第2話(4)
「俺、美冴ちゃん送ってくからさ。お前今単車修理中でどうせ電車だろ」
つい先日、飛び出してきた猫を避けて電柱に突っ込んだと言う和希は、大した怪我はないものの単車はかなり悲惨なことになった。現在必死こいて修理中と言うことで、和希の足は今は電車だ。
「美冴ちゃんの方が家遠いんだから、俺乗せてくよ」
「うんー……」
不満そうな顔をしていた和希だが、俺の視線に負けて立ち上がる。
床に置いたままだったギターを取り上げると、その更に向こうに転がっているギターケースにしまう姿を見るのが、正直つらかった。
「和希、帰っちゃうの?」
なつみが更に上乗せして不満そうに言う。和希はそれに微笑を返して頷いた。
「確かにあんまり遅くさせられないし。高校生だからな、まだ。送るとしたら俺か啓一郎しかいないわけだし」
あっさりと答えてなつみに軽く手を振ると、和希はさっさと由梨亜ちゃんの方へ歩いて行っていた。
美冴ちゃんと二人で話しこんでいた由梨亜ちゃんが、驚いたように顔を跳ね上げるのが見える。そして俺から見てもわかるほど、嬉しそうな表情を見せた。
和希が何か言いながら俺を振り返り、三人の視線が俺に向く。美冴ちゃんに「啓一郎が送るから待ってて」とでも伝えているんだろうと判断して、俺はその場に座り込んだまま片手を振った。
「じゃあわたしも帰ろうかなあ」
唇を尖らせたなつみに、いつ背後に忍び寄ったのか一矢が後ろから抱きつく。一矢が話していた美保の姿はなかった。トイレにでも立ったんだろう。
「何つれないこと言ってんのー?」
「ちょっとぉ。セクハラ親父になってるじゃない」
「普段からですが」
「自分で言わないでよ」
言って一矢が、手にしたビールの缶をなつみに押し付ける。そうしている間に、和希と由梨亜ちゃんが並んで部屋を出て行くのが見えた。
「んじゃ俺、帰るね」
「あ、じゃ、じゃあ、あの、お邪魔しました」
出て行く寸前、由梨亜ちゃんの目が一瞬俺と合う。少し恥ずかしそうに微笑む彼女に応えて小さく手を振った自分が、虚しかった。
何、してんだろ……。
自嘲的な気分で立ち上がり、冷蔵庫からウーロン茶の缶を抜き出す。プルリングを引きながら、美冴ちゃんの方に足を向けた。入れ違うように武人が立ち上がる。
「どこ行くの?」
「さっき和希さんが読んでた雑誌、あれ貸して」
「ああ。言えば持って来たのに」
「てほどの距離じゃないし」
それもそうだけど。
「ごめんね、一応少し酔い覚ましたら送るから、待っててね」
「あ、ぜ、全然そんな……。すみません」
無理してテンションを上げようとするが、どうにもテンションが上がらない。
和希と由梨亜ちゃんは、何を話して帰るだろう。
これできっとまた、由梨亜ちゃんの和希への想いは深まるに違いない。……そして、そう仕向けたのは俺自身だ。
「あの、わたし、一人で帰れるし……大丈夫ですよ」
「こんな時間に可愛い女の子一人で帰せないでしょ」
美冴ちゃんのそばまで行って、床にぺたんと座り込む。酔いを覚ますってほど、最初から酔ってないんだけどね……。
「啓一郎さん、元気、ないですか?」
ばれないようにこっそりとついたつもりのため息が聞こえたらしい。美冴ちゃんが少し、心配そうな表情を見せる。
「武人ぉ、俺の煙草、放って」
それに笑って見せると、俺は、さっきまで和希が座っていた椅子で雑誌に視線を落としている武人に声をかけた。足元の俺の煙草を示すと、座ったそのまんまで俺の煙草をこっちに向けて蹴った。
「……蹴ることないじゃん」
「ナイスシュート」
自分で言うな。
手段に不満があるとは言え、ともかく煙草を手中におさめて一本抜き出す。
「そんなことないよ。疲れたのかな。ほら、ライブ終わりだし」
「あの、だったら本当にわたし……」
「このままだとだらだらここにいそうだから、美冴ちゃんを送る口実に俺も帰るよ。これ吸ったら」
「はい」
美冴ちゃんがはにかんだように笑う。
「学校じゃ、あんまり武人と話したりしないの?」
武人は、高校生にして非常に酒に強い。
さっきまで武人が座っていたこの周辺には既にいくつもビールの空き缶が転がっているが、にも関わらず、顔色ひとつ変わらずテンションも別に変わらない。末オソロシイ奴だ。
