出会い
「見つけました、運命の人!」
突然、手を強く握られ、店主のレイは思わず身を引いた。
所謂、ドン引き状態だったが、目の前のカウンターから乗り出すフードを目深にかぶった男は、こちらの反応など全く意に介していない。唯一見える口元はにっこりと美しい弧を描いている。
なんて言った?
運命の人?
レイは眉を顰めた。十九歳になる今の今まで、そんなことお世辞でも言われたことはない。冗談にしてもひどいセンスだ、とむっとしたレイが掴まれた右手を引こうとするが、びくともしなかった。
「あの」
手を離して、とレイは言い掛けたが、そのままぽかんと口を開けたまま、まじまじと男の周りを凝視した。
男が光っている。
見間違えではない。何度瞬きをしても、灰色の長いマントを着た旅人の輪郭が、薄紫色にキラキラと発光している。
濃厚になっていく魔力の気配に、店の中が一気にざわついた。
あ、まずい。
これは非常にまずいわ。
レイは、テーブル席に座った血気盛んな常連たちを咄嗟に見やる。現役時代は城の中で切磋琢磨していたと豪語する者たちが、次々に不気味なほど静かに立ち上がり始めた。緑に溢れた穏やかな店内があっという間にむさくるしい殺気と威圧感に満ちる。このままでは、愛着のある店が彼らによって壊されかねない。
「おいこら兄ちゃん」
「あ! 落ち着いて、グロウさん。そのビール瓶回収されるし、手から放してね」
そう注意を促したはずが、ほかの者たちが一斉に瓶を持ち、さらには椅子を持ち上げている者もいた。レイは掴まれていない左手で思いっきり手を横に振るが、全く伝わっていない。家族に血圧を心配されている男たちの額に青筋が浮かび上げる。
「おい! 俺たちの娘から手を離せ」
「ねえ、みんな聞いてー」
レイが必死に臨戦態勢の男共を宥めているというのに、目の前の男は何故か優雅だった。彼らのことは全く見えていない。それどころか、自分が光っていることにすらようやく気付いたようだった。笑みを消し、舌打ちをして吐き捨てる。
「――ああ、もう本当に、遅いですね」
「え、あの」
「申し訳ないですけど、ついてきてくれますか」
レイは目を丸く見開く。
全然、申し訳なさそうじゃない。
しかも、冗談でもなさそうだった。
「う、そ。まさか」
レイはひっと小さく息を飲んだ。
発光する男は、レイの手を離さないまま左手でカウンターを強く叩いた。ブン、と空気が振動する音がする。カウンターの上に置いた左手から、朱色の光が漏れ出したかと思うと、男とレイを帯のように巻き取り始めた。
後ろで三つ編みに結っていた長い灰色の髪がふっと浮く。
ついでに、男の被っていたフードも、どこからともなく吹く風によって取れ、鮮やかに輝く朱色の髪が現れた。肩まで伸びた髪、そしてそこからちらりと見える少し尖った耳。
ああ、やっぱり。
「準備はいいですか?」
「いや、よくないけど。ねえ、そっちもよくないよ?!」
レイは今まさに、瓶ビールを投げようと手を振り上げる男共を大きな声で制す。
「聞いてる?! 私に当たるかもしれないじゃない?!」
「そんなへまはせん!」
レイはがっくりと肩を落とす。
もう仕方がない。
レイは足下の感覚がなくなってきたのを感じ、とにかくこれだけは伝えなくては、と思い切り声を張り上げる。そう、二階にいる前店主に向かって。
「おばあちゃーーーん、みなさんが食べて飲んだ分を清算しておいてねーーー! ツケはなしだよーーーーー!! 絶対に、ツケはだめだからねーー!!」
ゲッと顔をひきつらせた男共に、身体が光の帯とともに消えていく刹那に、レイは二本指で自分の目を指さす。
後でチェックするからね! と圧を掛けながら、レイは消えていった。
○
「ふっ」
ん?
笑われた?
