魔人の狂想(1)
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大きなあくびを一つして、寝ぼけ眼をくしくしと擦る。
十畳ほどのワンルームの学生寮には、俺以外誰もいない。
窓からさす木漏れ日が、部屋の中を舞う埃をダイヤモンドダストの様にキラキラと照らして、夢見心地な少女の体を布団の中に引き摺り込む。
夢を見ていた。
この一年間は本当に色々な事があったから、一区切りしたのでそれを脳が整理していたのだろう。
期限切れになりそうだった課金アイテムでなんとなくやってしまった性転換。それに伴うバグで、ゲームだったこの世界に転生して、冒険者学校に入学。この世界で親友と呼べる二人の友達に出会って、大きなモンスターを協力して倒したあの時間。
いろんな事がありすぎて、もうかなり昔のことのように思えてくる。
そんな風にしてさっきの夢の話を思い返していると、不意に、聞こえるはずのない──いや、もう何度も聞き慣れたというべきか──寝言が、銀の髪、その下の小さな耳を這って鼓膜を響かせた。
「お姉様……むにゃ……」
視界に映る部屋には、最低限の家具しか置かれていない。机と背の低いテーブル、それからクローゼット。
質素な部屋だが、しかしそれを高級なものへと錯覚させられるものが、一つだけ紛れている。
「アリス……」
呆れた声を出して、隣で俺のブランケットを奪っている少女の名前を呼んだ。
彼女の名前はアリス・ティンゼル。
かのドラゴンスレイヤーと名高い女冒険者──アレイシア・ティンゼル名誉男爵の娘で、俺のことを姉のように慕ってくる親友だ。
……ちなみにこの姉のような、というのは要するに百合的な姉妹関係のアレだ(もちろん付き合っているわけではないが)。
初めて出会った時はそんな一面を見せることはなかったのだが──あの一件があってから、何故か彼女からそういう目で慕われるようになってしまった。
「また部屋に忍び込んだな、お前は……」
たしか、学園祭あたりの頃からだ。
本来、二、三年生がレイドを組んで討伐するはずだったラミアクイーンという巨大なモンスターを、俺とアリス、それからもう一人の親友ロゼッタと三人で討伐した後のいつからか、彼女はこうして毎晩夜這いをかけるようになった。
夜這い、といってもただ同じ布団に潜り込むだけで、何かよこしまなことをしてくるわけではないのだが──正直、元男の俺としては、恋愛対象が女の子なだけに(それに元の年齢とも近いから)嬉しくもあり困ってもいる。
こんなにくっつかれては、隙を見て一人で性欲を処理することもままならないからな。
俺は、呆れたため息を吐きながら、彼女の頬に掛かる金色の巻毛を耳にかけた。
彼女の髪は長い。腰まである。普段はそのまま流しているが、運動をしたりするときは黒いリボンでアップに纏めたりする。
その時にチラつく耳の後ろや首の裏の、その陶磁器のような白さは、整った顔立ちも相まってか、精巧に作られたビスクドールを想起させる。
今みたいに黙っていれば綺麗で美しく、そして高潔に見える彼女だが、しかしその反面、この少女は天真爛漫というには少し可愛すぎるくらい乱暴快活で、食いしん坊で、そして普段見せる顔からは想像できないくらい意外と甘えん坊で、年相応にとてもかわいらしい性格をしている。
俺は彼女を起こさない様にそっとベッドを降りると、『冒険者学校の制服』に着替え始めた。
白のワイシャツに、二年生を示す赤いリボン。それから赤茶色を基調とした、膝上丈のチェック柄をしたプリーツスカート。
その上から身につけるのは臙脂色のブレザーと革のコルセットベルトで、冒険者学校の校章が縫い付けられている。
以前はどこかの売れないアイドルみたいな衣装で少し恥ずかしさもあったが、もうこの体になってしばらく経つ。
初めの頃はスカートやワンピースを着ることに抵抗もあったが、今となっては着飾った自分を眺めては『かわいい』を呟くことも少なくない。
「はぁ、お姉様ぁ……。
今日もかわいいわぁ……♪」
……呟かれることも、最近は増えたかもしれない。
(毒されてきたな……)
ぽつり、苦笑いを浮かべながら心の中でつぶやきながら、声の聞こえてきた方へと視線だけを向けた。
アリスだ。
ベッドの上で寝そべりながら頬杖をついて、こちらを見ながら笑っている。
朝の身支度をしている俺の顔は、きっと目の前の姿見を見ないでも、ほんのりと赤らんでいるだろうことはなるとなくわかった。
「あ、あんまりジロジロ見ないでくれ……」
リボンの傾きを直しながら、ささやかな抗議の声をあげる。
「ふふっ、お姉様ったら照れちゃって」
薄いシーツを払って、艶かしい両足がフローリングに着地する。
その動き一つ一つとっても美しく、育ちの良さが目に見えるようだ。
「そういうところもかわいいわよ♪」
よたよたとベッドを降りてきて、俺の体に後ろから抱きつくアリス。
ふわり、金髪から甘い香りが鼻腔を撫でる。
「お、おい……」
むにゅり、と背中に感じる柔らかい感触。
十五歳にしては発育のいい二つの丘が、背中に押しつけられているのがわかる。
普段は着痩せする方だからわかりづらいが……なかなかのサイズだ。
もしやまた成長したのではないだろうか?
