第7話(4)
「初めまして。Blowin'の遠野です」
姉が知り合いであるからと言って、俺の知り合いじゃない。そんな姉も、今は別に住んでいるし、諸事情につきそもそも戸籍上は他人だったりする。はっきり言ってただのワンフ以外の何者でもない俺は、正直少し緊張した。直接会ったことは数回しかないわけだし。慣れない。
「啓一郎くん。久しぶり」
「お久しぶりです……」
一矢以外は、俺が亮さんと一応は知り合いであることを知らないので、全員の視線が突き刺さった。あぅ、そんなに見ないでくれ。大した間柄じゃないんだよ……。
広田さんに促されて、亮さんは先ほど広田さんがかけていた場所に腰を下ろした。つられて全員ソファに座り直す。
「啓一郎くん、亮くんと元々知り合いなんだろう?」
「あ、いえ、いや、その」
言葉に詰まっていると、広田さんはどう受け止めたのか、亮さんの肩を軽く叩いた。
「だったら、僕はちょっと席を外そう。その方がいろいろ話せるだろう」
そのまま、事務室へ続くドアに手をかける。一度足を止めて、冗談ぽく亮さんを振り返った。
「僕の悪口をいろいろ吹き込むと良いよ、亮くん」
「まさか」
笑いながら広田さんが姿を消すと、亮さんが苦笑する。
「とか突然言われても、君らも困るよね。俺も困っちゃうけど」
そう言って亮さんは、人懐こい笑顔を浮かべた。ステージの上からは想像もつかない柔和で気さくな雰囲気で、人に安心感を与える。
「別に、ウチに所属するとか決まったわけじゃないんだって?」
「はい」
「何か聞きたいこととかあれば、せっかくだから、答えられる範囲で答えるよ。じゃなきゃ、俺勝手にプライベートトークとか始めちゃうけど」
沈黙が訪れた。そりゃそうだろう。何聞けってんだよ。
「うーん。じゃあ、事務所決めに少しでも参考になりそうなことを話そうか。俺も偉そうにあれこれ言える立場じゃないけどさ」
訪れた沈黙を処理しようとしてくれているのか、亮さんが口を開く。
「所属する事務所によって、いろんなことが大きく変わるのは確かだと思うよ」
顔を上げると、亮さんは真面目な表情で続けた。
「こういう仕事だから、時期とかタイミングだとかって問題はいろいろある。だけど、支えてんのって人なんだよ。これ、綺麗ごとじゃなくて本当」
その言葉は、どこか重い。
今までいろいろなことがあっただろうけど、それを越えて今の場所に立っている……本当の意味での先輩の言葉に俺たちは黙って耳を傾けた。
「自分たちだけじゃ形に出来ないたくさんのことがある。それを、共感して支えようと本気で思ってくれる人たちがいる。それで、ようやく俺たちの仕事は成り立つんだ。こういう業界って、ファンだけじゃなくて、一緒に仕事をしてくれる人たちの気持ちがないと全く成り立たないんだよ。馬鹿みたいな残業とか、無茶な要求とか、『でもやってあげたい』って形にしようと努力をしてくれる人がいるから出来上がる。……少なくとも俺はね、Blowin'はスタッフに恵まれたと思ってる」
好きじゃなきゃやってけない――良く聞くことではあるけれど、亮さんの言葉は実感を伴って聞こえた。
「ビジネスだから、もしかすると時には衝突もするだろうし、納得がいかないこともあると思う。だけど、言うべきことはちゃんと伝えれば良い。叱られたら、その意味をちゃんと受け止める。こういうのは人それぞれとしか言えないから、あくまで俺の話しか出来ないけど、どこでやるにしても人間関係が一番大事。ライブもレコーディングもイベントも雑誌も、あらゆる全てが、それなくしては良いものは作れない。そして俺は今、少なくともブレインではそれが出来てるとは思ってる」
