愛されず捨てられた王女は、子犬殿下と仲睦まじくなりました【改稿版】
子どもが虐げられる描写があります。苦手な方はご注意ください。
王宮の森には、魔女が住んでいる。
魔女は、人を操る魔法を使えるそう。
恐ろしい魔法だから、魔女は森に閉じ込められているのだ。
私、ペネロペは魔女に会いたくて、泣きながら灰色の猫を追いかけていた。
***
プロスタコフ王国、第一王女。8歳。それが私の肩がきだけど、王宮には住んでいない。私が暮しているのは、狩場に、ぽつんとある塔だった。
見張り台がある5階建ての塔。2階には昇るはしごがないから、私が生活するのは1階だけ。寝室と、勉強部屋しかなく、部屋の仕切りはない。
3メートルある高い天井、石の壁と床。暖炉は勉強部屋しかないから、寝る時はひどく寒かった。
腰の曲がったばあやが、身の回りの世話をしてくれる。他国に嫁ぐ日まで、私は一日中、塔の中で勉強して過ごしていた。
勉強は厳しかった。
塔にくる家庭教師は、答えを間違えると、石の床に座りつづけろと言う。
冷たい石の床に素足をつけると、足がしびれて感覚がなくなっていく。立てなくなる。じっと耐えていると、頭から水をかけられた。汚した服も、床も、罰として自分で片づけなければならない。
ばあやが手を貸せないように、家庭教師は鞭をもっていた。鞭をふるい、ぴしゃりと音を立てて、ばあやをけん制する。
私は毎日、怒られていた。
家庭教師を見るだけで震え上がり、私は言葉がでてこなくなった。
誕生日を祝ってくれるのは、ばあやだけだった。
それは、お父さまも、お母さまも、王太子であるお兄さまにしか興味がないからだ。
お兄さまはお母さまに似て、輝く金髪と青い目をしている。
私は赤さび色の髪に、新緑色の目。茶色い髪のお父さまより、赤みが強い。瞳の色は、家族の誰にも似ていなかった。
それでも、年に1度の復活祭の時は、お母さまに会えた。今年は、ばあやが、真っ白なリボンを髪に飾ってくれた。
「今日は特別な日ですから、髪型もおしゃれにしましょうね」
「あり、がと……ばあや」
わくわくしながら、堅牢な王宮のダンスホールに足を踏み入れる。
ろうそくの炎がゆらめく三段のシャンデリアが天井にいつくもぶら下がっていた。
お母さまを見つけて、習った淑女の礼ををする。お母さまは私を見ると、扇子を広げて口元を隠す。私が一歩前にでて、手を伸ばすと、お母さまは扇子を畳んだ。柄を振り上げ、パシンとわたしの手を叩く。
「汚い手でドレスに触らないで頂戴。このドレスを作るために、半年も時間をかけたのよ」
「ご、……めんな……さい」
それから話すこともなく、私はダンスホールの隅で息を殺し、周りをみていた。
「この料理、まずい! キライ!」
お兄さまが大声をだして、テーブルの下に皿を落とす。陶器の皿がパリンと割れ、子ヒツジのローストが床に散らばる。
私は音にびっくりして、両肩をすくめた。お母さまがドレスをさばきながらお兄さまに近づいて。
「ああ、ガルディーニャ……かわいそうに。シェフは誰なの? 即刻、クビにしなさい」
周りに命令していた。
お父さまは酒を飲んでいた。薄衣をまとった、きれいな女の人に囲まれて、にたりと笑っている。
蒼白になる使用人たちを見ていられなくて、私はこっそりダンスホールを出た。
すれ違う人は誰も声をかけない。私は透明人間になってしまったみたいだ。
塔に戻ってくると、涙がこぼれた。ばあやが私を抱きしめてくれる。
「ペネロペさま……」
「おかあさま……わたしのこと、ことっ……きらい、なのっ」
「妃殿下が辛くあたられるのは、期待のあらわれですよ。ペネロペさまが優秀だから、妃殿下は厳しくされるのです」
ばあやは、そういうけど、言葉は心を素通りした。髪に結んだ白いリボンを自分で解く。畳んで、スカートのポケットにしまった。
私には、ばあやだけだった。
そのばあやが、寒い日に、風邪をこじらせてしまった。
寝室に敷いた藁の上で、ばあやは苦しそうにせき込んでいる。
「ごほっ、ごほっ」
「ば、ばばばば、ばあやっ、だい、だいじょうぶ?」
「大丈夫で……ございます……よ」
ばあやは真っ白な顔で、私に言う。
「お優しいペネロペさま。ペネロペさまはお勉強をうんと頑張っていますし、きっとよい縁談に恵まれます。……幸せに、なってください」
そんな。――遺言みたいなこと、言わないで。
私はいやいやと頭をふって、駆け出した。
勉強部屋にいる家庭教師の服を引っ張って、彼女にお願いした。
「ば、ばあやっ……ばあやを、た、たた、たすけて」
「何を言っているか、わかりません。そのような話し方じゃ、どこの国にも嫁げませんよ?」
「おね、おおお、おねがいっ……くすっ……くすりをくだ、くださいっ」
「今日はみっちり言語の授業をしましょう」
何をいっても、伝わらない。家庭教師に椅子に座らされる。いやいやと暴れると、手がぱんぱんになるまで、鞭をふるわれた。
ようやく家庭教師が塔から出て行ってくれた。
私はよれよれになりながら、ばあやに近づく。ばあやは、ほほ笑みながら目を閉じていた。
「……ばあや……? ……ばあ、や?」
ばあやのしわしわの手は冷たくなっていた。それが嫌で、私は両手で、ばあやの手を挟んでもんだ。何度もばあやの手に、息を吹きかける。
「ばあやっ……ばあ、やっ……ひとりに、しな、いでっ」
心の真ん中が、刃物でえぐられたように痛む。
いくら泣いても、ばあやの瞳は私を映してくれなかった。
いつの間にか眠っていたみたいだ。目を開いた時には、ばあやがいなくなっていた。
私は跳ねるように起き上がり、後方を振り返る。若いメイドがいた。パンを持って、ときどき塔にくる人だ。
メイドは、私を見てうんざりした声をだした。
「ペネロペさまあ! 死骸があるならすぐに言ってもらわないと困りますう! もー、伝染病にかかったら、どうするんですか? さあ、水浴びをしますよっ」
「や、っ……!」
メイドに連れて行かれそうになり、私は身をよじって彼女の手から逃れた。
そのまま塔の外へ飛び出す。
もっとちゃんと、私がお話しできたら、ばあやは助かったかもしれない。
後悔で胸が押しつぶされそうになりながら、あてもなく走った。
塔の周りはうっそうと草木が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。
とぼとぼと歩いていると、灰色の猫が草むらから飛び出した。
ふわふわの毛並みで、金色の瞳をした猫だ。猫がじっと私を見つめる。
「ねこ、さん?」
金色の目を見て、家庭教師がメイドと会話しているのを思い出した。
『ねえ、ねえ、塔の周りに魔女が住んでいるって本当なの?』
『ああ、……人を操る魔女さまの話?』
『そうそう、それ! 灰色の猫を連れているんでしょう?』
『ただの噂よ。それよりも、ねえ。私が王宮勤めになるって話はどうなったの?』
『あー……侍女長は何も言ってなかったわ』
『ちっ。あのババア。ほんと、役に立たない』
『わあ、怒ってるう~!』
『だって、ペネロペさまって、おかしな話し方をするし、どんくさいし、手がかかってしょうがないのよ! ほんとっ、早く、ここから出たい!』
『まあ、まあ。王宮にいればお金はもらえるしマシじゃない? 町にでてもさぁ。川にはネズミの死骸が浮いているし、パンが食べられないわよ~』
「まじょ、の、ねこ、さん……?」
狩場で猫は見たことがなかった。吸い寄せられるように猫に近づく。
「なーお」
「あ、」
猫は走り出してしまった。
「ま、って」
地面に盛り上がった木の根っこに足をとられながら、猫を追いかける。
もしも魔女がいたら。
もしも魔法が使えたら。
言葉がうまく話せなくても、私の気持ちは伝わるかもしれない。
――幸せに、なってください。
ばあやのほほ笑みを思い出して、じわりと目頭が熱くなる。
お話がうまくならないとダメだ。このままだと縁談があっても、また、嫌われる。
また、大事な人を失うことになったら、耐えられない。
私は泣きながら、猫の後を付いていった。
「え……」
視界が開けた。
小さな広場に出る。広場の真ん中に、丸太が横たわっている。それを椅子にして、女の人が歌っていた。
年は母より若いだろうか。燃えるような紅い髪に、緑の瞳。麻布の服を来た女の人の周りに、動物たちが集まっていた。
クマ、ヘラジカ、イノシシ。獰猛な動物たちが、大人しく座って、女の人の歌を聞いている。リスやウサギはぴょんぴょん跳ねて、うっとりと女の人を見上げていた。