「なぁに、お姉様?」
そんな俺の動揺を楽しんでいるのか。
そのまま彼女は、俺の長い銀髪に五指を滑り込ませた。
見た目によらず、硬く分厚い皮膚に包まれた剣士の手。しかしそこには女性らしいしなやかさもあって艶かしくもある。
人差し指が下顎にかかる。
次第に二人の吐息に熱が混じり、柔らかな桜色の唇が重な──ろうとしたその時だった。
──バタン!
「マーリン! アリス! 早よ起きんと遅刻すんでぇ……って、あれ?
二人ともどしたん、そんな離れて」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは、赤い髪の活発な少女──ロゼッタだった。
彼女もアリスと同じく、この冒険者学校に入学したときにできた友人である。
赤く燃える様な髪と紫紺の瞳が特徴的で、俺たち三人の中でも一番背が低い。
俺もアリスも背が低い部類に入るが、ドワーフとの混血というだけあって、彼女はさらに背が低い。
年齢的には中学生くらいのはずだが、彼女なら小学生と呼んでも誰も不思議がらないだろう。
予想外の闖入者に驚いて、反射的にベッドの端と反対側の部屋の壁の端まで離れた二人に疑問符を浮かべるロゼッタの姿からも分かる通り、頭の中まで幼い彼女だ。
案外、普通に小学校に通ってもバレないかもしれない。
そんなこんなで俺たちは寮を出る。
向かう先は冒険者学校。
冒険者になるためのさまざまな学びの場として、冒険者ギルドが誂えた学び舎だ。
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──《ノタリコントラクト・オンライン》というVRMMOがある。
『スキルを改造できるRPG』という謳い文句で、サービス開始から約一ヶ月で五千万ダウンロードを突破した人気の全感覚没入型のVRMMORPGである。
これまでもいくつか全感覚没入型──つまり、脳から体へ至る運動神経への命令をジャックして、ゲーム内のキャラを動かせるタイプのVRゲームはいくつも登場していたが、コスト的な面から中々やってこれなかった『スキルの改造』に乗り切ったこのゲームは、多くのゲーマーを虜にしたのである。
何せ、やりようによっては自分の好きなようにスキルを──正確には、このゲームではアーツと呼ばれるのだが──改造し、オリジナルのものを作って戦えるのだから。
親が転勤族で、俺も同じく引っ越しを繰り返していたために、固定した友達と遊んだりすることも少なかった俺は、よくこういった全感覚没入型VRMMORPGで遊んでいた。
ここで遊んでいれば、いずれ引っ越したとしても、友達とずっと繋がっていられるから。
しかし、そううまくいくことはなかった。
発売したのは最近だったし、その頃にはすでに俺のコミュ障は完成していた。だから友達を誘って遊ぶこともできなかったし、ゲームの中でもソロプレイが基本だった。
だって、自分から知らない人に話しかけるのってハードルが高すぎるだろ?
