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細長く取られた窓は壁一面に埋まっていて、カーテンもなく、とんでもなく開放的だった。町の様子すべてが見渡せ、浮遊感すら感じる。
見たこともないほどの濃厚な闇が、ずっと向こうまで続いている。
眼下には鬱蒼とした森と、町が広がっている。
扇状に広がる町の光の粒は遠く離れた小高い山の上からでも活気を感じられた。
レイはそっと観察しながら、一度も身を置いたことのない状況にそわそわするのを必死に耐えて座っている。
外でも見ていないと、この緊張感や、目の前で休憩の用意をしてくれている、明らかに自分よりもずっとずっと位の高いであろう人を直視できないのだ。
目の前に座る彼は、丁寧で無駄のない所作で急須を傾けて、湯飲みに緑茶を注ぐ。
まるで大切な客人にするように、そっとレイの前に置いた。
ふっと湯気が上がり、レイにいい香りが届く。
レイは弾かれたようにその人を見る。
「あ」
「ん?」
男はやわらかな微笑みを浮かべて、骨ばった手のひらで湯飲みを包んでいた。レイが話すのを、威圧感を与えないようにと細心の注意を払って待ってくれているのを感じた。小さく息を吐く。
「あ、の」
「うん」
「ありがとう、ございます。いただきます」
どうぞ、と目を細められ、ほっとして緑茶を一口飲むと、不思議と緊張が解けていくのを感じた。身体が内側からぽかぽかと暖まっていく。
なんだろう。
やっぱりこの人、なんだか気になる。
「名前を聞いてもいいですか?」
何も考えていなかった。ぽろりと口をついて出た言葉に、レイ自身がびっくりする。
そして何故か、男も驚いていた。
目が丸くなっていても、なんとも綺麗な顔だ。
「なるほど」
そして何度か頷き、垂れた銀髪を耳に掛ける。
「馨、という。君の名前を聞いても?」
「レイです」
馨は「れい、れい」と何かを考え込むように名前を口にして、再びレイに向き直ると、そのまま視線を窓の外に移した。
レイの視線も追いかけるように続く。
どこまでも続く夜が、しんと静かに佇んでいる。
エリシアストとはまるで世界が違う。
「綺麗な夜ですね」
レイが言うと、馨がふっと笑う気配がした。
「そう思うか?」
「え? はい。とても不思議というか……」
「不思議?」
「街の灯りが、こう、チカチカ瞬いているように見えて。まるで星みたいだなあ、と」
「ああ」
視界の端で、ちらちらと手招きされているのが見え、レイはぼうっと見ていた街から馨へと慌てて視線を戻す。
テーブルの真ん中に、小さな蝋燭があった。
馨は自分の左手を指さし、その左手でゆっくり蝋燭の芯の上を撫でるように動かす。
と、ぽっと火が灯った。
「わっ」
レイの吐息で、火がゆらんと揺れる。慌てて口を閉じたが、馨はくすくすと笑って「大丈夫だよ」と囁いた。
「大丈夫なんですか?」
同じように小さな声で聞く。
「ああ。大丈夫だ。魔法でつけた火は、滅多なことでは消えないよ」
今度ははっきりと言われる。確かに少しだけ揺れたが、消える気配はない。レイは灰色の目で、その揺らめく小さな炎を見つめ、ほうっとため息をこぼしていた。
「……すごい」
「これと同じで、街の灯りはすべて火を使っているから、瞬いているように見える」
「すべて、ですか?」
「ああ」
レイはまじまじと蝋燭の炎を見て、それからまた街の景色を見た。
本当に星空のような景色だ。
「信じられない」
エリシアストで火を使うことはない。
城に吸い込まれていく魔力持ちの殆どが風や雷や水の魔法を得意としているらしく、あちこちに風力や水力を活用する様々な発電施設があり、彼らがそれを管理することで街に電力を供給してくれている。調理も電力頼りだ。エリシアストでは魔法を使う者と話すことも近づくこともできないが、彼らのおかげで生活が成り立っていることに誰もが感謝していた。
レイもその一人だ。
魔法は「公」のもので「私」のものではないと幼い頃から教えられるので、今、目の前で見たこともない「火」をさらりと使う風景に、戸惑いすらあった。
馨がふっと笑う気配がする。
「深淵国では魔力は珍しいものではない。ここで生まれた者は皆、火を自在に扱える」
「え」
レイの驚きを隠せない表情に、馨は子供をあやすように目を細めて、整った唇をうっすら開く。
「この地の女神がもたらしてくれる祝福の一つと言われているんだよ。太陽の昇らない闇の中で生きていくために、火は必要不可欠だ」
「本当に、一日中夜なんですか?」
「ああ、この紺碧の空がずっと続いていく」
「それは」
レイは、空には銀の月と星が瞬き、地には火が瞬いている光景を見て思わず小さく微笑んだ。
「とても綺麗ですね」
この国は、とても綺麗だ。
エリシアストの夜とまるで違う。青空で燦々と光る太陽に、よく通る風、街のあちこちで回る大きな風車。紫色の夜は「終わり」の合図で、レイには疲れ切った風景に見えていた。
でもここは、そうではない気がする。
どんな街なのだろう。みんな、どんな風に火を扱うのだろう。魔力があるのなら、髪色はやはり輝いているのだろうか。
「街を歩いてみたいか?」
馨が湯飲みを置いた。
レイは、自分の好奇心が見透かされたことに恥ずかしく思いながらも、正直に頷く。
「そうですね。いつか、のんびりと」
「では行こう」
「はい……え?」
顔を上げたときには、馨の長い銀色の髪がゆらゆらと揺れ、薄暗かった部屋の中が月光に満たされたのかと思うほど床から光っていた。光に負けない微笑みが、レイに向けられている。
もしかしてこれは。
「さあ」
手が差し伸べられ、レイはなぜか考える間もなく取っていた。
その瞬間、部屋の中がより強い銀の光で満たされる。