灰色の猫が女の人に近づく。
「あら?」
歌をやめて、女の人が私を見た。びくりと体を震わせると、女の人が近づいてくる。
「まあ、可愛い子! 宝石みたいな綺麗な緑色の目ね! あなたの名前はなあに?」
キラキラと輝く笑顔で言われ、私は小声で言う。
「ぺ、ペネロペ……」
「ペネロペちゃんって言うのね! わたしは、アンジェラよ。」
「あ、あああ、あの……あなたは、……魔女さん、ですか?」
「え? 魔女? あらあ、そうなるのかしら?」
にっこり笑ったアンジェラさんに、私はたどたどしく、魔法を教えてほしいと頼み込んだ。
「人を操る? そんな魔法は知らないわ。わたしは、歌うことしかできないの」
「え……」
「ごめんなさいね」
眉を下げて言われ、力がぬけた。私は地面にしゃがみこむ。
「魔法、……ないん……ですか……」
魔法が唯一の希望に見えた。ささやかな光りが闇に消えていって、私は立っていられず、地面にへたりこむ。
もう、どうしたらいいのだろう。どうやって、生きていけばいいのだろう。
私は自分で自分を抱きしめて、芝生に覆われた地面を見つめた。
「ペネロペちゃんっ……どうしたの? ごめんなさい、泣かせてしまって」
アンジェラさんが私の顔を覗き込む。私は首を横に振る。それでも、涙がぼろぼろ、瞳から零れ落ちた。
しばらくして、泣き止んだ後、アンジェラさんにすべてを打ち明けた。たどたどしい私の言葉を、アンジェラさんは時間をかけて、ゆっくり聞いてくれた。
「……辛いことをたくさん経験したのね……」
アンジェラさんは痛ましげに私を見る。そして、何か言う代わりに、歌ってくれた。
澄んだ声。音が空気にとけていく。聞いていると、心のトゲがぬけていった。
「ペネロペちゃん、生きているものはみんな尊いのよ」
アンジェラさんは笑顔でそういうと、首から下げていたペンダントを私にかけてくれた。
飴色になった木でできていて、王家の紋章があった。
「ペネロペちゃんにあげる。いつでもいらっしゃい」
アンジェラさんは笑って、また歌いだした。
心地よい音階に身を寄せて、こくんと頷いた。
灰色の猫に見送られ、私は塔まで帰ってきた。
「ペネロペさまあ! どこに行っていたんですかっ! 勉強の時間はすぎていますよ!」
メイドに言われて、背中を丸める。
うつむいていると、家庭教師がペンダントを見て青ざめた。
「ペネロペさま……これを、どこで……」
ペンダントをとられそうになって、私はしゃがんで胸の前を手で隠した。
「陛下に報告しなければ……っ」
家庭教師は慌てて、塔から出て行ってしまった。
その日から、私はぶたれることがなくなった。怒鳴られることも。
メイドや家庭教師は、淡々と仕事をしていた。
でも、いいの。塔をこっそり抜けても何も言われないから。
私は勉強が終わると、アンジェラさんに会いに行った。
次にアンジェラさんに会うと、ばあやのお墓を作ってくれていた。
「ここにくれば、いつでも、ばあやさんに会えるわよ」
空っぽのお墓の周りには、白い花が咲いていた。
私は下唇を噛みしめ、うなった。
「うー、うー! う〜〜〜っ!」
泣くもんかと歯を食いしばって、目頭を服の袖でぬぐう。
泣いたって、ばあやは帰ってこない。
白い花が風でゆれた。熱くなった頬に冷たい風が吹く。
耳に届くのは、アンジェラさんの歌だ。
動物が集まり、腹ばいになって座る。
うさぎが私の靴の上を飛んで、黒い目で私を見上げた。手を伸ばしても、逃げない。ふわふわの体を抱きしめ、私はしゃがんで歌を聞いていた。
いつ行っても、アンジェラさんは動物たちに囲まれていた。そして、元気だった。
「ヘビちゃん! 今日も可愛いわね。リボンをつけましょ! あら、このリボン嫌い? 違うの持ってくるわね!」と、ニコニコして言ったり
「いやぁぁぁ! ダンゴムシちゃん! 元気になってぇぇぇ! 」と、大騒ぎしていた。
「ふふっ」
くるくる変わるアンジェラさんの表情に何度も笑ってしまう。
そして、歌をうたってくれる。歌うと、動物たちがリラックスして楽しそうだ。
何度も遊びに行くと、クマやヘラジカ、オオカミも体を触らせてくれるようになった。
艶のある毛並みを触っていると、幸せであたたかい気持ちになる。
緊張がほぐれて、アンジェラさんの前だけ、私は話せるようになった。
「アンジェラさん、……一緒に歌いましょう」
「ええ、もちろんよ!」
すっかり歌を覚えた私は、アンジェラさんと一緒に森の中で、合唱した。
腹の底から声をだすと気持ちいい。
胸をそらすと、背筋がピンと伸びた。
澄んだ空にハーモニーがとけていく。小鳥のさえずりは、ピアノみたいだった。
***
18歳になった年、私は唐突に王宮に呼ばれた。
薄汚れた服は脱がされ、灰色のデイ・ドレスに着替えさせられる。
肌身離さず身に着けていたペンダントはドレスの下に隠した。真っ白なリボンはポケットへ。
何が起っているのか分からず、緊張で身を丸めながら謁見室へ行く。
重厚な扉が衛兵によってうやうやしく開かれた。部屋の中は、王に続く壇上まで、レッドカーペットがまっすぐ敷かれている。
父と母は、金装飾がされた椅子に並んで座っていた。
父と母は、鋭く私を睨んでいた。
レッドカーペットに沿うように兄が立っている。私を見るなり、嫌そうに顔をしかめた。
兄の対面にいるのは、王国騎士団のレオニード公だろうか。
老齢の騎士団長は、よくできた彫刻みたいに立っていた。
私はレッドカーペットの上を歩き、父と母の前で跪いた。
「おまえの婚姻が決まった。相手は、ナディア国、第一王子、シェパード公だ」
告げられた国名に、ひゅっと息をのんだ。
ナディアは隣国だ。かつて私たちの国が支配していた土地だった。
土壌が豊かな場所で、広い小麦畑がある。しかし、そこに住む人々は、バケモノのように恐ろしい容姿をしていた。
けむくじゃらの体毛。皮膚は蛇のようなウロコがあるとか。獣人と呼ばれる種族だ。
彼らを蛮族と呼び、お祖父さまは重労働をしいていた。
海外に輸出するため、小麦を大量生産させ、すべて取り上げた。食べ物がなくなったナディアでは大飢饉が起り、数百万人の命が失われた。
ナディア国民は独立を求めて発起。戦争状態に入った。30年、経っても、いざこざが絶えない。
しかし、このたび、和平交渉をしたそうだ。
「ナディア国との和平の証とし、おまえの婚姻を進める。準備せよ」
私は無言で叩頭した。不安はあったけど、嫁ぎ先が見つかった安堵の方が大きい。平和につながるなら尚更だ。
無言のひとときを終え、謁見室を出ると、兄が私に近づいてきた。頭のてっぺんから足先まで眺められ、ニタリと口の端を持ち上げられる。
「役立たずのおまえが、ようやく結婚するのか。汚い髪も、雑草色の目も見なくて、せいせいするなあ」
兄は私を見てせせら笑った。
「しかも、相手は蛮族か。くくくっ、おまえには似合いの相手だ。殺されないといいなあぁ?」
ニタニタと笑う兄に、きゅっと口を引き結ぶ。
「ああ、でも死んでもいいのか。どうせ、おまえに価値はないからな! ははは!」
あざ笑う声に背を向けた。ドレスの下に隠していたペンダントを握る。反応したら、倍になって返ってくる。言い返さないのが、私の防御だった。
アンジェラさんに別れの挨拶をしたかったけれど、監視が厳しくて抜け出せない。
そうこうしているうちに、輿入れ当日。
支度をして馬車に乗り込む私を、母が見送りに来てくれた。
手を払われて以来、母とは話をしていない。
それでも、母を見ていると淡い期待がむくむく膨らんでしまう。
今日ぐらいは、ほほ笑んでくれるかしら。
諦めきれない慕情を抱えながら母を見ていると、不意に母が私の白いドレスの袖を手に取った。
――ビリ。
母がドレスに爪を立て、袖を引っ張る。布がひき裂かれる音がした。細い糸が頼りなさげに、袖と襟元をつないでいる。
なぜ……
とっさに袖を手でおさえ、唇を震わせて母を見ると、満足そうにほほ笑まれた。
「蛮族は、かわいそうなモノが大好きなんですって」
母は扇子を取り出し、柄で私の顎をしゃくった。
「かわいそうなイキモノのできあがりね」
「っ……」
「簡単に死んではダメよ。生き残って、蛮族に媚びを売りなさい。おまえはこの日の為に生かしてやったんだから」
母は不快そうに眉間に皺を刻み、はたくように扇子を引いた。
取れそうになる袖を手で押さえながら、私は震える足を動かした。
無言で馬車に乗る。
なぜ、期待などしてしまったんだろう。
母に愛されていないことなど、分かっていたのに……!
