12
もう会えない。
レイは衝動的に、馨の右手を取っていた。
「ほ、本当に」
声が震える。
なにを言おうとしているんだろう、ともう一人の自分が冷静に言っている声がレイには聞こえた。しかし、口が止まらない。
「本当に、約束を守ってくれるんですか?」
守るに決まっている。馨はきっと、義理堅くて真面目で誠実な人だ。たった少ししか過ごしていなくてもわかる。
背後では、茜の「馨様を疑うなど、あなた」という怒号を、桜が「しーっ、黙ってなさいよ」と言いながら口を塞いだ気配がする。もがもがとくぐもった声が聞こえてきたが、レイは無視を決め込んだ。その勢いで言う。
「わたしが帰った後、休憩はするけど、五分以内にしたりしませんか? 本当にちゃんとした休憩を取ってくれますか? あなたが休憩している姿を確認しないと、し、心配です」
「……なるほど?」
馨にも、茜にも桜にも意図が伝わったようだ。背後が静かになり、馨は小さく笑う。
「確かに。その手があったな。君との約束は守っているし、しかし茜への”お仕置き”にもなる。五分以内の休憩にしてしまうかもしれない」
「ですよね」
「ああ、見張りが必要だな」
「はい」
「ついでに、話し相手になってくれるような人物だとありがたい」
「はい」
「マッサージも得意だといいんだが」
「はい!」
レイは思い切り頷いた。握っていた馨の右手を、もう一度強く握る。
「迷惑じゃなければ、わたしなどいかがでしょうか」
「君の迷惑じゃなければ、頼みたいがどうだろう?」
「ではそうしましょう!!」
「もー、茜ぇ……」
勢いよく間に入り込んできて、レイと馨の手の上からこれでもかと言うほどの力で握ってきた茜の後ろから、ほとほと呆れた、と顔に書いた桜がやってくる。
「でもありがとう。嬉しいわ」
桜から笑顔とウインクを寄越され、レイはふと「早まったのかもしれない」と一瞬思ったが、馨からは優しい眼差しを送られ、さらに、宥めるようにレイの頭にぽん、と触れられて「まあ、いっか」と思えた。自然と笑みがこぼれる。
いいか。
この人を、このまま放っておくことはきっとできなかった。
それに、この人と過ごす時間は、終わるのがもったいないと思ってしまうほどに、心地いい時間だった。
うんうん、と自分に頷くレイの気持ちの整理を、ずいっと顔を近づけてきた茜に遮られる。
「では、馨様専属の休憩係になってくれるということでいいですね?」
「茜、近いぞ」
馨の手が茜の頭に延び、引き剥がす。
ついでに何故か握り合ったままだった三人の手も解けた。
レイは固まっていた手をぶらぶらと振り、茜ではなく、桜を見て言った。
「よし、じゃあ家まで送ってくれる?」
「ん。了解~」
「は? まだ話が」
「あんたねえ、今日はこれくらいにしときなさい。我が儘はよしなさいな」
桜は、ぐいっと茜の肩を掴むと、文句を垂れる茜を封じて後ろへ追いやった。
「茜の転移で場所は覚えてるから、安全に送ってあげるわね」
「ありがとう。じゃ、お願いします」
「手をどうぞ」
桜の身体がふわりと薄紫色に光る。
レイは慣れたようにその手を取った。
「はいはい、茜。転移魔法展開してちょうだい」
桜が言うと、茜はしっかりとレイを見て念を押してきた。
「馨様専属の休憩係になってくれますよね?」
「あなたに約束はできない。する必要もない」
レイはにっこり笑って、きっぱりと言った。
桜が吹き出して笑う。
「でも」
レイは馨を見た。
「休憩の見張りと、話し相手と、マッサージをしに来ますね。心配なので、必ず来ます」
「ああ。楽しみにしている」
馨も同じように優しくレイを見て、片手を上げた。
「また」
「はい」
桜の薄紫色の光が、ふっと強くなる。
茜は何故か妙に好戦的な、嬉しそうとは少し違う表情で床にすっと片膝をつき、手を叩きつけた。朱色の光の粒が、桜とレイの体に巻き付く。
「さ、行くわよー」
桜が力を込める気配がした。
馨の転移とはまるで違う。二人の力が繊細に、均等に、緻密に混ざり合っているのを感じた。
ぐん、と光の帯が伸びていく。足の感覚が消える、この妙な感覚も、もう恐ろしさは感じなかった。
馨に最後まで穏やかな目で見送られながら、レイはもう数えることをやめた転移を恙なく終えたのだった。
○
「頬は大丈夫か」
やんわりとした光が失せた後、馨は立ち上がる茜に声をかけた。
燃えるような髪の隙間から、茜の目がまっすぐに馨に向かう。
「いってぇわ」
「だろうな。お前をふらつかせるほどの張り手をする娘など、他にいまい」
ふっと愉快そうに笑う。
その顔に、茜が複雑そうに表情を歪めた。
「悪かったよ」
と、小さく呟く。
馨はようやく心からの謝罪をもらい、許す姿勢を見せることにした。
執務机に軽く腰掛ける。
椅子に座っては、この裏表の激しい部下兼友人兼従兄弟は、あっという間に部下になってしまうからだ。腕を組んで、隣に視線を向ければ、茜は渋々机に寄りかかるようにて「話す」姿勢をとった。
昔から、こうしてプライベートな話だけは隣に腰掛け、顔を見ないで話すことが習慣となっている。馨の休息にも一役買っているのだが、茜本人にはその気はないらしい。
「で?」
茜はやはり居心地がよくないのか、早々に話を聞りだしてきた。
「あれは何者なんだよ」
「何者とは?」
「思いっきり癒し魔法の応用の身体強化を使って、男相手に平手打ちかます、あの娘だよ。人間だけど、ありゃ人間じゃないだろ」
「確かにそうだな」
「お前さあ」
「彼女は確かに癒しの子だ。間違いない」
馨の視線がふと波間を覗くように遠くなる。
「かなり不思議な類だ。それまで魔力など一切感知できなかったのに、彼女が自分の意志で私の中に入ろうとしたときの、膨大で繊細な魔力は、見たこともないものだった」
「……入る?」
「知っているだろう。私が右半身にだけ癒し魔法を使えないことをどれほどの魔力を使って隠しているのか。それを彼女は簡単に突破して、入ってきて、癒し魔法を施した」




