寛容な心をお持ちなんですね
少し前に、とある施設を見学させて頂いた。
障害を抱える人が日中通う、いわゆる作業所といわれる施設だ。
こういった施設、形態はいろいろなんだけど、細かい説明は省く。
ゆったりしたり、楽しんだり、働くこともできる、大勢の人が通うところだった。
様々な過ごし方ができること、仕事が用意されていることを説明されて、実際の作業部屋や厨房、食堂などを見て回る。
その途中に、施設内に設けられた喫茶店も見せてもらった。
喫茶店はこまごまとした物をテーブルにセッティングしている最中で、車椅子に乗った若い女の子が働いていた。
女の子は見学者に気が付き、挨拶をしてくれた。
お菓子や、手芸品、食器などが売っているのでぜひ、と声をかけてくれた。
施設の見学はつつがなく終わり、私は買い物をしていくことにした。
クッキーやパウンドケーキをいくつかと、お茶目な形の深いお皿をひとつ、可愛い形のコースターをひとつ選んでレジへと向かうと、さきほどの女の子が大慌てでレジへ入って準備を始めていた。
施設の人の手を借りながら、会計をしてくれた。
女の子が「本当に来てくれてありがとうございます」というので、「あなたが声をかけてくれたから」と答えたと思う。
喫茶店の横に並んでいた販売中の商品のラインナップが面白かったのもある。
カラフルだし可愛らしかったし、焼き物の色が良かった。ついでにいうと、こういう場所のものは安い。安くて、いい感じのものが多い。
挨拶もしてくれたし、営業上手だったからねえ、なんて話すと、女の子は照れたように笑いながら「寛容な心を持っていらっしゃるんですね」と私に言った。
思いがけない言葉に、あははなんて笑って、そんな大層なもんじゃないよと言ったけれど、聞こえたかどうかはわからない。
他愛のない会話をしていたつもりだったけど、帰り道に「寛容な心」という言葉が思い起こされて、なんとも形容しがたい気分になって、今この瞬間まで引きずっている。
寛容の心など、持っていない。
持っていたいとは思っている。寛容な人間になりたいし、内心はどうであれ、寛容な人間でいたいと考えてはいると思う。
世の中、私なんかよりも優しい人はごまんといる。と、思う。
私は非常に短気な人間で、ひどく怒りっぽい。けれど一方で気が小さいから、心の中でぶつぶつ文句を言って不満を溜め込む。
とても器が小さい。ついでに言っちゃうと、友達もほとんどいない。
あの車椅子の女の子がどうして「寛容の心」なんて言葉を持ち出したのか、考えていた。
邪推をしてみたり、さまざまな想像を巡らせてみたけれど、真実はわからない。
単純に、それが最上級の誉め言葉だと思ってのことなのかもしれないし。
本当はなんでもないことなのかもしれない。
けれど、邪推の向こう側についての考えは心に残って、ぐるぐるとまわったままだ。
障害を持つ人に対して、どのくらいの人間が関心を持っているだろう。
身近にいなければ、無関係でいられる。そういう風に社会が出来上がっていると私は思う。
私だって、たまたま家族が急に病気にならなければ、なにも知らずにいただろう。
入院して、立派なお医者さんに診てもらっても、治るどころか深刻な後遺症が残る病があるのだと、十数年前に知ることになった。
そういったことが人生の中であったから、たまたま知っただけ。
障害を抱える人が集まるところに足を向けたり、大変な人生を歩んでいる人たちの姿を時々目にするようになったからというだけだ。
けれど目にするようになったからといって、すべて受け入れられるようになったわけではない。
体の変形があったり、ずっと奇声をあげていたり、びっくりするほど接近してくる人には全然慣れない。
逃げたり、悲鳴をあげたりはしないだけで、どうしたらいいのかなんてわからない。
障害とひとくくりにするけれど、程度は様々だ。
パラリンピックの選手なんて、エリートだらけじゃん、と思ってしまう。
体がろくに動かない人たちからしたら、仲間の活躍なんて思えるわけなくない? と考えてしまう程度の心の持ち主だ、私は。
家族が突然病に倒れた時に、クリスチャンから総出で祈られたことがあった。
私の両親は(兄、弟とついでに伯母も)ごくごくノーマルな、新興宗教ではないキリスト教の信者で、日常の中にはいつも祈りがある。
病が思いのほか深刻だとわかって、両親は祈りの場を設けていた。
通っている教会の牧師までやってきて、そりゃあもうめっちゃ慰められた。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」みたいなことを言われて、腹を立てたのを覚えている。
そんなもんはいらねーから、祝福だけ寄越せよって。
もちろん、そんなことは一言も言わない。ただただお礼を言って、全然好きじゃないキャラクターのぬいぐるみなどのいろいろをお見舞いの品として受け取った。
そんな不謹慎なハートの持ち主でも許してくれるキリストは、真の寛容な心の持ち主なんだろな、と今になって思う。
とはいえ、神もキリストも、直接的には助けてくれない。
トイレの世話だの、送迎だのを引き受けてくれるわけではない。
心が満たされていても、現実はなにも変わらない。
でも、心が満たされていた方がまだいいのかな。
いや、いいに決まっている。満たされていた方がずっといい。
私はそれを知っていた。
時々、とても親切な人に出会うことがある。
電車に乗る時にスロープを出してくれる駅員さんが感じが良い人だととても嬉しい。
素敵な車椅子ですねえ、なんてカラーリングなどを誉めてくれると、気遣いのできる人だなと感心する。
エレベーターをわざわざ降りてくれたり、慣れないところで階段にぶち当たってため息をつく私に、運ぶのを手伝いましょうかと声をかけてくれる人がいたり。
車椅子を持ち上げるのは危ないから(クソ重いから)、そういう時はお礼だけ言って断るんだけど。
そんな風にさりげない親切をくれる見知らぬ人たちの寛容の心に、私は助けられている。
そんな親切に出会うことを期待はしていないけれど、だからこそ、出会った時にはありがたいことだと思う。
私はあの車椅子の女の子を、少しくらいは嬉しい気持ちにさせられたのだろうか。
親切な人だと思ってもらえたのかな。
私の心は結構なトゲトゲで、寛容とは程遠い。
だけどこれからも、寛容の心を持つべく、目指していったら良いのかもしれない。
あの日買ったクッキーはとても美味しかった。
女の子が最後に、また来てくださいねと微笑んでいたことを思いだす。
買いに行きたいけど、場所がなあ。
遠いだけじゃなく、交通の便が悪い。どこかに行くついでに寄る感じの場所でもない……。
いつか真の寛容を手に入れたら、交通の便がどうとか考えなくなるのかな。
寛容って、そういうことじゃあないか。