悔しくて、下唇を噛みしめ、体を震わせる。
「ペネロペさま……」
馬車に同乗していたレオニード公が、私に声をかける。
沈痛な声に、私は大きく深呼吸して、つっかえないように言葉を紡ぐ。
「……このような恰好では、殿方は不快でしょうね……」
レオニード公は何もいわず、目をつぶった。
顔をあげると、馬車の窓から外の景色がみえた。
いつの間にか雨が降っていて、雨粒が窓につく。
道中なにかあってはいけないからと、裁縫道具は持たせてもらえなかった。
空に広がる灰色の雲は、私の未来のよう。
――幸せに、なってくださいね。
「ばあや……私、結婚するわ……見守ってね……」
ばあやがくれた真っ白なリボンをポケットから取り出し、私は落ちそうな袖に縛り付けた。
恥ずかしい姿にならないよう、せめて背筋を伸ばした。
***
国境に行き、私は馬車を降りた。鞄ひとつを手で持って、レオニード公と別れる。国境では、ナディア国の馬車が用意されてあった。
ナディア国の御者の姿を見て、私はびっくりした。アヒルにそっくりなくちばしがあったから。
御者はぐわっと鳴いて、私を憎々しげに見ていた。
ぽかんとしている間に、馬車から礼装に身をつつんだ男性が出てきた。
彼は、パンダだった。
黒い耳に、真っ白な髪。目の前だけ、くまのようなあざがある。
「私はシェパード殿下の従者、パーンでございます。ペネロペ王女殿下でございますか?」
こくこくとうなずくと、パンダ従者は真顔でふむと頷いた。
「馬車にお乗りください。陛下と殿下がお待ちです」
パンダ従者がエスコートしてくれ、私は馬車に乗り込んだ。
窓から見えるナディア国は、穀草地帯だった。
あぜ道にある石に、クマの耳をつけた獣人が腰掛けている。おやつを食べるのかしら。どんぐりの殻を爪でむいていた。
「か、かわいいっ……!」
私は両手でほっぺを挟んだ。
夢みたいな光景だった。
国入りして息付く間もなく、私はナディア国王に謁見した。
破けたドレスはヘビ頭の侍女に着替えさせられた。
彼女の私を見る三白眼の瞳は、憎々しげだったけど、しゅるっと出る舌が可愛い。
惚けたまま護衛に連れられて、城内を歩いていく。
両隣にいる護衛は、硬そうな皮膚の方。
前に出た細長い頭に、体に似合わない小さな黒い目。センザンコウに似ている。
背が高いのに、目が可愛いおかげか怖くはない。
不思議な気持ちのまま、扉の前に立たされる。
扉の前にいたオオカミ獣人が、すっと私の前に立つ。
「先に、こちらをお飲みください」
トレイの上に杯が置かれていた。
これは何だろう。
透明な液体が入っている。
射抜かれるように見られ、私は何か尋ねる前に杯を手に取り飲み干した。
苦い味わいだけど、水みたいにすぅと喉を通っていく。
飲みきると、体が熱くなる。フワフワしてきた。
ぼうとしたまま、杯をトレイに戻す。
オオカミ獣人は私に一礼して、下がっていった。
扉が開かれ、陛下の姿が見える。
陛下は立派な鬣のある方だった。
大柄で威圧感のある眼差しは、父に似ていたけど、丸い耳が可愛らしくて、怖いとは思わない。
腰を落として礼をすると、陛下の声が部屋に響いた。
「ペネロペ王女よ。我が同胞として、そなたを歓迎する」
名前を呼ばれて、びっくりした。
ばあやとアンジェリカさんのほかに、私の名前を呼ぶ人がいるなんて。
陛下の眼差しは厳しくもあたたかい。
そんな目で見られたら、どうしていいのか分からなくなる。
嬉しくてムズムズしてしまい、私は俯いたまま、淑やかに礼を返した。
無言の一時だったけど、つつがなく陛下にご挨拶できたのにほっとして、夫となるシェパード殿下と対面することになった。
殿下は、とても、とても可愛いかった。
私より一歳年上の十九と聞いていたけど、背は低く、人の子供に耳としっぽをつけた容姿をしている。
柔らかそうな白い毛並みの垂れ耳が警戒するようにぴくんぴくんと動いている。
大きな黒い瞳は私を睨んでいた。
子犬みたいな姿だ。可愛い。
まあ、と声を出すのを必死でおさえて、唇を引き結んでいると、殿下は腕組みをしたまま口を開いた。
鋭く尖った犬歯が見える。可愛い。
「和平の証として君と俺との婚姻が決まったが、いまだにプロスタコフ軍は我が国を警戒して、兵を引こうとしない。父上は君を歓迎すると言うが、俺は騙されない。俺が君を愛することは決してないだろう」
可愛い声。少年みたいだわ。
にこにこしていると、殿下の耳がせわしなく動く。
「……話を聞いているのか?」
「はい。聞いております」
「……ではなぜ、笑顔なんだ」
「殿下の仰る通りだからです……」
「なに?」
「父と母は、何か、企んでいるようでした」
母の言葉を聞くかぎり、ナディア国を油断させようとしているのかもしれない。
そうでなければ、ウエディングドレスを破ったりしない。
「……プロスタコフは、ナディアに対して、恨まれてもしかたのないことをしました……殿下が私を嫌いになるのも当然ですわ」
「……ならなぜ。笑っていられるのだ。俺が君の立場なら、そんな風には笑えない」
だって、可愛いから。
なんて言えるはずもなく、曖昧に笑った。
「愛されないのは、慣れておりますので」
「……慣れている? どういうことだ」
殿下の瞳孔が細くなり、部屋の空気がピンと張りつめた。
「国家間同士の婚姻にしては、君の輿入れはあまりに礼節に欠く。君は本当にペネロペ王女なのか? 答えろ」
あぁ、そうか。
殿下は私が王女ではなく身代わりの者だと疑っているのね。
私は本物の王女なのに、何と答えればいいのだろう。
「答えられないのか?」
いっそう低くなった声に、体が小さく震え、私は口を動かした。
「わ、わたっ……わたし、わたしは……」
いけない。緊張して、言葉がつっかえた。
こんな時になって、悪い癖が出てしまうなんて。
最悪だ。
殿下も不審に見ている。
どうしよう。
焦りばかりが膨らんだその時、かっと、火がついたように体が熱を持ち始めた。
思わず自分で自分を抱きしめると、殿下は剣呑な目で言った。
「……自白剤が効いてきたな……答えよ。君は何者だ?」
そんなものいつ――
考えがまとまらないうちに、腰から力が抜けて、その場にへたりこんでしまった。
殿下は私の前に立ち、見下ろしてくる。
「君は、誰だ?」
「……私は……ペネロペ・プロスタコフ。プロスタコフ家の長女でございます」
言葉がつまずくことなく、スラスラ出てきた。緊張しているのに、流暢に話せるのが不思議だ。
私は自分が政略の駒として、ポイ捨てされたことを洗いざらい語ってしまった。
「兄は、私を死んでもよいと言いました。母は、媚びを売って、生き延びろとも……」
そう告白したとき、片方の目から涙が流れていた。
嫌だわ。泣くなんて。未練がまだあるみたい。
「……私の家族は、そういう人たちなのです」
涙がハラハラと流れ落ちて、止めることが難しかった。
俯いてしまうと、殿下は床に膝をつけて、私の顔を覗き込んだ。
さきほどまでの警戒はなく、痛ましそうな顔をしている。
「……辛いことを話させてすまなかった。君はひどい環境にいたのだな……俺の国では考えられない行為の数々だ」
そういって、殿下は垂れ耳をへにゃりと丸める。
「……俺は君を誤解していたようだ。愛すことはない、など、夫婦になる相手に言うことではなかった。すまない」
しゅんとなるお姿が可愛い。
「……そんな……気にしないでくださいませ」
殿下がほっと胸をなでおろす。ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべていた。
「……君は優しいな……」
殿下が私に手を差し伸べた。
手を貸してくださるのかしら。
そんな、恐れ多い。
「……自分で立てますので」
申し訳なくなりながら、立とうとしたけど足に力が入らない。薬のせいか腰が抜けてしまっている。
「立てないだろう、手を貸す」
殿下は私の横に立つと、あっという間に背中と膝裏に手を回し、ひょいと私を持ち上げた。
「えっ……!」
「君は軽いな。人族とは、かくも軽いものなんだな」
しみじみと言われたけど、状況がおかしい。
子犬のような愛らしい殿下が、一回りも大きな私を横抱きにしている。
どこに、そんな力があるのでしょう。
「あ、あのっ……! 殿下、重たいので! 下ろしてくださいませっ」
「ん? 重くはない。薬を盛ったのは、俺の失態だ。君を部屋まで運ぶ」
「……そんなこと、なさらなくても……」
「いいや。君に不快な思いをさせた詫びをさせてくれ」
殿下のしっぽが、左右に揺れている。
お顔もキリッとしているし、使命感に燃えた瞳をしていた。
どうしよう。
「……恥ずかしいです。お許しください……」
居たたまれずに言うと、殿下の顔が赤くなっていった。
しっぽの揺れが、さっきよりも早い。
「し、辛抱してほしい。君の部屋は、隣だ。すぐにすむ」
「……隣、でございますか……?」
「あ、あぁ。その後はゆっくり……寛いでくれればいい……分からないことは、侍女に聞けば――ワン!」
わん?