「広田さんとぶつかったりしたこと、あるんですか」
素朴な疑問、と言う感じで和希が尋ねる。亮さんが苦笑いを浮かべた。
「あるよ。人だからね」
ふうん。穏やかそうに見える広田さんが怒るところと言うのが、今の俺には想像出来ない。
「別に俺は、君らがどこの事務所に所属するかは君らが決めることだと思うし、ブレインをイチオシするつもりは全然ないけど……ああ、でも、他の比べてここはメリットって言える点が一つあるな」
「え?」
「ここ、スタジオを内蔵してるんだよね。自社アーティスト向けに。俺らも今、そこで作業してるからこうして事務所にいるわけだけど」
その説明は、俺たちも先ほど広田さんからちらりと聞いた。
この自社ビル内に、リハスタ、レコスタ合わせて五つのスタジオがあるんだそうだ。開放して収益を得ているわけではなくて自社アーティストだけが使用してるって話だから凄い。
広田さん曰く、CRYがおっそろしくスタジオ代のかかるバンドであるってのがそもそもの発端らしいんだけど。何せ、俺も持っているあるアルバムについては一億近い費用がかかったとか何とか……。
んで、経費を削減する為に思い切ってスタジオを作ったらしいんだけど、残念ながらCRYはここのスタジオをほとんど使ってくれないんだそうだ。
「プロダクションが自社アーティスト専用にスタジオ持ってるとこってのが、そうそうあるわけじゃないから。その辺はメリットだったりするよね。やっぱり」
亮さんがそう軽く肩を竦めたところで、がちゃりと事務室側のドアが開く。広田さんがそろっと顔を覗かせた。
「どうかな? 僕、入っても平気?」
亮さんが笑う。
「今、いろいろ吹き込んでいたところですよ」
「まずいなぁ」
笑いながら広田さんが入って来ると、亮さんが入れ替わるように立ち上がった。
「じゃあ俺、これで」
「うん。レコーディング中に悪いね」
「いえ。どうせ今は彗介が録ってるとこだし」
先ほど亮さんが言っていた作業ってのは、どうやらレコーディングらしい。
「出来上がりを楽しみにしてるよ。頑張って」
「はい。じゃあ……」
亮さんは広田さんに軽く会釈をすると、俺たちに微笑みを残して応接室を出て行った。
途端、全員「はああ……」と肩の力を抜く。広田さんがそれを見て爆笑した。
「亮くんって怖い人じゃないでしょ?」
「そ、それはそうなんですけど……」
やっぱり緊張するじゃないか。一応。
何だか疲れた俺たちを見回して、広田さんは空いたソファに腰を下ろした。テーブルの上の資料を纏めて、封筒に丁寧に入れる。
「さて。今日はそんなところかな。聞きたいこととかあったらどうぞ」
「今のところは、大丈夫です。また何かあったら、質問させて頂きます」
和希が背筋を伸ばしてきちんと言うと、「うん」と広田さんは封筒を和希に差し出した。
「じゃあ行こうか」
応接室を出て、ロビーを通り過ぎる。そこで足を止めた広田さんは、階段の方を示して説明した。
「元々は、二階にレコスタとリハスタがそれぞれ一つずつしかなかったんだ。去年増設して、三階にレコスタを一つとリハスタをニつ、増やしたんだよ。もしウチに所属することが決まれば、そのスタジオは自由に使える。まあ、そうなったら一度見学したら良い。案内するよ」
それから、広田さんは改めて俺らに向き直った。
「そちらで何かなければ、今日はこれで」
「はい。ありがとうございました」
「ともかくもまずは音源だな。早急に……そうだな、来週の末までにリアレンジして持ってきてもらえるかな」
来週の末までにリアレンジして録音?
