第2話(1)
「あー。加賀と羽村。来てくれたんだ」
美冴ちゃんと由梨亜ちゃんが来てくれると約束したライブのその日。
五バンド中、俺たちの出番は四番目だ。今はまだ二バンド目が演奏をしている最中で、俺と和希と武人はライブスペースの外にあるドリンクカウンター脇の物販席でたまっていた。一矢は多分中でライブを見ているんだろう。美保は一バンド目のヴォーカルの男と、ドリンクカウンターの隅でくっちゃべっている。
「こんばんは」
「お疲れ様」
クラブで会ったあの日、三人はすぐに帰ってしまったので、俺は今日のこのライブの日をひどく楽しみにしていた。そりゃあもう、待ちきれないほどに。
灰皿の灰を火のついた煙草で無意味になぞっていた俺がその声で顔を上げると、美冴ちゃんと由梨亜ちゃんが連れ立ってこちらに向かってくるところだった。その姿を見ただけで、また心臓が跳ね上がる。
うわー。来たよ。来ちゃったよ。まじで。すっげえ緊張してるんですけど、俺。どうしよう。不自然じゃないかな。
由梨亜ちゃんの姿を見ただけで、体中の血が逆流する。その間にも二人は俺たちのすぐそばまで辿り着いていた。
「なあに? お友達?」
物販席に座ったなつみが、机に積んだCDを揃えながら首を傾げる。背中に届く髪がさらっと滑り落ちた。
その隣ではもう一人、物販を手伝ってくれている美保の妹も首を傾げている。余談だが、クロスを結成するに当たって俺らと美保を引き合わせてくれたのは、美保の妹である美姫だ。
「あ、俺のクラスメートで……」
武人には、この前『コースト』で彼女たちと俺らが遭遇していることを話してある。
だけど、なつみには余計なことを話してはいなかった。何がヤキモチに繋がるかわからない。ちなみに美姫はファンとして俺を溺愛してくれているので、やはりそれはそれで面倒なので言っていない。
武人がなつみと美姫に二人を紹介している間、俺は黙って由梨亜ちゃんに目を奪われていた。……あー、くそ、可愛い。やっぱり可愛い。そうして立っている姿を見ているだけで飽きない。
由梨亜ちゃんは、どこか緊張しているような上ずった表情をしている。
話しかけたいな。この前は結局自己紹介をしただけで言葉を交わせていない。話したいな。怖がられないだろうか。
「由梨亜ちゃん」
美冴ちゃんと武人が話している間、由梨亜ちゃんはカチコチのまま黙りこくっているので、意を決して話しかけてみる。
俺の声に応じて、由梨亜ちゃんが俺を見た。……うあー。俺、これだけで死にそう。
「あのさ、えーと」
何を話そうか迷っていると、俺はふとこの前は気がつかなかった彼女の瞳の色に気がついた。淡いグレーがかったブルー。まるで宝石のように綺麗な瞳。
「ハーフってこの前聞いたけど」
「はい」
「どことのハーフなの?」
これだけの言葉をかけるのに、心臓が暴れ回っている。口から出るなんて技術を施している暇もなく胸をぶち破って出て行きそうだ。
「母が、ノルウェーなんです」
のるうぇーってどこだろう。
学生時代、成績が底辺を彷徨っていた俺には明確な地理がわかるはずもないが、とりあえず西のような匂いがする。胸の内で勝手にそう定めていると、逆に由梨亜ちゃんの方から言葉を口にしてくれた。
「啓一郎さんて、目が茶色いんですね」
「俺? まあ、俺は純正の日本人だけどね」
お洒落な遺伝子はどこにも混ざっていない。
にこっと目を細めるだけのそんな仕草も愛らしく、その髪がふわりと揺れるのに見惚れている自分に気がついて目を逸らす。片手に持ったままだった煙草を灰皿に放り込もうとして、そして俺は、一言も言葉を発しない和希の姿に気がついた。
黙って壁に背中を預けたまま、一人静かに煙草を咥えている。
なぜだかその姿に違和感を覚えていると、俺の視線に気づいた和希がふっとこちらを向いた。
「何?」
「いや、何ってことないけど」
前にも言ったが、和希は総じて人当たりが良い。誰に対してもだ。
嫌な言い方をすれば、そつがないとでも言うんだろうか。
だけど今の姿はまるで、こちら側の空気を拒絶しているようにも思える。壁を作っているような……いや、思い返せば、この前の『コースト』でもそうだった。
由梨亜ちゃんが姿を現してから。
(……?)