「ワンワン!」
殿下が顔を真っ赤にして、犬みたいに吠えている。
可愛すぎますっ!
両手で頬をおさえて、身悶えていると、今まで空気になっていたパンダ従者がすっと前に出てきた。
「殿下がケモノ化されましたね。通訳させて頂きます」
え? ケモノ化? 通訳?
「殿下は獣人特有の力――獣力が膨大すぎて、成人になっても、コントロールができていません。興奮すると人語ではなく、ケモノ語をしゃべってしまいます」
「ワン!」
「……そう、だったのですね。興奮を抑えれば、元に戻られるのでしょうか?」
「はい。ケモノ語を話すのは一時だけです。ですが、ペネロペさまが可愛くて興奮していらっしゃいますので、しばらくはこのままです」
「えっ……」
「ワンワンワン!」
「バカ。本当のことを言うなと、仰ってます」
「ワォンっ?! ワンッ!」
「吠えてますが、照れているだけです」
「ワーン!」
淡々と言われてしまい、私は殿下を見た。
「ガルルッ」と唸って従者を睨んでいるけど、顔は真っ赤だ。
「……あの。殿下……」
じっと見ると、殿下は垂れ耳を丸めて「くぅーん」と鳴いた。可愛い!
頬を両手で挟んで身悶えていると、パンダ従者が真顔で言った。
「殿下がケモノ語になりましたら、私が通訳しますのでご安心ください」
殿下の可愛さにすっかり舞い上がりながらも、私はこくこく頷いた。
この従者は殿下が生まれた時から側にいたそうだ。
彼に聞いた話では、殿下の背が低く少年らしいのも獣力というものが膨大すぎるから。
ありあまる力のせいで、体の成長が止まってしまっていた。
殿下は体格のことで、世継ぎを作ることは難しい。
「夫婦になっても、君と子供をもうけることはないだろう。この体は子供だ。君との結婚は書面のもの。白い結婚となるだろう」
殿下の力が落ち着かれ話せるようになった頃、そう告白された。
「王位は弟が継ぐ。多産の家系だから、世継ぎの心配はない。俺は生涯、国を守ろうと思っていた」
殿下は子犬みたいなお姿をしているけど、ナディア騎士団の総司令官だ。その手腕は、右に出るものはいないそう。和平交渉に持ち込めたのも、殿下の指揮する騎士団が強かったからだ。
「だから、俺自ら、憎い国の君との婚姻を申し出たんだ……」
結婚する気はなかったから、相手は私でもよかった。
そう正直に言われてしまったけど、嫌悪感はない。
「そうでございましたのね。でも、私のことは気にしないでください。私はこの国にいられるだけで、夢見心地になるのです」
アンジェリカさんの影響で動物が好きだということを告白すると、殿下は怪訝そうな顔をした。
「人族は我々を格下に見ているだろう。そんな人が王族にいるのか?」
「アンジェリカさんは王族かどうか……」
前に彼女の素性を聞いた時、どうしてここにいるのか忘れちゃった、と笑顔で言っていた。
「……王族か分からない。魔女……か」
そういって、殿下は考え込んでしまった。
思案すると片耳がぴくぴくっ、ぶるって動くのね。可愛い。
「……君を無下に扱うことはしない。それだけは誓う」
真摯な瞳で言われ、ドキリとした。
「ありがとうございます……」
私は高鳴る胸を落ち着けようと、口元に笑みを浮かべた。
殿下と私はすぐに結婚しなかった。殿下が婚約者としての日々を過ごしたいと言ったからだ。
「まずは交流を深めよう。君のことをもっと知りたい」
「……もったいなき、お言葉ですわ」
冷遇されてもおかしくはない状況だったのに、殿下は忙しい公務の合間を縫って、私との時間を作ってくれた。
今日は、バラが咲き誇る庭で、殿下と向い合せに座って、菓子をいただいている。クルミやジャムを巻いたクッキー。焼きマシュマロみたいな甘いお菓子もある。
甘いお菓子は宝石みたいにキレイで、もったいなくて、なかなか食べられなかった。
「不自由はしていないか? 何か足りないものは」
「何もありません。侍女の方も親切で可愛らしいですし」
「侍女? あぁ、ヘビ族の女性だったな。……人族の女性は爬虫類が苦手だと聞いていたが、君は平気なのか?」
「はい。 ツルツルした肌がキュートでございます」
思わず力を込めて言うと、殿下は目を丸くした。
私は浮かれたまま、両手を合わせる。
「いつか彼女の肌に触ってみたいですが、そんなことしたら嫌がられますわよね……」
「触りたいのか……?」
「はい!」
「……そ、そうか。……その……なんだ。ツルツルだから触りたいのか?」
「そうですね……」
殿下をじっと見つめる。
何かを期待するような顔をされている。
気のせいかしら?
「ここの方々は、愛らしい容姿をしておりますので、皆さまに触れてみたいです」
憎い人族である私が触れるなど、嫌がられて無理だろう。
わかりながらも素直に言ってみると、殿下は目を伏せた。
「……なら、俺を撫でればよいではないか」
「え?」
「な、なんでもない。――ワン!」
また殿下がワンって言ってくださった。
可愛い!
「ワン! ワンワワン!」
真っ赤になって吠える姿に顔を綻ばせていると、沈黙していたパンダ従者が笹を手に持って、歩み出てきた。
「俺をモフれと、殿下が仰ってます」
「ワオン?! ワン! ワワワン!」
「撫でられるのが嬉しくてたまらない。存分に撫でてくれと言っております」
「ワーン!」
「そう、なんですか……?」
殿下を見ると、嫌がっているような顔をしている。
でも、しっぽは揺れていた。
いいってことでしょうか。
「少しだけ、触れてもいいですか……?」
恐る恐る尋ねると、殿下は逡巡した後、頭を私の方へ向けてくれた。
頭を差し出すなんて、王族ではしない行為だ。
「頭を……宜しいんですか?」
殿下が頷く。
期待しているのか、しっぽの揺れが先程より早い。
私はそっと殿下の後頭部を撫でた。
真っ白な毛は、犬に似た触り心地だ。気持ちいい。
「ありがとうございます」
名残惜しくなりながらも、一回だけ撫でると、殿下は私をじっと見てきた。しっぽが揺れて椅子を叩いている。
嫌がられてはいないみたい。
「ワン!」
殿下が笑顔で吠えた。
ドキドキと胸の鼓動が弾んで、私は笑ってしまった。
私はこの国のことを学びたくなって、可能な範囲で教師を付けてもらえるよう殿下にお願いした。
何かお役に立てることがあれば、と思ってのことだ。殿下は快く受け入れてくれて、オオカミ獣人の家庭教師を付けてくださった。
勉強して何よりも驚いたのが、彼らの歴史だ。
獣人は人の創世より先にいた存在だった。
神の作りし存在。人に言葉を教えたのは、彼らだったという教えにも驚かされた。
私の国では真逆のことが言われている。
人は知力が高く、他の存在の頂点に立つものであるというのが常識だ。
でも、彼らを見ると、私の国の認識の方が間違いだったのではないかと思えてきた。
彼らは腕力が強い。
殿下は私を軽々と持ち上げていたし、窓の外から見える侍従の方々は、ぎょっとするほど大きなものを運んでいる。
彼らは人族より、運動能力に優れている。
そればかりか学校の数も私が居た国より多く、道の整備も進んでいる。ナディア国の方が、進んでいるように感じた。
「私ができることはないかしら……でも、私はか弱いし……」
家庭教師から熱心に学んでいると、殿下が不意に「ガウガウ」しか言わなくなってしまった。
「あの……殿下……?」
「……ガウガウ」
せっかくのお茶の時間だというのに、殿下は不機嫌そうで、私と目を合わせてくれない。
困った私は、すがる思いでパンダ従者を見た。
パンダ従者はやれやれと両肩をすくめた。
「殿下は、拗ねているのです。小さな頃から、拗ねるとガウガウしか言わなくなります」
「ガウッ!」
「拗ねて……ですか? 私は何かしてしまったのでしょうか……」
「ペネロペさまと教師が仲良くしているのが気に入らないのです」
「えっ……」
「ガウガウ!」
「俺のペネロペに微笑まれるなんて、羨ましいな、この野郎と思っているのです」
「ガッ!」
「殿下は教師に嫉妬しているんです」
「ガーーウーーッ!」
驚いて殿下を見ると、気まずそうに目を逸らされてしまった。
照れているのか、顔が赤い。
その横顔を見ていたら、心がムズムズしてきた。
殿下が嫉妬してくれて、嬉しい。心のままに、私は口を開く。
「あの……あの……殿下……」
「……ガウガウ」
「わ、わたし。私は……殿下が……い、いい一番……一番っ」
「ガウ?」
「一番、かわいっ……!」
教師よりも可愛いですと叫ぼうとして、急いで口を閉じた。
