16
レイが現実に戻ったのは、ベッドに入る前だった。
ふとハンガーに掛けた黒いワンピースが目に入り、そこでぴたりと動きを止めた。
あれは何だったのだろう、と着丈の長い漆黒の服をみる。
着たことのない色の、着たことのない隙のないワンピース。
常連客たちをしっかり見送ったが、最後まで誰にも何も聞かれなかった。祖母にもだ。
だから、きっと何も言わない方がいいのだろう。
レイは湯冷めしないようにとっととベッドに入る。
考えるのは、自然と深淵国の事だった。
あの存在のやかましい二人と正反対に静かな人は、一体誰だったのだろう。あの人の疲れ切った半身に、今も「影」が這い回っているのかと思うと、モヤモヤする。初めて会ったときも、妙な感覚がしたのだ。知っているような、放っておけないような。話してみると、心地よくて、変な話だけど、甘やかしたい、と思う人。今まで、レイの中にはいなかった人であり、きっと、これから先に現れない人だろう、と感じた。
なぜだろう。
そう思う自分を信じられる。また会えるのだと思うだけで、心の奥底がそわそわと揺れる。この揺れは、きっと持ってはいけない相手だと、わかっている。
レイは瞼を閉じた。
深淵国の夜の気配が、近く感じる。
どこまでも続く夜の中で燃える灯りが、瞼の裏でゆらゆらと揺れている。山小屋の屋根の上から見た景色と、月明かり。あの人がじっと見る目が、レイを意識の底へと誘う。
馨が、何かを囁いた気がした。
レイは心の中で、返事をする。
ええ、また、明日。
「ねえ、早くない?!」
レイはあまりの眩しさに目を覚ました。
反射的に布団を頭まで被っていたが、その隙間からあふれんばかりの薄紫の光を確認すると、ベッドサイドに桜が立っているのを見る前に叫んでいた。
「あら、ごめーん」
「もう!」
時計を手探りで探すが、ない。
光が収まったのを確認して何とか起きあがり、窓の外を確認する。
朝日がようやく顔を出した時間だろう。
「……ねえ、早くない?」
レイはもう一度言う。勝手に部屋に転移してきた桜を恨みがましく見上げるが、桜はハンガーに掛かった黒いワンピースを持ってきて、ずいっと差し出した。
「早くないわよ。あの人はもう起きて二時間ほど執務机に座ってるわ」
桜の一言に、レイの目が一気に覚めた。
「すぐに行く」
レイがベッドからでてワンピースを受け取ると、桜は胸の前で手を組んで目を煌めかせた。
「あんた頼りになるわあ」
「いいから、着替えるから出て行って」
「三分よ?」
頼んでおきながらちゃっかり急がせる桜を、しっしと手で追い払って、レイは急いで支度をする。
あんな状態で、睡眠時間も碌にとってないという、不摂生極まりない生活をしている馨に、ほんの少し怒りのような感情がむくむくと湧く。他国の者を勝手にさらってくるほど心配している人が周りにいるというのに、本人が自分を追い込んでいるなんて。
ほんの少しの時間でも、自分の心に優しくして、余裕を持たせるのが休憩だとレイは思う。
バーの開店準備を済ませて、しんとした人の気配のない朝の店内でゆっくりコーヒーを飲むのも好きだし、ぱらぱらと常連が来て隙間ができたときに、心地のいいざわめきの中で新聞を読まずに広げるだけの無駄な時間も好きだし、空の瓶を路地裏に出すときに見上げる青空も好きだ。
深く息を吸って、肩の力を抜いて、ダラダラして、ぼーっと外でも見て、気づいたら少しでも眠っていたら、最高なのに。
周りに気を使っての休憩しかしていないあの人にそれを伝えたら、どういう反応をするんだろうか。
「もうちょっと、ちゃんと自分を労ることを考えてもらわなきゃ」
「さんせーい」
部屋の外にでている桜から返事が来る。
レイは三つ編みを結び終え、ドアを開けると、支度をばっちり済ませた姿を桜に見せた。
「うん。可愛いわよ」
ウインクを寄越され、レイは怪訝な目を返す。
「そういうのいいから、早く行こう」
「わお。やる気になってくれて嬉しい」
「心配なだけ」
昨日はどうにか手の「影」は消え失せたが、夜も明ける前から働いているなんて、どうなっているだろう。少しでも消えたままならいいのだけど。
レイがふと視線を感じて顔を上げると、桜がとびきり優しい顔で笑っていた。思わず一歩後ずさる。
「失礼ね」
「あなたたちが親切だと怖いんだよ」
「鋭いわね」
と、適当な会話の応酬をしていると、桜の周囲がキラキラと朱色に輝き始めた。
「茜が呼んでるわね」
レイは桜が準備をする前に、デスクのメモ帳に、さらさらと書き置きを残す。
『行ってきます。開店までには戻るね レイ』
「よし。行こう」
「あんたやっぱり変よ」
桜がくすくす笑い、手を出した。
レイはその手を強く握る。
「わたしより、あの人の方が変だと思う。働かないと死んじゃうわけじゃないのに」
「あっはっはっは」
爆笑しながらデスクに手を突くと、桜は薄紫の光の帯を出現させた。心なしか、帯までふるふる震えている。
「もう、本当にその通りよ。休んだって死にはしないって言ってあげてちょうだい。さ、行くわよ」
レイは元気づけられるように肩をたたかれ、転移の気配に目を瞑った。
○
ティーワゴンを押して、扉の前で止まってノックをする。
返事を待たなくて言いと言われているので、静かに扉を開けた。
静寂に包まれる薄暗い広い部屋は、昨日と寸分も変わらない。大きな執務机に積み上げられた書類も、変わらずに……いや、それ以上にある。
馨が、ふと視線を上げた。
レイの姿を見ると、一瞬目が見開かれる。そして、状況を把握したのか、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「早いな」
「早いですよね」
レイは大きく頷いて、ワゴンを押して執務机の前まで歩いた。
自分を優しく甘やかに見る目に向かい、負けるもんかと力を込める。
「休憩のお時間です。さあ、ちゃんと休憩しましょう!」
了
お読みいただき、ありがとうございました。
出会いは突然で、そういう容赦のない流れの中でも柔軟に流されて、日常は変化していく、という話が書きたくて書き始めた話でした。
この後の展開など決まってはいるのですが、とにかく初投稿をキリのいいところできちんと完結させたい、と思い、ここで完結とさせていただきました。
読んでいただけていたことがとても嬉しいです。
本当に本当に、ありがとうございました!