それでも面白いから遊んでいたし、この《ノタリコントラクト・オンライン》の広告を見た時は興奮してすぐにダウンロードを決めた。
もちろん虜にもなったし、高校から帰ってきてはすぐにこの世界で遊ぶようにもなった。
そんなある日のことだった。
昔、イベントで手に入れた課金アイテムの使用期限が迫っているという通知が、プレイ中の俺のメールボックスに届いた。
調べてみると、それはたしか半年前にゲーム内のカジノの景品として獲得した、アバターの外見を再設定できるアイテム『魔法の姿見』だった。
せっかく手に入れた課金アイテム。
使わないで消費期限を切らせるよりも、この際、アバターの外見をリメイクするのもいいだろうと考えた俺は、せっかくだし最高にかわいい美少女を作って遊ぼうと考えていた。
「──っていうところまでは、覚えてるんだよなぁ……」
俺は、街の中心にある噴水の淵に腰を下ろしながら、ブツブツと呟いていた。
水面に映るのは、先刻、課金アイテム『魔法の姿見』で容姿を変更して作った、銀髪碧眼の十四歳くらいの美少女だ。
やや青みのかかった、例えるなら氷のような色の長い銀髪。澄んだ夏の青空のような碧眼はやや吊り目気味だが、全体で見ればかなり整っていて、知っている人がいないからと性癖をふんだんに詰め込んで作り上げた、自分好みの容姿である。
着ている装備は、何故か初期装備の『麻布の服』で、武器は自分の腕とブレードが同じ長さの剣──『ショートソード』が腰に一本だけ。
赤茶色の丁寧な革で誂えられた鞘と剣は普段ゲームで振っている剣よりも若干重く感じるが、水面に映る自分の顔や風景、それに装備諸々──いつもよりややグラフィックが細かい気がするのは気のせいだろうか?
(それにしても、スカートってこんなに心許ないんだな……)
女性型アバターの初期装備であるスカートの裾が、風で捲れ上がりそうになるのを手で押さえながら顔を赤く染める。
いくらゲームだとはいえ、股下を通る風の感触がリアルすぎていただけない。
これだけリアルだと、自分には興味がないはずだとは思いつつも、周囲の視線も気になり始める。
世の中の女性は、いつもこんな感覚でスカートを履いているのだろうか?
──とはいえ。
「明らかに感度設定バグってるよな……。
いや、それだけじゃないんだけども」
見覚えのないマップに強制転移された挙句──俺の記憶が確かなら、鏡を使う前は装備の強化素材を採取するために、マルバロの森というフィールドダンジョンに居たはずだ──装備品どころかレベルやステータス、解放していたスキルツリーまでが初期化させられている。
さらにいえば、スキルポイントがゲームスタート時に配布される四十五ポイントも健在であることから、完全にデータがリセットされていることが窺えた。
これまで散々スキルポイントを使って魔法スキルの改造をしたり、剣術スキルの威力の底上げをしていたのが全部水の泡になったのかと思うと、かなり悔しい気持ちになる。
「『魔法の姿見』にプレイデータがリセットされるなんて重大なバグがあったなんて知れたら、運営は目を回すだろうなぁ」
あれはカジノイベントでゲットできるレアアイテムだ。
レアとはいえ──だからこそというべきか──カジノイベントは全部リアルマネーを使うから、クレームもきっと後をたたないに違いない。
まぁ、データの初期化なんてレベルはそうそうないにせよ、オンラインゲームでも何でも、何度かメンテナンスが入ったりしてシステムが変更されるタイプのゲームにはよくあることだ。
バグを修正するためにだとか、ストーリークエストを更新したりだとか、新しい要素を足したりだとか。そういったことのためにメンテナンスを入れたりすると、予期せぬ場所でバグが発生してしまう。
ましてや、サービス開始から一年も経っていないともなれば、たとえβテストを通過していたとしてもその頻度も多いだろう。
しらんけど。
俺は運営会社のプログラマーに同情の念を抱きつつ、クレームを入れるべくGMコールをしようとメニューをスクロールした──が。
「……ぁ、あれ?」
視界に映るメニュー画面のボタンに、違和感を覚える。