可愛い子犬さん。なんて言ったら、殿下は喜ばないかもしれない。「ガウガウ」しか言ってくださらなくなるかも。
そっぽを向かれるのは、寂しい。
私は回らない頭で必死に考えて、手を前に組んだ。
「私は、殿下がっ……」
「……ガウン?」
「殿下が! いいい……いちっ……一番、好きです!」
「キュウン?!」
殿下が高い声を出して、顔を赤くする。
口走ったことが恥ずかしくて、私の頬に熱が集まった。
火照った顔を両手で挟んでいると、殿下は椅子から立ち上がり、座っていた私の体に抱きついてきた。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられ、「ワン!」と言われる。
わあぁぁぁ……と、声に出せずに固まっていると、パンダ従者が眉一つ動かさずに言った。手に笹を持って。
「俺も好きだあああ!と、殿下が叫んでいます」
「えっ?!」
「ワンワンワン!」
殿下のしっぽが高速で振られている。
可愛い。ドキドキしすぎて、頭がおかしくなりそうだった。
***
ナディア国に来てから、半年が経った。
季節は秋になり、冬支度が始まっている。
雪が数週間にもわたって積もることがあるから、冬眠する種族もいるそうだ。
私は椅子に座って編み物をしていた。若草色のマフラーを編んでいる。
「ペネロペさま、せいがでますね」
ヘビ頭の侍女が話しかけてきた。
「糸がたくさん使えるから、編んでいて楽しいです」
「それはようございました。殿下も喜ばれることでしょう」
ヘビ頭の侍女に言われ、びくりと肩が跳ねる。
「……殿下へのプレゼントだって、知っていたのですか?」
「ペネロペさまが殿下に好きな色を尋ねている現場を目撃しましたので」
「あ、ああ……っ な、ないしょに、してくれっ……くれますか?」
「もちろんです」
胸をなでおろした時だ。殿下が部屋に入ってきた。私は慌てて、編み途中のマフラーを背中に隠す。バレてしまっただろうか。ドキドキしていたけど、殿下の神妙な顔を見ていたら、マフラーのことは頭から抜け落ちた。
「殿下……どうされたのですか?」
「ガルディーニャ王太子が、ペネロペとの面会を申し込んできた」
「……おにい、さまがっ……」
まだ死んでないのか、と笑うためだろうか。兄のつり上がった口の端を思い出し、私は自分を抱きしめた。
眉をさげて殿下を見上げると、殿下のしっぽが、足の間に巻き込まれる。
「……っ、やはり、断ろう!」
「で、殿下……?」
「和平のため面会と、父上には言われたが、王太子はペネロペを傷つけた。会う必要はない!」
「……殿下」
「父上と、もう一度、話してくる」
「お待ちください!」
私は椅子から立ち上がって、殿下を呼び止める。
「私は、大丈夫です……」
「そんなに震えて、大丈夫じゃないだろ……?」
「……ここに来てから、何かできないかとずっと考えていました」
陛下に任された公務だ。頑張ってみたい。
私は顔をあげて、殿下にほほ笑む。
大丈夫。きっと、うまく笑えているわ。
「兄と会いますわ」
「……ペネロペ」
殿下は私に近づき、腰に抱きついた。足に巻き付いていたしっぽが、だらんと下がっている。
「俺も行く。ペネロペを守るから」
殿下が私を見上げる。真剣な瞳に、どうしてか泣きたくなる。
私は体を震わせないように、そっと息を吐いて、殿下のやわらかい後ろの髪の毛をなでた。
兄と会う場所は、ナディアとプロスタコフ、両国に隣接しているモジリヴェ国となった。
中立の立場にあるモジリヴェは、獣人と人間が暮らす商人の国だ。
時間より早く国入りして、殿下と一緒に兄を待つ。でも、時間をすぎても、兄はこない。2時間経って、ようやく兄が現れた。レオニード公も一緒だ。
「あぁ、来てたのか」
兄はそっけなく言い、私を見て、片方の眉を器用に持ち上げた。
「ペネロペ……? ペネロペなのか」
「お兄さま、お久しぶりでございます」
「ほお……ずいぶんと、こぎれいになったじゃないか」
兄は私をなめるように眺め、鼻で笑った。椅子に腰を下ろす。
殿下の姿を見て、私に尋ねる。
「そのものは、おまえの護衛か?」
非礼な言葉に、かっと頭に血が昇った。
「……な、ナディア国の、シェパード殿下で、いらっしゃいます」
「殿下? こいつが? はっ、ずいぶんと、弱そうな男だなあ」
「っ……で、でで、殿下は弱くなどっ、などっ!」
「あー、そのうっとおしい話し方はやめろ! 聞いていて不快だ!」
兄が顔をしかめる。うまく話せないことが悔しくて、私は荒くなった息を吐き出した。
胸に手をおいて、深呼吸すると、私の腰を殿下がさすった。
下を向くと、殿下が私を見上げている。安心させるような、優しい手つきだ。
何度かさすると、殿下は手を止め、兄の前に立った。そして、帯刀していた剣を抜いた。
ひゅっ、と空を斬る音がして、銀色に艶めく刃が、兄の顔の横で止まる。
「ひっ……!」
「貴殿は、宣戦布告をしに来たのか?」
殿下が剣呑な眼差しで言い、兄は青ざめた。腰が抜けたのか、背もたれにずるずると、腰を沈めている。
「ペネロペは我が妻となる人だ。彼女への侮辱は、俺への侮辱とみなす!」
「だ、だれかっ……! 私を助けろ!」
「動くなッ!」
兄に近づこうとした、プロスタコフの護衛を殿下が牽制する。兄の顔に剣を近づけた。ぴたっと、護衛の動きが止まる。
「ガルディーニャ王太子、剣を抜け。貴殿に一対一の決闘を申し込む」
「ぐっ」
「貴殿が、弱いと言った者の剣を受けてみろ。叩きのめしてやる!」
「ひぃぃぃぃっ た、助けっ」
「シェパード殿下、剣をおさめくださいっ!」
レオニード公が膝を床につけて、頭を下げた。
「王太子殿下の非礼につきましては、私が代わりにお詫び申し上げます! 何卒……っ」
殿下はレオニード公を見て、剣を鞘に納めた。
「……プロスタコフがいう獣人と人族の和平は、夢物語であるのだな。よく分かった」
「っ……それはっ」
「話すことはもうない。失礼する」
レオニード公が愕然とうなだれる。兄はすくみあがっていた。
殿下は私の腰に手を置いた。エスコートされて、私たちは退室した。
帰りの馬車は重い空気が流れていた。
私と殿下は並んで座っていた。殿下はたれ耳を丸めて、悲しい顔をしている。
「殿下……兄が、失礼しました……」
「ペネロペが、謝ることはない!」
ぴしゃりと言い切られ、びくっと体が震えた。
「あ、いやっ……大声をだして、すまない……」
「……いえ」
殿下がうつむきながら、私の肩にこつんとおでこをつける。
「……悔しかったんだ」
「え……」
「小さい体が、弱いと言われて……」
「殿下……」
「……この体でも良かった。ペネロペは、好みと思ってくれているだろうし……」
殿下が膝の上に置いていた私の手を握った。
「……でも、頼りなく見えるんだな。この体が、今は恨めしい……」
「殿下っ、そんな、こと……私だって、兄に言い返せなくて……っ」
私はつっかえないように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「悔しゅうございました。殿下は素敵な方ですのに……あのような、言い方をしてっ」
それをしたのが自分の兄であることが、恥ずかしかった。
殿下の手を握り返して、私は口を引き結ぶ。
しばらくすると、たし、たしと、座椅子を叩く音がした。
殿下を見ると、目が爛々と輝いていて、白いしっぽが揺れている。
「ペネロペ……ありがとう」
ふわりと笑った殿下に、きゅぅぅぅと心臓が締めつけられた。
殿下のために、私は何ができるのだろう。
「……殿下、歌を、うたってもよろしいですか?」
アンジェリカさんに教えてもらった歌だ。
殿下はうなづいてくれて、私はううんと声の調子を確かめ、すぅと息を吸い込んだ。
久しぶりだったけど、歌は、するりと喉から出てきた。
空気に音がとけていく。嫌なことも、不安なことも、ビブラートに包まれていく。
目を閉じると、草原で寝そべる動物たちの顔が浮かんだ。
気持ちいい。もっと歌っていたい。
名残惜しくなりながら、歌をおえると、殿下のしっぽが高速でゆれた。
「なんて、心地よい歌なんだ……!」
「あ、そんなことは……」
「ペネロペ、もっと歌って」
くぅぅぅんと鳴きそうな目で言われて、私はぐっと殿下の手を握った。
「も、もちろんです!」
その日から、私は殿下の前でよく歌うようになった。
おやすみ前や、休憩中など。
中庭で歌うと、殿下以外の獣人のみなさまが、うっとりとした目で聞きほれてくれる。
歌い終わると、拍手を送られた。
「なんて、いい歌なんだ!」