「そうですね。って言うか、方宮くんもあんまり女の子とほいほいしゃべる方でもないし」
声が聞こえたのか、雑誌から視線を上げた。
「そうなんだ」
「何か俺、今ネタになってます?」
「保護者面談」
何じゃそりゃ、と苦笑して雑誌に視線を戻す。それを見遣りながら煙草を灰皿に放り込むと、俺は美冴ちゃんを促して立ち上がった。
「お待たせ。ごめんね。行こうか」
「あ、はい」
「んじゃ美冴ちゃん送って、俺、帰るね」
「おー」
「武人、お前も適当なトコで帰れよ」
ついでに武人に釘を刺すが、武人は顔も上げずに返事をした。
「俺、このまま一矢さん家泊まってく」
「あ、そ。んじゃね」
「どうもお邪魔しました」
美冴ちゃんを連れて部屋を出る。エレベーターに乗り込んでボタンを押すと、またため息が漏れた。そんな俺を美冴ちゃんがちらっと見たのがわかったが、何も言わないので、俺も何も言わない。
由梨亜ちゃんと和希、もう家に着いたかな。まだかな。
何、話したんだろうな……。
「美冴ちゃんって茗荷谷の方だよね」
「あ、はい」
妙にシャチホコばった美冴ちゃんと並んで、エレベーターホールから外へ出る。
その瞬間、出入り口の陰になっている壁のところから体を起こした人物が、ひらっとこっちに手を振った。誰か知り合いかと思ってそちらを何気なく顔を向ける。肩口までのさらさらの黒髪に、目じりの上がった少しキツい目付きの女の子だ……って、え?
「橋谷センパーイ」
うわ。
「恵理」
知り合いと言えば、知り合いだ。そこにいたのは、川本恵理―― 一矢の元彼女だった。
かつての遊び仲間の内の一人だったんだが、クスリに手を出したり、別れ話の時に自殺未遂をしたりといろいろ問題を起こした上でようやく別れたと言う経緯がある。とは言っても、実に一年半ほど前の話なんで、今こんなところにいようとは予想だにしなかった。
ぎょっとしたまま黙る俺に構わず、恵理は軽い足取りでこちらに近付いてきた。俺を見上げて目を細める。
「やっぱ、いたんだ」
「え? な、何してんの? お前」
「ストーカー」
おいおい。洒落になっていない。
「何だよそれ。まさかと思うけど、一矢に付き纏ってんの?」
何で今更……いや。
思いかけて、思い直す。そう言や三ヶ月くらい前に、一矢の口から恵理の名前が出たことがあったかもしれない。どこぞのバンドのライブを見に行って、偶然そこで恵理と会ってしまったとか何とかかんとか。
(それか……)
それ以来話は出ていなかったけど、以降、付き纏われてたってことだろーか。
「一矢センパイ、中にいるんでしょ?」
「あのさあ、お前、やめとけよこういうの」
呆れる俺に構わず、恵理はマンションを見上げて唇を尖らせた。
「チャイム鳴らしても出てくれないんだよ。話ぐらいしてくれてもいーと思うんだけどなー」
「最初からそうじゃなかったでしょ? あなたが一矢の意見を受け入れないからそうなってるんじゃないの?」
「だって好きなんだもん」
状況がわからずにぽかんとしていた美冴ちゃんも、ようやくわかってきたらしい。俺と恵理の顔をきょときょとと見比べているのが視界の隅に見える。
「俺に言われても困るよ。一矢だって困ってんだろ。これ以上嫌われたってしょーがねーじゃんよ……」
「橋谷センパイ、一矢センパイを呼んでよ」
「嫌だよ」
俺だって恨まれたくないよ。
短く答えて通り抜けようとすると、恵理が予想外に美冴ちゃんの腕を引っ張った。
「ねえ。橋谷センパイの彼女?」
「関係ねぇだろ?」
恵理の言葉に、美冴ちゃんが頬を紅潮させる。咄嗟に遮るが、恵理は構わずに美冴ちゃんを覗き込むように笑いかけた。
「そんな言い方ないじゃないねえー? ふうん……女の子の好み、変わったの? それとも……」
恵理の視線がこちらを向く。
「さっき帰ってったふわふわの女の子……あっちが本命かなあ?」
にやにやするように言う恵理の言葉に、思わずかっとなった。
かつて一矢と恵理が付き合っていたことを俺が知っているように、恵理も俺のかつての恋愛を多少なり知ってはいる。俺の好みも多少把握してるってことなんだろう。