その正体は明確だ。
本来あるはずのGMコールボタンが見当たらないのである。
(いや、見当たらないとかじゃなくてこれ──)
「ボタンがメニュー画面から消失してる?」
呟いて、冷や汗が背筋を駆け降りる感触を覚える。
慣用句じゃない。
文字通り、汗が背中を伝うのを感じた。
(以前までは汗が流れるエフェクトだけならあった。
だけどそれに触覚情報なんて──)
「おいおいおいおい、嘘だろ……!?」
(運営がクレームから逃げるためにコールボタンを消した? いやまさか──)
嫌な予感という言葉は、多分こういう時のためにあるのだろう。
俺はその嫌な予感を払拭すべく、顔を青ざめさせながらも、もう一つの心当たりを探るべくログアウトボタンを探し始めた。
(ちがう、これじゃない、これでもない──)
コロコロと軽快な音を立てて流れていくメニュー画面。しかし表示もさほど多いものではないから、直ぐにスクロールバーは端から端まで辿り着く。
「……」
嫌な予感というのは、嫌なタイミングに限って的中するものだという言葉をどこかで聞いたことがあったが。
「マジか……」
予感的中。
俺は盛大なため息を吐きながら、ゆっくりと天を仰いだ。
ログアウトボタンが消えていた。
全感覚没入型と呼ばれるこのVRゲームハードは、名前は忘れたが何とかというシステムによって、プレイ中は現実の体の一切を自由に動かすことができない。
首の後ろのところで、全ての運動神経をジャックし、プレイヤーキャラを操作するコントローラーとして流用されているからだ。
だから、ゲームの中でいくら頭からヘッドギア型のゲームハードを外そうと頑張ったところで不可能なのである。
要するに、閉じ込められたのだ。
現実的に考えて、運営がクレームこら逃げるために徹底的に遮断を試みたというわけでないとしたなら、これもバグの一種として考えることもできるけど……。
考えたところで真意がわかるわけでもない。
「今頃、運営は涙目だろうなぁ……」
なので俺は、とりあえず現実逃避をする事にした。
見上げた空で、閑古鳥でも鳴きそうなぐらいゆっくりとした雲の流れが、少しだけ早くなったように感じる。
(まぁ、でも俺は実家暮らしだし、夕飯の時間にでもなれば、誰かが気づいてくれるはず。
気づいてくれて電源を落としてくれれば、強制的にログアウトできるんじゃ?)
とは思いつつも、本当にゲームをブチ切りしても安全に生還できるのかと言われると不安が残る。
だってゲーム機が脳みそと直接リンクしているんだ、下手をすれば植物状態になるか、運が悪ければ死ぬかも知れない。
尤も、今までそんなニュースは聞いたことがなかったが、状況が状況なだけに悪い想像が膨らんで落ち着かない。
……だめだ、逃避先でも悪い想像が消えてくれない。
「すぅ……はぁ……」
俺は深呼吸をすると、焦る心を無理矢理落ち着かせた。
暴れたところで何がどうなるわけでもない。
今の俺は、例えるならまな板の上で目釘を刺された鰻のようなものだ。
こうなってしまえば、もう運命に身を任せるしかない。
「……さて、これからどうしようかな」
不安な現実を見なかった事にするべく、噴水の淵から飛び降りる。
そうでもしなければ、到底まともなら精神状態ではいられそうにないからだ。
「せっかくだし、このままゲームを楽しむとするかな。
こんな機会そうそう無いし、色々観光して回って──」
──そう呟きながら伸びをした時だった。
「キャ──ッ!?」
「も、モンスターだぁああ!」
すぐ近くの通りのあたりから、助けを求めるNPCの叫び声が聞こえてきた。
(街中でモンスター?
普通街の中って安全地帯だからモンスターはポップしないはずだけど──)
あり得るとすれば、ゲリライベントくらいだろう。
今はバグってる最中だし、参加して何かアイテムをドロップさせたらデータがさらにバグりそうな気もして怖いけど……。
「ま、どうせバグってるし、今更でしょ!」
そんな葛藤はすぐにどうでも良くなり、リスクよりも興味が優った俺は、イベントに参加するべく騒ぎの中心へと向かって走りだしたのだった。