「ええ、本当に」
「ワンワンワン!」
みんな、笑顔だった。嬉しい。はりきって歌っていたら、しばらくして殿下の体に変化があった。
「ペネロペの歌を聞いてから、服がきつくなっているんだ。丈が足りない」
「まあ、……そうなのですか?」
「コウモリ学者に聞いたら、ペネロペの歌は、30年前、聖女がうたっていたものに似ているそうだ」
「聖女……大飢饉の時に、ひん死の獣人に歌をうたい、眠らせたという方ですか?」
「ああ、あの時、空腹に苦しまず、多くの者が安らかに逝った。赤いオランウータンの子どもだと言われていたが」
「……アンジェラさんは、赤毛でした……」
彼女が聖女? でも、そんな伝承は聞いたことがない。
「聖女が歌っていた曲と、ペネロペの曲は、楽譜にすると少し、違うらしい。でも、俺の不安定な獣力を安定させるそうだ」
「そんな力が……」
「だから、もっと俺に歌をきかせてくれ」
「もちろんです……私、殿下のお役に立てるのですね……」
嬉しくなって、私は一日中、歌をくちずさむようになった。
編みかけの若草色のマフラーが、できあがった頃。
殿下の獣力は安定して、陛下と同じくらいの体格になっていた。
私が見上げるほどの大柄。
可愛いお姿はどこにもなく、顔立ちは凛々しい。声は低くいい音で、側で聞くとドキドキしてしまう。
それなのに、私を見る瞳は子犬の時と同じくキラキラ輝いた。
殿下にじっと見つめられると、恥ずかしくて、うまく話せない。
夢中で編んでしまい、長くなったマフラーを渡せず、私はオロオロしていた。
「あ、ああのっ……殿下っ……、これっ」
「ペネロペ色のマフラーだな……」
「えっ……?」
「巻いてくれないか」
「は、はいっ」
殿下が腰をかがめ、視線を私に合わせる。私はつま先立ちして、殿下の首にマフラーを巻く。
「……長すぎましたね……」
「とても、あったかい。ありがとう」
殿下がマフラーに首を埋める。幸せそうに目を細めていた。
ふと、左右にゆれていた殿下のしっぽが、とまった。
「ペネロペのおかげで、俺の獣力は安定した。ペネロペは俺の呪いを解いてくれた恩人だ」
「そ、そんな……わ、わわわ、わたしは、できることをしたっ……しただけですっ……」
「いいや。ペネロペの献身に家臣たちも、心を打たれているんだ」
「……あ、ありがたいこと、です……」
殿下は私の左手を手でそっと、すくいあげ甲に牙を立てた。
手を甘く食まれる行為は、番になってほしいという申し込み。
伴侶にしたいという願いだ。
びくっと体を震わせると、殿下は跡のついた手の甲を舌でなめた。
腰骨の辺りがぞわりとして、両足が震え出す。
殿下は手の甲にキスを一度落とすと、まっすぐ私を見つめた。
「ペネロペ。俺と結婚してほしい」
「は、はひっ!」
プロポーズされた途端、私は腰を抜かしてしまった。
幸せすぎて、限界だった。
すぐに殿下が支えてくれて尻もちをつくことはなかった。私は熱に浮かされてしまい、立てそうもない。
嬉々と私を横抱きにする殿下にしがみつくので、精一杯だった。
◆◆◆
プロスタコフ国の王太子、ガルディーニャは憤っていた。
「あのイヌめ! 私を馬鹿にしよって!」
子犬のようなシェパードに恥をかかされた。獣人ごときに、対等に見られたのは屈辱だった。
ペネロペの容姿が美しく、健康的になっていたのも気に入らない。前はやせこけて、ガリガリだったはずだ。
もっと不幸せな顔をしていると思ったら、真逆の状況だった。
想定外だ。
妹が幸せそうなのが妬ましい。
自分はまだ縁談がまとまらないというのに。
ガルディーニャは父であるプロスタコフ王に報告するため、大股で廊下を歩いていた。
プロスタコフ王の執務室に入り、怒りのままに面会の様子を伝える。
すると、プロスタコフ王は、にたりと笑った。
「そうか。あいつは、蛮族に取り入ったか」
「蛮族は、身のほどをわきまえず、私たちと対等であるかのような態度です。ゆゆしき事態です!」
「……そうだな。あれらは、家畜だ。シェパード公は同席したんだろ? どんな人物だ」
ガルディーニャはシェパードに剣を向けられて、震えあがったとは言えなかった。
はっ、と鼻で笑い、両手を広げる。
「子犬ですよ」
「子犬? そのような奴の指揮で、我が騎士団が押し負けたというのかっ!」
「あ、いえ、そのっ」
プロスタコフ王は、額に青筋を立てながら、だんっ!と、机を叩いた。
「あいつがシェパード公を篭絡したのなら、好都合だ。隙だらけだな」
プロスタコフ王は、くつくつ喉を鳴らした。
「今は冬。家畜の動きも鈍くなるだろう。奪われた土地を取り戻す。ナディアは我々のものだ!」
***
殿下からプロポーズを受けて、あれよあれよという間に結婚式の準備が進んでいく。
私はフワフワと夢見心地で、これが現実とは思えない。
でも、殿下があまりにも幸せそうに笑うから。
私も泣きそうな気持ちで、笑顔を返した。
でも、そんな幸せは長くは続かなかった。
私と殿下の結婚式まであと三日、というときだ。
「プロスタコフ軍が国境を突破してきました!」
国境警備兵から一報が入った。
殿下はすぐに軍地会議に出席され、迎え撃つ準備をする。
混乱する中、私は呆然とするしか、できなかった。脳裏をよぎるのは、母の言葉。
――せいぜい、蛮族に媚びを売ることね。
「私のせい……?」
呪いのような言葉に、心が縛られる。茨に絡みとられるみたいに、体が動かない。足元から幸せが崩れていく。
私は結局、父の計画の駒となってしまったのか。
この国の人に取り入り、油断させるきっかけを作ってしまったのではないか。
私はまた、大切な人を助けられない――の?
「……私のせいです……申し訳ありません……」
私は殿下に跪き、深々と頭をさげた。殿下は悲痛に顔を歪め、私の肩を掴んだ。
「それは違う! ペネロペは俺の恩人だ!」
「……でも、母から、殿下に媚びを売れと言われました……わたしは……」
「ペネロペ!」
殿下が私の頬を両手で掴み、上を向かせる。
「俺の顔を見ろ! 君と出会ったときと違うだろう!」
ひゅっと、喉がなった。
殿下は優しくまなじりを下にさげた。
「……違うだろ?」
私は口をすぼめ、泣きそうになりながらうなずく。
殿下は私の額に自分の額をあてた。
「媚びを売っていたのは、俺の方だよ」
「……そ、んな……こと、ないっ……です……殿下は、おやっ……お優しくて……」
しゃくり声をあげながら言うと、強い眼差しで射抜かれた。
「君を傷つけ、どこまでも我が国を踏みにじる奴らを許さない。出陣してくる」
――行かないで、ください。
そう、言いそうになった。だから、口は固く閉じた。
震えたままでいると、殿下がくっつけていた額を離し、私の唇をぺろりとなめた。
びっくりして顔をあげると、殿下は犬歯を見せて笑っていた。
「必ず勝利して、戻ってくる。そうしたら、式を挙げよう」
こくこくと何度も頷く。殿下は強く抱擁してくれた。
この方を戦地に行かせる父が憎くてたまらず、その人の血が流れる自分が恨めしい。
でも、私は私でしかない。
生まれた国は、変えることができない。
――なら、私は。
殿下のひく兵を見送りながら、笑顔で歌った。
私の歌は、獣力を安定させる。
『ペネロペさまの歌を聞いていると、元気がでてくるんですわあ!』
『本当に、心が落ち着くんですよ。疲れが吹っ飛ぶんです!』
そう笑顔で言ってくれた人がいた。
戦争になれば、不安と緊張で心がしぼんでしまう。
そうなるくらいなら。私の歌で、残された人々を励まそう。
自分のためにも。
私は国中をめぐり、慰問のために歌った。
それがよかったのか、軍に人手をとられても、国の生産量は安定し、補給物資は戦地へ滞りなく送ることができた。
◆◆◆
プロスタコフ王は窮地に陥っていた。
「なぜだっ、なぜ、我が騎士団が押し負ける!」
奇襲をかけたはずなのに、戦況は悪くなる一方だった。獣人軍は破竹の勢いで、プロスタコフ軍を打ち払った。
しかも、レオニードが寝返った。レオニードの部隊は、白旗をあげてシェパードの軍に投降した。兵力の3分の1を失う、という大打撃だ。
おかげで軍は混乱。指揮系統が乱れ、あっという間に、王宮まで攻め込まれていた。
王妃と王太子は捕まり、残るは王だけ。
プロスタコフ王は狩場に行き、斧でいまいましく木々を斬り刻んでいた。
「アンジェラ、出てこい! もう隠れられないことは分かっているんだ!」
王の妹、アンジェラは、王家秘伝のペンダントを持ち出し、森に隠れてしまった。