「和希さん、こんにちは」
内心首を傾げていると、俺の肩越しに由梨亜ちゃんがか細い声を出した。和希に向かって、緊張したような面持ちで挨拶をする。それを受けて、和希がちらりと目線を向ける。
「どうも」
掠れた返事。いつもの優しい柔らかい響きがなく、和希にそぐわない冷淡な態度。
冷淡、って言うのとも少し違うな。何だろ……。
頭を下げた由梨亜ちゃんと和希の視線が一瞬合う。だけどすぐに和希の方が視線をふいっと逸らした。取り付く島もない和希の空気に、由梨亜ちゃんが少し傷ついたように目を伏せる。
「だってなつみさんって有名ですよね」
こちらの微妙な空気を破るように、美冴ちゃんの明るい笑い声が響いた。つられてそちらに顔を向けると、武人がなつみと美姫を美冴ちゃんに紹介していたらしい。なつみが上品な笑い声を上げる。
「えー? やだな、有名って何?」
「綺麗で頭良くって。今もなつみさんファンの男の子とか結構いて」
「えー。まさかー」
「城西のカリスマだもんね」
そんな会話を横で聞きながら、和希が今度は半ば体ごと顔を背けるのが見えた。ステージの見えないライブスペースのドアの方に向き直って、手持ち無沙汰のように次の煙草を咥える。
「和希。聞いたー?」
そんな和希に気づかず、なつみが物販席から呼びかける。応じて和希は、作ったような笑顔で振り返った。
「え? ごめん、何?」
「なつみさんが城西のカリスマスターですよって話ですー」
「もお。何言ってるのよ」
美冴ちゃんの声に、なつみが華やかな笑いを上げる。
その中で、由梨亜ちゃんだけが妙に寂しげに見えた。
「どうしたの?」
由梨亜ちゃんを覗き込むと、俺の言葉に慌てて顔を上げた由梨亜ちゃんは、赤らんだ顔を横に振った。
「あ、べ、別に、どうも……どうって……?」
「いや、どうもしないなら良いんだけど。元気ないのかなーと」
そう言う俺は、柄にもなく上がっている。近くで見れば見るほど目を奪われて……心を奪われる。
「こういうとこ、苦手?」
「そんなこと……そう、ですね。そうなのかも」
まあ、あんまりこういうアンダーグラウンドな空気感が似合う感じでもないよな。不健全さがないって言うか。清楚な感じで可愛くって。
だけど、次に繋げたい。
全てがどこか控えめな彼女の様子が、ますます俺の心を引き寄せる。こちらに向かって微笑んで欲しいと思う。
「もしさ」
少し迷って、俺は言葉を選んだ。
あの日心にその姿が焼きついた彼女が、今こうして手の届きそうなところにいる。
「もし良かったら、また来てよ」
「え……」
「美冴ちゃんと一緒にさ。俺らといれば別に怖いことないっしょ」
このまま終わりにはしたくない。
もっと距離を縮めたい。
……また会いたい。
「あ、はい」
彼女との細い繋がりを、平静を装いながら掴もうとする俺の胸中に気づく様子もなく、由梨亜ちゃんは屈託なく頷いた。それを見て、少しほっとする。
「俺らが怖いんだともうお話になんないんだけど」
「あはっ。まさか」
俺の言葉に、由梨亜ちゃんが初めて声を立てて笑う。その声だけで幸せで、もっとその笑顔を眺めていたくて、俺も笑みを覗かせた。
「良かった」
笑ってくれたことがひどく嬉しくて。
もっと話してみたくて。
笑顔をそばで見てみたくて。
「じゃあ今日、楽しんでもらえるように精一杯頑張ります」
……新しい恋の始まり、なんてやつかもしれない。
◆ ◇ ◆
梅雨が明けて、本格的に夏がやってきた。
地面から陽炎が上り立ちそうな熱気と蝉の声が、神経を苛立たせる。と言うか、萎えさせる。
特に渋谷は都内の中でもかなり暑いと言われてて……暑いんだよ、だから……。
世間は夏休みに入ったらしく、渋谷はいつもに増して人が多い。
毎日が週末のような勢いで、一体どこから人をかき集めてくればこんなになるんだろうと思う。朝っぱらから何しに来るんだろうなあ。