そして残念ながら的を射ているだけに、俺の中で苛立ちが湧き上がった。
元々恵理と俺は、反りが合わない。由梨亜ちゃんのことでテンションも低い。美冴ちゃんが帰る時間が遅くなっていく一方だと言うことも気にかかる。
あーっ、面倒臭ぇ。
「だから関係ねぇだろっ?」
「相変わらずお人好し、やってんだ」
「……わけわかんねぇ」
「だったらあたしにもお人好しやってよ。お節介してよ。一矢センパイに会わせてよ」
「そんなあちこち面倒見てらんねぇよっ。自分のことは自分でやってくれっ。行こう、美冴ちゃん」
彼女の腕を掴んで歩き出すと、俺の態度にカチンと来たのか、恵理が微かに鼻を鳴らした。
「好きな女は別の男に譲ってやんだ?」
俺の態度がむかついたから、腹いせみたいなもんだろう。深い意味のない絡みだとはわかっている。俺の状況を知っているはずもないから、想像で当てこすっているだけなんだと知っている。こういう奴だ。一矢は良くこいつと付き合ってたと感心する。
だけど、屈辱感を堪えるためにきつく唇を噛んだままの俺の背中に更に投げられた言葉に、限界を越えた。
「さっきのコの方が可愛かったもんね」
ぶち。
「恵理っ」
男だったら、殴ってる。
美冴ちゃんから手を離し、俺は階段から引き返した。がっと強くその肩を掴んだ俺に、恵理が顔を顰める。
「痛いな」
「彼女に謝れよ。関係ないだろ」
「何……」
「謝れよっ」
あんまり大声出すと近所にご迷惑なので、抑えた声で低く怒鳴る。
「言ったこと、わかってんのか? 俺にむかついたんだったら俺のことを言えよっ」
恵理は掴まれた肩が痛いのか微かに鼻の頭に皺を寄せたまま、そっぽを向いた。それきり、こちらを向く気配も口を開く気配もない。俺が女の子を殴ったり出来ないと知っての態度だと思えばまた腹も立つが、こうしていたって時間が経過するだけだ。軽く舌打ちをして、俺はその肩を放した。相手にしてらんねぇ。
「行こう」
代わりに、再び美冴ちゃんの腕を掴んで歩き出した。美冴ちゃんが少し怯えたような声を出す。
「啓一郎さんっ……」
「嫌な女になったな」
顔だけ微かに振り返って言葉を投げつけると、恵理も不愉快さ全開の顔でこちらを睨んだ。
「好きだから、後悔したくないだけ」
それ以上返す気になれず、単車を停めてある駐車場まで無言で歩く。
俺にしては、良く堪えた方だろう。あんなんでも一応女だから、殴るわけにはいかない。
俺はまだ良い、俺は。元々俺もあいつの知り合いだ。別に一矢のせいじゃない。
だけど美冴ちゃんは何の関係もないだろうっ。
「け、啓一郎さん」
駐車場にたどりつき、俺はずっと美冴ちゃんの腕を掴んだままだったことに気がついた。慌てて離す。
「あ、ごめんね。痛かったでしょ」
「それは、全然」
「何かどんどん遅くなっちゃうね。俺、おうちの人に一緒に謝ろうか?」
「だ、大丈夫です、大丈夫」
シートの下に放り込んである半ヘルを美冴ちゃんに渡す。
彼女がそれを装着している間に俺は駐車料金の精算を済ませ、単車を引き出した。跨って足でボディを支えながらフルフェイスのヘルメットをかぶる。
「ごめんね」
「え?」
「やっぱり、あいつにちゃんと謝らせれば良かった」
ごめんなさい、と頭を下げる。美冴ちゃんは慌てて口を開いた。
「啓一郎さんのせいじゃないし。あの、怒ってくれたから。それで、十分です」
凄く嫌な思いしただろうに。
全く関係ないのに、俺への八つ当たりの為に、寄りによって自分の親友と比較されたんだ。俺以上に、美冴ちゃんは屈辱的な思いをしただろうに。
ぎこちなく笑った美冴ちゃんが可哀想になって、半ヘルの頭をぽんぽんと軽く叩くと、美冴ちゃんはようやく白い歯を覗かせた。
「ホントに、大丈夫ですよ」
「そう? んじゃ、行きましょう」
美冴ちゃんがバックシートに跨るのを待って、俺は体を前傾に倒した。
「しっかり掴まっててね。危ないから」
「あ、は、はい」
美冴ちゃんの腕が俺の腰に回される。それを確認してエンジンをかけながら、俺は恵理の言葉を思い出していた。
唇を噛む。
――好きな女は別の男に譲ってやんだ?