ペンダントは姿を隠す代わりに、記憶を失う。ペネロペにペンダントを渡してから、アンジェラはじょじょに30年前の記憶を取り戻していった。
アンジェラは魔女の系譜。動物を眠らせる魔法を使える。魔法は緑の目を持つ女子に、歌で伝えられた。
その魔法は弱ければ、心をリラックスさせ、快眠をうながした。子守唄だった。
しかし、特別な力を持たない王は、アンジェラを妬んだ。
アンジェラを『人を操る魔女』と吹聴したのは、王であった。
王がアンジェラを悪くいったのは、父王の影響もある。
30年前のナディア大飢饉の時に、8歳のアンジェラが聖女と呼ばれ獣人にもてはやされていた。
大飢饉に心を痛めたアンジェラは、現地に慰問に行ったとき、もう助からない者たちを、眠らせた。
せめて最期は、安らいでほしかった。
その行為は、獣人を家畜と呼ぶ父王には、王家への謀反に見えた。
アンジェラを殺そうと刺客を送ったが、レオニードが、アンジェラを逃がしたのだった。
アンジェラが森に隠れても、王は捜査の手をのばさなかった。アンジェラは獣人を操る術を持つ。時がくれば、利用してやればよい。
そして、今がその時だ。
「アンジェラ! 出てこい! 王を守れ! 国が滅びてもよいのか! 獣人を操って、眠らせろ! さもなくば、狩場を焼き払うぞ!」
アンジェラが狩場の動物たちを大切にしていることを盾に、王は脅迫した。
だが、アンジェラは出てこない。代わりに聞こえたのは、奇妙な唄だ。
「……なんだ? これは……」
視界がぼやけ、どこを歩いているのか分からなくなる。
脳みそがぐにゃぐにゃになってしまったかのよう。
王は立っていられず、膝を地面についた。
苦しさはない。麻薬を使っているような、心地よさが全身を包む。
「ぐ……獣人にしか、効かないのでは、ない、のかっ」
「……人も、動物なのよ。お兄さま、だった人」
王の視界に、アンジェラの赤毛がうつりこむ。紅い髪は、燃え盛る炎に見えた。
「眠って、ちょうだい。死ぬまでね」
「う、うぅぅっ……あああ、ああああああっ」
王は悪夢に閉じ込められる。
夢にひきずりこもうとするのは、無数の骸だ。人のカタチをしたもの。獣人のカタチをしたものたちが、王を深淵に突き落とす。
「た、すけ……」
従う者は誰もいない。
王は伸ばした手を落とし、悪夢に囚われた。
そして、二度と目覚めることはなかった。
「ペネロペちゃんに、この歌を教えなくてよかったわ……」
アンジェラは呟き、陥落する王宮を静かに見上げた。
***
「ペネロペさま! ペネロペさま! 勝利です! 我が軍が勝ちました!」
ヘビ頭の侍女に呼ばれて、私は目を開いた。
彼女は三白眼の瞳から涙を零しながら、呆然とする私の手を取る。
「殿下はご無事でございます! ペネロペさま! 殿下がお戻りになりました! 怪我をされていますので、私室にいま――ペネロペさま!?」
侍女の言葉を聞き終わる前に、私は駆け出していた。
転びそうになりながらも、殿下の元へ。
早く。早く。
お願いよ。足よ。動いて。
私を殿下の元に、連れて行って。
息を切らせながら、転がるように医務室に行くと、殿下はベッドに体を起こしていた。
服の隙間から包帯が見える。
その姿が痛々しくて、泣きそうになる。
殿下は鼻をひくりと動かし、私を見た。
目が合うと、幸せでとろけた顔をされる。
「ペネロペ、ただいま」
私は弾けるように駆け寄り、腰を落とした。殿下の膝元にすがりつく。
「……おかっ……おかえりっ……なさっ……」
「ペネロペ。顔を上げて」
くしゃくしゃの顔のまま上を向くと、殿下が顔を近づけてきた。
鼻と鼻をこすり合わされる。ぺろりと唇をなめられた。
びっくりして目を丸めると、殿下は幸せそうに笑った。
その顔を見たら安堵が胸に広がって、私もへにゃりと笑ってしまった。
プロスタコフ軍は大敗し、父は王宮で変わり果てた姿になっていたそうだ。
それを聞いても、心はちっとも痛まなかった。
母と兄は捕虜となり、ナディア国に連れてこられた。
陛下はふたりの処罰を決めた。
「晒しの儀をする」
晒しの儀は、言葉通り、罪人を国民の前で晒し者にすることだ。
朝から晩まで鉄格子に入れられ、国民からの罵声を聞く。その後、罪人は矯正労働所に行く。
「ふたりの婚姻を余も望んでいる。ペネロペが各地を巡り、歌ったことで補給も安定した。君の功績を認める者は多い。しかし、こたびの侵攻により、君がかの者たちと血筋が同じであることを不安視する声もある」
それは当然だろうと、私は頷きながら聞いていた。
「シェパードとペネロペに晒しの儀の立ち会いを命ずる」
「ペネロペも……ですか?」
殿下の質問に、陛下が頷く。
「ペネロペが立ち会い人になることで、暴虐者たちと違うことが国民にも伝わるだろう」
陛下は誠実な瞳をされていた。思いに報いたい。
「かしこまりました」
腰を落として頭を下げる。
謁見室を出ると、殿下はたれ耳を丸めていた。
「あいつらはペネロペを見たら逆上するだろう。酷い暴言をまた吐かれ、君が傷つかないか、心配だ」
「殿下……」
「すごく、心配だ……」
へにょりと耳を丸めて、今にも「くぅーん」と鳴きそうな顔をされる。
可愛い……
肩に入っていた力が抜けてきた。
「殿下がそばにいてくださるので、私はもう大丈夫です」
「ペネロペ……」
「それに、母や兄に、言い返してみたいのです」
ささやかな。でも、私にとっては大きな反撃だ。
殿下が私を抱きしめた。頭を私の頭にこすりつけてくる。
「暴言には耳を貸さなくていい。何を言われても、ペネロペの美しさは損なわれない」
強い言葉と抱擁に身を預けながら、私はこくりと頷いた。
晒しの儀は、王城の広場で行われた。
多くの聴衆に野次を飛ばされ、檻に入れられたふたりはボロボロだった。
母も兄も、かつての輝きはなく、薄汚れていた。
同情は湧かない。
冷たい目で彼らを見たとき、虚ろな目をした兄が嗤った。
「はははっ……なぜ、おまえだけが幸せそうなんだ……蛮族にしか振り向いてもらえないなど、人として終わっているなぁあ?」
「黙れッ! 今度こそ、首を叩ききるぞ!」
殿下が牙をむき出しにして、吠えた。兄は、ひっと甲高い声をあげて、後ろに下がる。
「殿下、ありがとうございます……私の代わりに怒ってくださって」
殿下は私を見たけど、まだ不服そうな顔をしている。だから、精一杯、微笑む。
「私は傷ついておりません。何を言われても、どうでもよくなりました。ですが……」
兄を正面から鋭く見つめる。
緊張で喉が震えた。
でも、言わなくちゃ。私が兄に言わなくては。
黙って悔しがるのは、もうおしまい。
さぁ、言え。
つっかえずに、言うのよ。
胸を張って、両足を踏ん張れ。
私は殿下の隣りに、堂々と立ちたい。
「この国の方々は、自ら考え、行動しています。彼らは蛮族ではありません。私はこの国の方々が愛しいです。彼らを貶めることを言うのは、おやめください」
「ペネロペのくせに、生意気な!」
兄が怒鳴り出して、鉄格子を掴む。
そんな兄を母が押しのけた。
母と目が合うと、見たことがないくらい優しく微笑まれた。
「あぁ、……ペネロペ」
名前を呼ばれた瞬間、ぞわりと鳥肌が立った。
母は甘えるような視線を私に向ける。目頭には涙の膜ができていた。
「お母さま。あなたを愛してるの……愛してるのよ……」
――愛している……? 何を言っているのだろう。
「母上っ! な、なにを言っているのですか……!」
母は兄を鋭くにらみつけた。
「おだまりなさい! わたくしたち、このままでは一生、監獄に閉じ込められるのよ! もう嫌よ。こんな薄汚い服を着せられて、髪もボロボロ! ねえ、ペネロペ。お母さま、かわいそうでしょう? あなたは優しい子だから、助けてくれるわよね?」
うっとりと目を細めながらそう言われて、心がスンと冷えきった。
私は母に、名前を呼ばれたかった。
笑顔を向けられたかった。
手を伸ばしたら、繋いでほしかった。
抱きしめて、ほしかった。
母のぬくもりとはどんなものだろう、と夢想した。
でも、すべて叶えられなかった。
叶えられなくても、もう、いい。
母への未練は、ここでおしまいだ。
私には殿下がいてくださる。
「なんて自分勝手な……」
怒りで牙を剥く殿下の腕を取って、甘えるように組んだ。
公的な場では、はしたなく見えてしまうかも。
でも、私はあえて笑顔を作った。
さぁ、口角を持ち上げて。
笑いましょう。
「あなたが、私に関心がなかったおかげで、殿下にお会いできました。ありがとうございます」
母に向かって、にっこりと笑う。