まあ、俺も人のことは言えないんだけど……仕方ないじゃん。俺、渋谷の駅前でバイトしてんだからさ。
渋谷の駅からスクランブル交差点を渡ってすぐの複合ビルの中に、俺がバイトをしている居酒屋『更紗』はある。朝五時までの営業で、深夜の方が時給がいいので俺は好んで深夜に入ることが多い。
専門学校時代からバイトをしている店で、ちなみにこの店を経営している会社の社長が美保と美姫の父親だ。彼女たちと俺は、このバイトを通して知り合った。
(あー、あちぃー……)
バイト明けで眠いのは確かなんだけど、今日はこの後スタジオでバンドの練習が入っているから帰るのも面倒臭い。
先ほどまでは同じバイト先の錦健人をつき合わせてたんだけど、八時を過ぎた辺りで健人は「授業があるから家帰る」などと謎の言葉を吐きつつ消えていった。健人は有名私立の大学生だ。授業があるなら家に帰らずに学校へ行ったらどうかと言う俺の提案は、敢え無く却下された。
どうしようかな。家に帰っても全然良いんだけど、ここにいるんなら実家帰った方が全然近いな……。
俺の実家は渋谷区内、駅で言うと神泉駅の方にある。一旦実家に押し入って、十時頃にまた出て来ようか。その頃には楽器屋とかも開くし、この前新しいモデルのギターが発売されてて見たかったりもする。
そんなふうに思いつつ駅前でこれからの予定を決めかねていると、後ろから「啓一郎さん」と声をかけられた。仕事明けで徹夜明けでぼーっとしていた意識が、急激に覚醒する。
「由梨亜ちゃん」
「あ、良かった。わたしのこと覚えてないかと思いました」
何を馬鹿なこと仰いますか。
あれから毎日由梨亜ちゃんのことばっかり考えている俺からすれば、そんなツッコミを入れたいところだ。
人の間をすり抜けるようにしてこちらへ来る彼女は、制服姿だった。俺にとっては懐かしい母校の制服だ。
城西の制服ってのはかなり可愛くて、人気が高い。けどその分着る人間も可愛くないと絶対似合わないと言うか着こなせない、『みんなに似合う』ようになっているはずの制服と言うものから大きく外れたファッショナブルな感じだ。けれど由梨亜ちゃんは、それを難なく着こなしていた。通り過ぎる男が振り返っていく。
ライブハウスみたいなややアングラな雰囲気の場所より、こうして日の光注ぐ場所の方が彼女には似合っていた。淡い髪に空から零れ落ちる光が透けて光る。
「まさか。どうしたの? 制服で。夏休みじゃないの?」
「そうなんですけど。学校のね、図書館に調べ物に行こうかなって思ってて」
「勤勉じゃん」
あー、嬉しい。予想外の遭遇、こんな人ごみの中で俺の姿を見つけてくれるなんて。
次のライブまでは絶対会うことなんてないだろうと思ってたよ。神に感謝。俺は今この世の中に神がいることを知った。
「ウチの学校、休みの日でも登校する場合は制服着用で」
ついでに言うと、学生証も携帯していないと中に入れてもらえなかったりする。
その代わり同じ敷地内にある大学と共用の凄いでかい図書館があって、その設備ときたら半端ない。……らしい。俺は高校三年間図書館なんぞには縁のない生活をしていたので、知らない。
「うん。知ってる」
性懲りもなくどきどきしながら笑いかける俺に、由梨亜ちゃんは大きな目を見開いて首を傾げた。
「知ってる?」
「俺、卒業生」
「えっ? そうなんですか?」
「うん。ウチのメンバー、城西ばっかだよ。美保は違うけど、和希も一矢もそうだし。もちろん武人も」
一矢だけは中退だけどね。
由梨亜ちゃんは驚いたようにパーの形に開いた右手を、可憐な口元にあてた。
「知らなかったー。先輩なんですね」
「一応ね」
「あ、でもそっか。和希さん……となつみさん、城西大学ですもんね」
和希の名前を呼ぶ時だけ、少し口篭もる。
それを見て、俺の心に一抹の不安が過ぎった。俺にとって余り嬉しくない予感。
「良く知ってるね」
「み、美冴が詳しくて。何か。教えてくれて……」
