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「おばあちゃん!」
前に立つレイが弾かれたように飛び出す。
カウンターから伸びた枝のような手が、レイの頭をグシャグシャと撫でた。
「よく帰ったね」
「うん。あ、あの人は桜さん。送ってくれたの」
「そりゃあ、どうも。孫が世話になったね」
意図の分からない笑みを向けられ、桜は身体に一気に血が巡る感覚がした。
あらあら。これは喧嘩を売られたかしら。
桜はにっこりと笑みを返し、カウンター席の椅子を引いて座る。
「あたしの相棒がごめんなさい。あなたの孫をさらうつもりはなかったの。ただ運命の相手だと勘違いしちゃってねえ。割と即行動しちゃう奴で……あたしも大変なのよう」
黒い軍服を着た、オールバックの眼鏡の男からでた言葉とは認識できなかったらしく、薄い殺気と魔力が充満していた店の中が一瞬にして奇妙なほど静まった。
桜はきょとんとした顔を順に端から端まで見つめて微笑む。
「本当に、ごめんなさいね。相棒には、この子がちゃんと自分の手でお仕置きをしてくれたから、その件はこちらでは片づいたの。でもあなたがあたしたちのことを許せないのなら、代表してあたしがお仕置きを受け止めるわ。どうぞ、思い切り」
桜はそう言って右頬を差し出すような素振りをした。
「どういう意味だい」
「ひっぱたくのが、こちらのお仕置きの流儀なんでしょう?」
「……レイ」
察したのか、呆れたような声がレイを呼んだ。
「ごめんなさい。そうするしか収拾がつかなくて」
レイは慌てて、恥ずかしそうに声を潜めた。
反応したのは、後ろで監視を続ける三人の男共だった。
「ぶっ」
「お前、レイ、深淵国の軍人を」
「ひっぱたいてお仕置きって言ったのか?!」
ひーと腹を抱えて笑い出す親父たちは、一気に警戒心を解いたのか、げらげらと笑いながら、テーブル席の仲間へ顛末を伝えに走って戻っていった。しばらくして、笑い声がどっと起きる。
「もうやめてよ!」
レイが怒った態度を見せると、より彼らは面白がって笑い、ついでに「よくやった」と誉めていた。
桜はその様子を片目に、こっそりと話しかける。
「おばあさま」
「なんだい」
「あの子は、とっても優しいのね。あたしたちのところへ毎日来てくれるんですって。特別な人と出会ってしまったようだから」
桜はあえてはっきりと言わなかった。
底の冷えたような、感情の読みとれない目が桜に向かってくる。
ここは、変だ。
この明るいというのに日差しを感じない空間も、桜を深淵国の軍人だとわかっているのに、戦闘態勢を取らないでくつろぎ始めた騎士たちも、かなり腕の立つそれらを一言で制し、騒動にならぬようにコントロールしているこの老女も、そして、レイも。
レイは何も知らなかったが、きっとこの祖母はそうではない。
深淵国をよく知っている気がした。
桜はその前提で、話を続けた。
「おばあさまであるあなたが、あの子を寄越すことを良しとしないなら、あたしの上司が直々に挨拶にくるわ。あの二人は約束をしてしまったから、守らなければいけないの」
約束。そんなもの、深淵国では簡単にしたりはしない。約束はギブアンドテイクではない。お互いを善意だけで信じて縛るような、恐ろしく曖昧なものなのだ。
「挨拶などいるか」
迷惑そうに言う。
そして、男共の席に「心配させたから」とサービスのビールを差し入れているレイを見やった。
「好きにしな」
約束など面倒なことをして、と呟く。
やはり、彼女は深淵国をよく知っている。そして、そのことを隠そうとしていない。 そのことが、とてつもなく厄介な状況であることを桜に知らせている。けれど今は敬愛する上司のために、レイという娘を深淵国に派遣させてくれる「約束」を取り付けなければならない。
桜は何も知らぬ素振りで、話を向ける。
「まあ。ありがとう。お仕置きはいいのかしら?」
「面倒なことはしたくない」
「そうね。よくわかるわあ。だから簡単に決めましょう。レイは、こちらが責任を持って迎えにくるわ。あたしでもいいかしら? 他に希望はある?」
「いいや」
「あとは、そうねえ、レイが拒むときは絶対に連れて行かない。レイが帰りたいと言えば即座に帰す。そして、そのことを知るのは、あたしと、相棒と、あたしの素敵な上司だけ。レイの存在は絶対に三人以外には漏らさないし、きちんと守ると約束するわ。どうかしら」
「ふん。約束ねえ」
「ええ、約束よ」
桜は最後に笑う。
「そうすれば、あの子が癒しの子であることは絶対に秘密にしてみせる。こっちの国にも、ね」
桜の言葉に、彼女は一つも表情を変えなかった。
たっぷりと桜の顔を見つめてから、ようやく口を開く。
「いいだろう。約束をしようじゃないか」
「あっさりねえ。いいの?」
「いずれ、選ぶ時がくるだろうと思っていたからね。だから」
彼女がカウンター越しに、ぬっと手を伸ばしてくる。
その細い腕からは想像できないほどの力で、桜は左手を掴み挙げられた。
「人の記憶を消し飛ばすその魔法、いい加減しまってくれないかね」
ぎりっと握られた手が、ビリビリする。
身体強化を使っている老女の顔を、桜はレンズ越しに睨み上げる。
「あらまあ」
「おまえ、桜って言ったっけ? 北の家の者か」
「よくご存じねえ」
「あいつらなら、決して口外したりはしないよ。現に、今おまえはなにか困っているのかい?」
「いいえ。騎士ならばすぐにあたしを制圧して、城の中に引きずり入れているべきだもの」
「ならば、それは必要か」
冷酷といってもいいほどの目で見下ろされる。
「いいえ。不要ね」
桜は魔力を鎮めた。
確かに、彼女の言うとおりだ。
ここで起きたことは、絶対に外に漏れない。
そんな気がした。
あーあ、とため息をつく。
「すごい面倒くさい子を見つけて来ちゃったのねえ、茜ったら」
「面倒な奴らに見つかってしまって残念だ」
老女はようやく桜から手を離すと、緑茶を準備し、湯飲みを桜の前に置いた。一口飲んだ桜は、目を見開く。
「あなたって、何者なの? お名前を伺っていいかしら?」
「遠慮する」
「もう」
「気をつけて帰りな」
名乗らぬ老女が、桜を指さす。身体の輪郭をなぞるように、淡く朱色に発光していた。
「あら、準備できたみたいね」
湯飲みをおくと「ごちそうさま」と礼を言い、立ち上がる。
テーブルの間を動き回っているレイに桜は声をかけた。