――好きだから、後悔したくないだけ
譲ってやるわけじゃ、ないさ。
……だけど、仕方ないじゃないか。
彼女が好きなのは俺じゃなく、和希なんだから……。
*
美冴ちゃんを送り届け、帰りかけた俺はふと途中で気を変えた。進路を変更する。
あゆなの家が、通り道からさほど遠くない場所にある。
あゆなの住むアパートから何分もかからないところにある個人商店のシャッターの前で単車を停めると、俺は携帯電話を取り出した。あゆなの番号を呼び出す。
「何」
電話に出たあゆなの第一声はそれだった。……いきなりそうなの?
「今、家?」
「そうだけど」
「今、田中商店の自販機の前にいるんだけど」
「はあっ?」
一瞬素っ頓狂な声を上げたあゆなは、それから短い沈黙を挟んで深いため息をついた。
「わたしの都合ってもんを考えないの、あんたは」
あんたが俺の都合を考えたことがあるように言わないで欲しいんだけど。
「忙しいわけじゃないだろ」
「忙しくはないけどお風呂上りなの」
「だから?」
「湯上りのあゆなちゃんを見て啓一郎がヨクジョーしないとも限らないでしょ」
……。
「で、暇なんだろ」
「……」
人の話を聞けよと悪態をつくと、あゆなは「五分」と時間を区切ってそっけなく電話を切った。
携帯をポケットにしまい、小銭を取り出して自販機に突っ込む。ビールを二本買ってその辺にしゃがみこむと、一本だけプルリングを引いた。
「うわ、ガラ悪」
きっかり五分で姿を現わしたあゆなは、本当に風呂上りだったらしい。濡れ髪を二本に分けて縛った状態で、チビTシャツに短パンという挑発的な姿で現われた。バランスの良い起伏が明らかになっている。
「付き合ってよ」
言って、ビールを一本放る。
ぱしっと音をたてて受け取りながら、あゆなはあきれたように単車を眺めた。
「やる気満々ね」
「何を」
「飲酒運転」
言いながら、自分もビールの口をあける。俺の横にしゃがみこむと、ふわりとシャンプーの香りがした。
「確かにちょっと扇情的だな」
「でしょ。忠告はしたわよ」
「でも、あゆなだからな」
「……どういう意味かわかりかねるわね」
んでどうしたの、とビールの缶を地面に置いて尋ねる。
「別に」
「由梨亜ちゃんと何かあったわけ」
「何も」
ふーん、と信用していないような響きの返事を返す。
「俺、今なら自分の才能が溢れかえって止まらなさそう」
「はああ?」
「いっくらでも曲書けそう、なんか」
「アップ? スロー?」
「スロー」
テンポの話である。俺の返答に、あゆなはやれやれと言うように首を振った。ビールに手を伸ばす。
「つまり駄目なわけね」
「止め処なく才能が溢れて死んじゃったらどうしよう俺」
死ねばと冷たい一言を返したあゆなの背筋を、人差し指でつーっとなぞってやる。あゆなが手に持ったビールを落としかけて、「ひゃあああ」と間抜けな悲鳴をあげた。
「何すんのよえっちっ」
「どうしてこれがえっちになんの?」
「……別に」
言葉を濁して抱えた膝に顎を乗せたあゆなは、そのままころんと俺の方に顔を向けた。
「ねえ」
「あん?」
「だから何があったのよ」
「別に」
「何かあったんでしょ」
「……」
手にしていたビールの缶を地面に置く。
地面の小石と擦れてじゃりっと言う音がした。ポケットから煙草を取り出して咥えると火を点ける。
「オトモダチ」
「え?」
「彼女の恋の相談相手。……それが、俺の役回り」
個人商店の駐車場にぽつんと一つだけある街灯に、虫がぶんぶんとたかっているのが見えた。
ふうっと煙を吐き出すと、その一瞬だけ街灯が俺の視界で白く煙る。
「馬鹿ね」
「馬鹿だよなあ」
「友達になっちゃったら、終わりじゃないの」
「終わりだよなあ……」
呟くように言って、煙草を持った右手を下ろした。
「……え?」
瞬間、風のようにふわりとあゆなが近づいた。
そして、近付いた時と同じように風のようにふわりと離れる。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
「激励」
短く言うと、あゆなが立ち上がった。ビールの缶は既に空になっていたらしく、自販機の脇のゴミ箱に放り込む。
「湯冷めしちゃうから帰るわ。んじゃね」
ひらっと手を振ると、ビーチサンダルのペタペタ言う足音が暗闇に遠ざかって行く。
その背中に視線を向けて、俺は固まった姿勢のまま、ゆっくりと煙草を持つのと反対の手を唇に当てた。
まだ、あゆなの唇の温もりが、残っているような気が、した……。