「今、とても幸せです」
母はポカンとした顔になった。
兄もだ。
その顔がおかしくて、私はふふっと笑ってしまった。
私は殿下を見つめ、にっこりと笑う。
殿下は参ったみたいな顔をされていたけど、微笑んでくれた。
「俺がペネロペの家族になる。幸せになろう」
そう言って、殿下は私の頭に自分の頭をこすりつけた。
甘えるしぐさが、優しい。心がフワフワして、泣きそうになる。
「シェパード殿下、ペネロペさま、万歳!」
聴衆の誰かが、声をあげた。
「ペネロペさまはなあ、何度も、俺たちの畑に来てくださったんだ! 最初は人族は嫌いだったけど、ペネロペさまは違うんだ! ペネロペさまを悪くいうんじゃあねえ!」
「そうよ、そうよ! アタシの怪我を手当てしてくださった!」
「……じいちゃん、苦しそうにしていたけど……ペネロペさまが歌ったら、笑ってくれたんだ……じいちゃん、お星さまになったけど、……苦しそうじゃなかった……」
聴衆の声は、大きくなっていく。
檻の中にとじ込められた、ふたりは震えあがり、夕刻まで、晒しの儀は続いた。
「ふたりでよく乗り越えた。ペネロペ王女、改めて、ナディアはあなたを歓迎する」
陛下にそういわれ、わたしはほほ笑みながら淑女の礼をした。
ヘビ頭の侍女は、三白眼の瞳から涙を流しながら「よかったです。よかったです」と、言ってくれた。
私は彼女を抱きしめ「いつもそばに居てくれてありがとう」と言った。
パンダ従者は、笹を食べていた。
「殿下が、人々の前でペネロペさまにデレッデレだったので、お二人の婚姻をとやかく言っていた連中も、黙ったそうですよ。ようございましたね」
そして笹を食べ終わった。
母と兄は、海に浮かぶ監獄へ行く。そこでは、自分が食べるものは、自分で育てなければならない。
手を抜くと、タコ族にスミをブシャーっとかけられて、反論すると即ブシャーと、スミをかけられて、何も言えなくなる。
ふたりは毎日、スミまみれになっていた。
◆◆◆
プロスタコフの王女、アンジェラは静かに、その時を待っていた。
プロスタコフ軍は大敗し、王家の血筋はアンジェラだけになった。
だが、男ではないため、アンジェラが王になることはない。
ナディア国王は、プロスタコフ軍のレオニードを指名し、停戦条約を結んだ。
レオニードは公国の主となり、国を立て直す。
「あらあ、大変な役目を負うのね」
レオニードから話を聞いたアンジェラは、くすくす笑った。
笑われても、レオニードは嫌な顔をせずに、目を細めただけだった。
彼の蒼い瞳を見ていたら、アンジェラの脳裏に、30年前のことが蘇る。
父に殺されそうになり、14歳で騎士見習いだった彼に助けられた。
子どもの遊びで、彼に騎士の洗礼をした、あの日。彼はよく付き合ってくれたと思う。
アンジェラはレオニードにほほ笑みかけた。
「さあて、わたしはどこに行けばいいの? 処刑台の用意はできているのかしら?」
兄王は倒した。もうするべきことはない。アンジェラは自分の運命を受け入れていた。
「アンジェラ殿下、あなたが行く場所はナディア国です」
「え? ペネロペちゃんが行った場所?」
「ペネロペさま、及び、ナディア王が、あなたの帰還を望んでいます」
「ええええっ!」
アンジェラは仰天したが、レオニードはナディア国に彼女を連れていった。
「ええええっ! かわいいわあああっ!」
ナディア国にたどりついたアンジェラは、アヒルのくちばしを持った御者を見て、大歓喜した。「ぐわっ」と、アヒル御者が言うのも構わず、抱きつく。
レオニードは、アンジェラの姿を見て、ぽつりとつぶやいた。
「……やっと、あなたを解放できた」
声は風にまじりあい、アンジェラの頬をなでた。アンジェラが振り返る。レオニードは緑色の瞳を目に焼き付け、礼をする。彼は、残された仕事をするために戻っていった。
アンジェラはナディア王の丸い耳をみて、大歓喜した。
「かわいいわあああ! ここは、天国?」
アンジェラが興奮するさまを見て、王はくすりと笑った。
ナディア王は30年前の大飢饉で見た、赤髪のオランウータンを思い出していた。
道で倒れ、屍で覆われた黒い大地の上で、少女が歌っていた。少女は顔も、服も真っ黒に汚しながら、天に向かって声を張り上げる。
その時、王はまだ子どもだった。両親がかき集めた食べ物で、細い命をつなぐ日々。
とうとう両親が倒れた。仰向けにすると、地獄を見てきた顔をしていた。王は泣くこともできずに、朽ちていく両親を見ていた。
――ああ、……世界が、狂っている。
絶望する王の耳に歌が聞こえた。歌を聞いてると、両親の顔が、穏やかになっていく。まるで、三人で食卓を囲んでいた頃のようだ。
両親と目が合う。両親はほほ笑んでいた。
おまえは生きろ――そう、言われたような気がした。
――ああ、……世界はなんて残酷で、優しいのだろう。
王はむせび泣きながら、歌を聞いていた。
(オランウータンだと思っていたが、まさか人族だったとは……)
それほど、人族への恨みが強かったということだろう。王は復讐するために、力をつけ、反旗を翻したのだから。
「聖女、アンジェラ。あなたを歓迎します」
「あらあ、わたしは聖女ではないわよ。でも、ふふっ。この国はとっても大好きよ」
朗らかにアンジェラは笑った。
アンジェラがナディア国に着いた日は、ペネロペとシェパードの結婚式だった。
式がはじまる前、ペネロペと再会した。
ペネロペは真っ白なウェディングドレスを着ていた。髪には古くなった白いリボンが付けられている。首を飾るのは、木のペンダントだ。
ペネロペはアンジェラを見ると、駆け寄った。
「アンジェラさんっ……!」
「まあ、ペネロペちゃん! 綺麗なウエディングドレスね! 結婚、おめでとう!」
「アンジェラさんっ……アンジェラさんっ……」
「あらあ、そんなに泣かないの。せっかく、綺麗な顔なんだから」
アンジェラはハンカチを取り出して、ペネロペの目元にあてる。
「ふふ。旦那さまもかっこいいじゃない」
「……シェパード殿下は素敵な方です」
「ペネロペの方が……俺はシェパードと言います。ペネロペ姫は、必ず幸せにします」
「まあ、まあ、まあ。お熱いこと」
アンジェラはペネロペの首から下げられたペンダントを見て、にっこり笑う。
「ペネロペちゃん、そのペンダント。もう必要なさそうね」
「え……?」
アンジェラはペネロペの首からペンダントをとった。
(離婚したい時に使えるけど、その必要はなさそうね)
飴色になった木製のペンダントを見つめる。ペンダントを両手で握ると、レオニードが自分の手を握ってくれた記憶が脳裏をかすめた。
アンジェラはペンダントから手を離し、ペネロペをぎゅっと抱きしめる。
「ペネロペちゃん、……わたしの願いを繋げてくれてありがとう」
***
アンジェラさんが来てくれた。
結婚式前に泣いてしまって、お化粧がくずれてしまった。
その後も、ずっと泣きっぱなしで、殿下が目元をなめてくれた。
今日は初めて、殿下の隣で眠ることになる。
私はベッドの上で両手をつき、これからどうぞ宜しくお願い致しますとご挨拶した。
殿下はパタンパタンと、しっぽでベッドの上を叩いていて、顔が赤くソワソワされていた。
可愛い。
「ペネロペ……正直に言うと、今、とても緊張している」
「まぁ……そう、なのですか……? 私もです……」
「ペネロペも、か?」
「はい。……シェパードさまと、夫婦になれるのが……幸せで……ソワソワします……」
「……そうか。男として情けなく思っていたのだが……」
殿下はそう言うと、お顔を引き締めた。
たしたしって、しっぽがベッドを叩いている。
可愛い。
「ペネロペっ……君を幸せにする! 愛している!――ワン!」
久しぶりに殿下からケモノ語が聞けた。嬉しくて、心から笑ってしまった。
しまったという顔をされる殿下を見ながら、返事をする。
「私も愛しております。……わん」
はにかみながら言うと、殿下が私を抱きしめてくれた。
ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、目を閉じる。
――幸せに、なってくださいね。
ばあやのほほ笑みを思い出し、幸せな未来を瞼の裏に描く。
目を開くと、殿下が鼻を顔に近づけてくる。鼻と鼻をこすりあわせて、くすぐったい。
ふふと笑うと、殿下の瞳に、熱がともった。
吸い込まれるように瞳を閉じる。
次の瞬間。
私の唇と殿下の唇が、合わさった。
Happy END ワン!
お読みくださってありがとうございました!