レイは着地したのを感じ、顔を上げる。
ぱっと手を離され、男は重苦しい灰色のマントを脱ぐと後ろにいた人物に投げ渡した。
まじまじと目の前の男を見上げる。黒い詰め襟の肩にかかる、燃えるような朱色の髪は嫌みなほど輝いていて、伸びた前髪の隙間から見えたその顔も嫌みなほど整っていた。
しかも若い。しかし、どこか軽薄そうな印象を与える顔だった。顔というか、人をバカにしたような、燃えるような赤い目というか。
そして、ほんの少し尖った耳。
「……初めまして、闇の人」
「魔族と呼ばないのですか?」
男は少しだけ目を見開いてから、薄く笑う。
レイはむっとして睨み上げた。
「高位の方とお見受けしましたので、ただの皮肉です。お気になさらずに」
「それはいいですねえ」
男は微かに目を細める。
「俺は茜と申します。あなたの名前をお聞きしても?」
「レイよ」
茜はじっとレイを見下ろし、何か言いたげに口を開いた時だった。
恐ろしいほど甲高い声が二人の間に響きわたる。
「キヤアアアア、何、どうしてこんなところに人間が?!」
わたわたと騒ぎ出したのは、先ほど茜がマントを渡した相手だ。
レイは茜の肩から見えた顔を見て、思わず二度見する。
紫色の髪は額を出し、ぴっしりと撫でつけている。シルバーの眼鏡が、怜悧な紫色の目によく似合っていてストイックな印象を与えるので、まさかこの男が出したものとは考えられなかったのだ。キャアキャアと声を上げながら、茜のマントを抱きしめながら引き締まった体で震えている。こちらも黒い詰め襟だ。
「落ち着いてください、桜」
「これが落ち着いていられますか!」
「うるさいです。だいたい何度呼んでも返事をしないから、仕方なしにバーに入って待っていたんですよ?」
「それはごめんなさい。あの方からお茶を頼まれて」
「お茶を?」
茜は眉間に皺をよせる。そしてそのまま、ソファに腰を下ろした。頭をガシガシと乱暴にかく。綺麗な口調とは違い、レイの目にはずいぶん野性的な男に見えた。
そういえば、この茜という男が店に入ってきた時、ふと妙な気がした。
足首まで覆う灰色のマントに、深く被ったフード。
どう見ても怪しかったが、レイの預かる店は裏路地にあることから、訳ありの客人は珍しいことではなかった。
そもそも店にたどり着ける人は限られているし、何より自称用心棒たちの腕の確かさも知っていたので、警戒心はなかったのかもしれない。
そしてつい。
つい、いつものような空気に戻った店の中で、つい、やってしまった。
無闇にしてはいけないことだと祖父母から教えられてはいたし、守っていたのに、常連客でもないのに、どうして、つい、やってしまったのか。
その相手がまさか、深淵国の高位の魔族で、エリシアスト国の城下町の端っこにある路地裏のバーに立ち寄るなど、レイには思いも寄らなかった。
茜が紫色に光り出すまでは。
「はあ?!」
桜と呼ばれた男が、素っ頓狂な声を上げる。
慌てて二人を見ると、未だに茜のマントを抱きしめたまま立っている桜が、訝しげにレイを睨んで「本当に?」と茜に聞き返していた。
茜は頷き、同じような目でレイを見やる。
何とも居心地が悪い。
「あの?」
レイが口を開くと、桜が「ひいっ」と小さな悲鳴を上げる。
「落ち着いてください、桜。これは構造的には我々と同じ生き物なんですから」
「だって人間なのよ?!」
「まあ、人間ですけども」
「いやあ! しゃべった! 喋ったわよ、茜え!」
ばしばしと座ったままの茜の肩を叩いている様は、怯えてるような、それでいて妙に攻撃的であり、つまるところ、得体の知れない珍獣を前にしたヤバめのオネエだった。レイはそう思うと、冷静になれた。
目の前にいるのはテンションの高い、興奮気味なお姉さんなのだ。
一人でうんうんと頷いていると、桜は一層甲高い声を上げた。
「ねえ、本当にこの子、癒しの子なの?!」
「……はい?」
「間違いないですね。彼女は癒しの子です」
「ええーー! 大変、大変だわー!」
桜はたいそう驚いて、バタバタと執務室を出て行ってしまった。
残された茜はこめかみを揉みながら「うるっさかった」と心からつぶやきを垂れ流す。
レイは呆然と、その姿を見続けることしかできなかった。