「ふうん」
あたふたと誤魔化すように言うと、由梨亜ちゃんはきょろっと辺りを見回した。俺を見上げる。
「啓一郎さんは、こんな時間にどうしてこんなとこに?」
「ああ。俺ね、渋谷の駅前でバイトしてて。今帰りって言うか、帰る気なくて時間潰してるって言うか」
「そうなんですか?」
「そうなんです。どうせこの後スタジオだし」
「クロスの練習?」
「ま、そんなとこ」
練習って言うほど真剣なムードではないんだけど。
社長令嬢の美保が昔からピアノをやっていたおかげで、美保は家にそれ用のリハーサルスタジオを持っていたりする。
それほどでかいものではないが、アマバンの練習には全然問題なく、場所柄も池袋と便が良いので、クロスは嶋村家のスタジオにちょくちょくお邪魔させて頂く。その辺で借りるとリハスタってのは結構金がかかるわけで。
その代わり、金がかからないとなるとだらだらとそこにいることも多く、半ば溜まり場のようなものだ。
「良かったら遊びに来る?」
「えっ?」
思いついて言ってみると、由梨亜ちゃんはぴょこんと顔を上げた。まじまじと俺を見上げる。
「あ、で、でも美冴と待ち合わせしてて……」
「図書館行った後、もし時間があったらってことなんだけど」
そんなふうに見つめられると煩悩と衝動で連れて帰ってしまいそうだ。
「多分七時とか八時とかまでいるし、美冴ちゃんと一緒にさ。良かったらだけど」
「お邪魔じゃないですか?」
ぜーんぜん。ぜーーーーーんぜん。
ゼヒ来テ下サイと土下座をしたいくらいですよ。
「んなことないよ、別に」
ジーンズのポケットに親指を引っ掛けながら、安心させるように笑ってみせる。少しずつ日が上がってきて、さっきよりも気温は上がっていた。それにあわせるように、人込みもますます人口密度を増していく。
「なつみとかもどうせしょっちゅう遊びに来てるし。もちろん無理にとは言わないけど」
無理して欲しいのはやまやまですが。
「あ、ぜ、是非」
嬉しそうに頬を紅潮させて早口に頷く由梨亜ちゃんにほっとする。見返す俺に、由梨亜ちゃんは続けた。
「美冴も、喜ぶと思うし。その……クロスのファンだから」
「したら、俺の携帯教えとくよ。池袋だから、駅ついたら電話くれれば迎えに行くよ」
「あ、はい」
俺の携帯電話の番号を由梨亜ちゃんに伝え、それから学校の方へ歩いて行く由梨亜ちゃんを見送る。
その姿が完全に見えなくなってから、俺は弾むような足取りで歩き出した。アテが決まっていないことは、この際すっかり脳裏から消去されている。
(やった♪)
仲良く、なれるかな。
ライブを見に来てくれたコと友達になることももちろんあるけど、由梨亜ちゃんは余りライブとか来るタチじゃなさそうだ。美冴ちゃんの付き合いで来てる風だったし、また来てくれるかどうかは微妙だし。
だけどスタジオに来てくれるんだったら、後で俺の携帯に電話が入るだろう。それはイコール、彼女の連絡先を入手出来ることに他ならない。非通知とかされてなけりゃ。
テンションが上がって根拠もなくスクランブル交差点を渡る。どこに行くつもりなのかなんて、俺にだってわかりゃしない。どこでもいい。どうでもいい。
へらへらしながら、俺は由梨亜ちゃんのはにかんだ笑顔を思い出した。思い出しただけで、また少し浮かれた気分になった。
まじで、あんなコが彼女になってくれたら、俺は毎日へらへらしてる。
その脳裏に、和希のことで少し口ごもった由梨亜ちゃんを思い出した。
(ヤバイかな)
赤に変わりかけたスクランブル交差点で、思わず足を止める。
先日のライブの時の、微妙な空気感。
和希の方は良くわからないが、由梨亜ちゃんは和希を少し意識しているように見えた。それともそれは、そっけなくされたせいだろうか。
元々知り合いだったってことは、多分……ないと思うんだけど。
(まさか)
由梨亜ちゃんって……和希のこと……?
