよね」
「え……そうかしら」
「リコは違うと思う?」
「うん」
「そっか」
「だって、本能があるから生き物は進化するはず。理性は本能の上にあるものでしょ」
「そうだよね……。なかなかうまくいかないね」
「そうよ。本能がなかったら、人を好きにもなれないし」
「ん? リコ、好きな人いるの?」
「……えっ?」
「その言い方がさ」
「……いや、えっと……」
「ごめんごめん。変なこと聞いちゃったね」
「……」
リコの顔が赤い。うーん。うらやましい……かな?
「で、でもさ、負の側面を肯定するわけじゃないけど、人間って、そもそも苦しむようになってる。そうも思うんだ」
「え……そんなこと……」
リコがのってくれた。よかった。
「だってさ。幸せしかなかったら、努力しないでしょ?」
「それは、そうかもしれないけど……」
「はい。白いキャンバスを想像してください!」
「なによ急に」
「リコさんは絵を描きたい。でも絵の具はキャンバスと同じ白しかありません。さて、絵が描けるでしょうか」
「描けるわけ無いでしょ」
「はい。描けません。これ幸せ百パーセントの状態です」
「はあ……」
「では次は黒いキャンバスに……」
「黒でしょ? 不幸が百パーセントね」
「さっすがあ。じゃ、グレーのキャンバスに……」
「なんとか見えるわね。要するにいろんな色がないとってことでしょ」
「その通り。人生ってそんなもんでしょ」
「また典型的な例ね……」
「そうなんだけど、『空白に色を塗ろう』とかいう話じゃなくて、そもそも、自分と他人の人生は」
「……『そもそも、他人は別人格であり、別個体であり、別の生命体である。他人を完全に理解できていると思うことは、他人を理解しようと努力してこなかったことを如実に表している』……ニコライ・ハンツマンでしょ」
「……さすが……」
リコって、そういう方面にも詳しいんだなあ。
なんか。
「はい。タクミさん。ニコライ・ハンツマンの最も有名な格言を答えてください」
「ええと……」
「人間の最も美しい行いは、他人を理解しようと努力することである」
「人間の最も美しい行いは、他人を理解しようと努力すること、だっけ」
「せいかい!」
「やった! というかリコってほんとすごいね! ハンツマン全部覚えてるの!?」
「哲学は結構好きなのよ」
「ハンツマンって他にもあったよね、ほら……」
「ええ。『深い理解は深い心を生む』、『理解なくして平和なし』、『うわべの理解は海に浮かぶ薄氷のごとし」、『自己理解は他者理解に先立たず』、『他者理解は始まりに過ぎず』とかね」
「うわあ……! すごいっ! なんで? なんでそんなに覚えてるの?」
「……誰かさんに近づきたかったからかもね……」
「え、なんて?」
「あはは、なんでもない! 私が有能だからよ!」
「まあ、それは認めるけど……」
「なに。なにか文句でもあるの?」
「ハンツマンってさ、なんでこんなに『理解』にこだわったんだろう」
「それは、まあ……」
「リコはどう思う?」
「そうねえ……誰かに理解してほしかったんじゃない?」
「なるほど……よく思いつくよね」
「私だって理解してほしいし」
「誰に?」
「……」
リコが黙ってしまう。
誰なんだろう。
そんな人がいるのかな。
おじさんやおばさんの話なのかなあ。
さすがに聞きづらい。
「というか、これじゃ哲学の授業じゃない!」
リコが急に気づいたみたいに大声を出す。ありがたい。
「広い意味で社会ってことで!」
「なに言ってんのよ! だめよ!」
「いいじゃないですかあ、テストで点取れなくても」
「言い方がいちいちムカつくのよ」
「あっ、ひどい!」
「ひどくないわよ。当然よ」
「もう勉強してあげないもんね!」
「ああん!?」
ひっ。リコの顔が怖い。
「すみません……いつでも来ます……」
「なら良し」
「……」
「……」
なんか、僕たち、馬鹿みたいだ。
そう思ったら、笑えてきちゃった。
「ははは……」
「ふふ……」
リコも笑ってる。
胸がいっぱいだった。こうしてずっとリコといられればいいのに。そう思った。
「あ、それと。リコのことだけど」
「なに?」
「さっきリコが言ってたでしょ。『頭が良いとか病弱だとか』って」
「あぁ、あれね。忘れて」
「忘れないよ」
「なんでよ」
「リコの気持ちだから」
「え……」
「慰めにはならないけど、リコがそう言われるのは、リコが強くも弱くもあるからだと思う」
「そう、かしら……」
「たぶんね。でもさ、ハンツマンも言ってるでしょ、理解しようって」
「そうよね」
「他人がなんでそんなことを言うのか理解すれば、きっと心も静まるよ」
「まだまだ、私にはできそうもないわ」
「っとか言ってる僕も全然できないけどね!」
「タクミはできてる方だと思うけど……」
ありゃ、褒められた。
珍しい。
「リコさんが褒めてくれるなんて珍しいね」
「あんたが深刻そうにしてるからでしょ」
「どこが」
「そのくらい分かるわよ」
図星だった。
内心、不安と悲しみでいっぱいだった。
「タクミ」
「なに?」
「わたし、あんたのこと、もっと理解したい」
「えっ?」
リ、リコさん?
急に真面目な顔になるからびっくりしてしまう。
「あんたも、わたしのことを理解する努力、してよね」
「それって……」
「はい、か、いいえ」
「はい」
そんなの。
そんなの受け入れるに決まってるじゃん。
「だから」
「うん?」
リコが少し悲痛な顔になる。
「だから、ナルコシンクなんかに負けないでよね」
「うん、頑張る」
僕は努めて明るく振る舞う。
「ほんとでしょうね……」
「リコのために、がんばる」
「ばっ、ばかね、あんたは……」
「はは……」
そうして、僕は自分の病室に戻った。
夢を、見た。
『あなたは、なにを望みますか?』
僕の望み。
『あなたは、生きることを望みますか?』
リコと生きたい。
『あなたが望むならば、わたしたちは手を差し伸べます』
ほんとうに、いいの……?
『そのかわり』
えっ?
『そのかわり、誰かが犠牲になります』
ぎ、せ、い……?
『望みとは、せつないものですね』
何の話をしてるの……?
『私たちは、待っています』
体が浮かんでゆく。
『あなたの決断を、待っています……』
「っ!」
目が覚める。
正面にあるのはかすかに照らされた天井だけ。
顔に違和感がある。
僕、泣いてるのか。
「はは……末期だなあ」
リコ……。
「死にたく、ないなあ」
気づいたら、夢の涙とちがう涙があふれてた。
その日は、それ以上眠れなかった。
夜の間に寝たら、どこかに連れて行かれそうで。
ぜったいに、寝てやるもんかって思った。
その日はぜんぜん勉強に身が入らなくて、リコにすごく怒られた。
僕の部屋に置かれた、ヤスダさんの機械が、やけに光ってるような気がした。