嫌な考えに、自分で少しどきりとした。ぶるぶると頭を振って、その考えを頭から追い出そうとする。
俺が由梨亜ちゃんに出会って間もないのと同じ、由梨亜ちゃんと和希だってあの時しか会ってないはずだ。
そりゃあ世の中には一目惚れというものもあって、一目惚れされてもおかしくないだけの容姿を和希は持っていて、俺自身由梨亜ちゃんに対して一目惚れみたいなもんだったりはするんだけど……。
……まさか、な。
自分で自分の考えを打ち消して、俺は赤に変わった歩道を駆け足で渡りきった。
*
先日のAQUA MUSEが持ちかけてきたオムニバスに何の曲を入れるかを打ち合わせながら、そわそわする。
由梨亜ちゃん、図書館ってどのくらいいるつもりなんだろう。
宿題とかを片付けるつもりなら、結構かかるのかもしれない。
「でもさ、一曲だから、その一曲でウチがどういうバンドなのかわかるようなのが良くない? これだと大人しすぎない?」
「でも完成度で言ったら、やっぱりこれじゃないですか?」
「そうかもしれないけど……啓一郎」
結局あの後、浮かれたまんま渋谷を無駄にうろうろしていた俺は、予定の時間になって嶋村家のスタジオを訪れてから意識がどこか朦朧としている。
半分は、バイト明けのせい。
半分は、由梨亜ちゃんに会えたせい。
「あ?」
このメンツの中では一番うるさいだろう俺がじっと黙っているので、不審に思ったのか、和希が俺を振り返った。答えて顔を上げる。
「お前、聞いてる?」
「聞いてるけど、抜けていく」
答えた瞬間、和希の片手が俺の頭を平手打った。
「あいて」
「抜けないで入れといて」
「やっぱー、今作ってるこの曲にしません?」
ドラムセットに座っているわけじゃないのにスティックを片手でくるくると回しながら、一矢が口を開いた。車座になっている俺らの中心には、譜面とCD-Rが散らばっている。
「出来てないけど」
「だから作る方向で。完成度上げればいーんでしょ」
「簡単に言うなあ」
美保が笑った。
その時、俺のポケットで携帯が振動した。
(来たっ)
口に出さずに心の中だけで叫ぶ。眠気が飛ぶ。
開いた携帯のディスプレイに表示されているのは携帯の電話番号だけで、それだけで俺の電話に登録されていない人間からの電話だとわかった。今の状況では由梨亜ちゃん以外に考えられない。
「ちょっとごめん」
「由梨亜ちゃん?」
「多分」
由梨亜ちゃんに偶然会って、スタジオにおいでよと誘ったことはもちろんみんなに言ってある。
メンバーしかいないこの状況では彼女たちもいづらいかもしれないが、もうじきなつみも来ると聞いているし、それなら少しは大丈夫だろう。
一矢の問いに答えながら、携帯を片手に立ち上がる。別にここで普通に出ても良いんだが、自分の声が上ずりそうであんまりこいつらに聞かれたくない。
「はいはい」
通話をオンにしながら、スタジオの隅の方へ足を向ける。その背中にメンバーの視線を感じながら耳に神経を集中すると、電話の向こうで「あ」と小さな声が聞こえた。
「由梨亜ちゃん?」
「はい。啓一郎さんですか?」
「そうですよー」
電話越しだと、声が耳に近い。当たり前だけど。
それだけで何かくすぐったいような、得したような気分になる。
みんなから離れていて良かった。俺の顔は今、多分溶けている。
「今、どこ?」
「学校を出たところで、美冴と一緒です。あの、本当に行っても大丈夫なんですか?」
もー、すぐにでも来て下さいよ。何だったらどこまででも迎えに行きますって。
言いたいけど、言えない。
「平気平気。今はまだメンバーだけだけど、そろそろなつみも来るし」
「そうなんですか」
そこで由梨亜ちゃんは、なぜだか少し複雑そうな声を出した。それから気を取り直したように、声に笑みを滲ませる。
「じゃあ、今から池袋に向かいます。何かお土産買って行きますね。何が良いですか?」
「え、いーよ、別に。気にしないで」
「じゃあ、啓一郎さんと合流してから、一緒に何か買って行きましょうよ」
池袋の西口を出たところで待ち合わせることにして、通話をオフる。まだ俺の耳には彼女の柔らかい声の名残が残っていた。もうこのまま消えないで欲しい。
「何だって」