すみません、今日で今週終わりなんですけど。
「わかりました」
和希が答える。それぞれ「ありがとうございました」と口にして頭を下げると、俺たちは事務所の外へ出た。かなり良い天気で、眩しい太陽が目に沁みる。
「うあーっ。またリアレンジかああー」
「何はさておき、それだけは急いで何とかしないとな。今からやるか」
和希もさすがに、溜め息混じりで額に手を当てた。ちらりと和希を見る。目が合った。
決めたのは俺らだから。やるってさ。
だから。
五段ほどの低い階段を軽快に降りながら、俺は和希を振り仰いで答えた。
「やるっきゃないっしょ」
◆ ◇ ◆
とにかく時間がないので、ひたすらスタジオに籠もりまくる羽目になっている。
幸い、クロスの場合はスタジオの空き時間なんかには困らない。
おかげで「スタジオに入れないから」などと言う言い訳もきかず、俺なんかはバイトを削るわけにはいかないし、和希や武人も学校に行かないわけにはいかないしと言うことで、涙が出そうな忙しさだった。
スタジオに入り、深夜バイトに出て明け方帰ると、ニ時間くらい寝てまたスタジオに籠もるという生活が続いている。
全員の時間が合うわけではないから、とにかく集まったメンバーでアレンジを進め、いなかったメンバーに聞かせて、またアレンジ。ひたすらそれの繰り返し。
ただでさえ散々もめたアレンジを、更にアレンジするとあって、かなり難航していた。
とは言っても、最低明日には録音に入らないと厳しいことになる。明日録音に入れなければ、明後日と明々後日は徹夜の勢いだろう。一応その危険性も考えて、今週末はバイトを入れていない。
そんなわけで、今日もニ時間しか寝ていない俺は、欠伸をしながら寝不足の顔でスタジオに来ていた。扉に手をかけ、薄く開いていることに気付く。中から音が漏れていた。……ピアノ。
元々美保の為に作られているこのスタジオには、グランドピアノが置いてある。造り自体も、アコースティックの響きが美しいような設計になっているはずだった。
そっと中を覗いてみると、ピアノを弾いているのはやっぱり美保だった。俺に気付かず、真剣な顔でピアノを弾いている。
繊細なメロディ――『Crystal Moon』。
やっぱ美保って、お嬢様なんだな。普段の開けっ広げでセクハラせ節操ナシの遊び人とは思えない、気品。ピアノの音色が、繊細で傷つき易い美保の姿を語る。
一心でピアノを弾き続ける美保は、ドアのところに立った俺には気がつかないようだ。俺も、静かにそこに佇んでいた。やがて弾き終えた美保が顔を上げる。
「なななな何っ? 来たなら声かけてよ」
バレた。
「はよ」
ポケットに両手を突っ込んだまま、肩でドアを押し広げながら中に入る。
「何か邪魔したら悪そうだったから」
「邪魔って何のさ」
「……本当に、やめるの?」
妙にあたふたする美保に構わず、俺は美保の傍に近付いた。すとんとピアノの脇で、床に座り込む。そのまま、美保を見上げた。
「けーいーちゃん。しつこいのと長いのは女に嫌われるよ」
このセクハラ女。
「俺、別にしつこくないもん」
「早いの?」
美保の座る椅子に、座ったままがつっと蹴りを入れる。けたけたと美保が笑った。その顔を、真面目に見上げる。
「クロスにいるのがつらいってさ、美保、何かあったの?」
それだけが、とにかく心配だ。俺たちの誰かが、美保に嫌な思いをさせていたのかもしれない。そう思うと、気にならずにはいられない。
俺の真っ直ぐな視線に、美保は沈黙したまま目を逸らした。
「何も、ないよ」
「じゃあつらいって、どうして?」
「……」
「言いたくなければ、まあ……無理に、とは言わないけど」
美保が両手を鍵盤の端にかけて、天井を振り仰いだ。短い髪の毛がさらっと下に垂れる。
「あたしは女だから、夢とか仕事とか、そういうものじゃないものに振り回されたりもするわ。……なつみみたいにね」
『なつみみたいに』?
その言葉の意味に気がついて、無言で目を見開く。
……恋愛?
メンバーの中の誰かのことが好き、とか? ……まさか。
「いろんなこと、踏ん切りつけなきゃ。だけどあたし、クロスにいたら出来ない。……ちょっと疲れちゃった。何かあったってわけじゃないし、嫌いな人がいるとかそういうわけじゃ全然ないんだけど」
そうため息をつく美保は、どこか遠くを見ているように見えた。
いつもは見せない、どこか大人びた、諦めにも似た色が滲んで見える。
「いろんなこと、間近で見てると疲れちゃって。ちょっとしんどくなっちゃった」
和希、かな。
俯いた考える俺には、美保が切ない光を宿した瞳で俺を見ていることにはまったく気がつかなかった。俺の意識の中では、自動的に俺を対象から削除している。
「このままでいたかったのかもしれない。だけど、そういうわけにもいかない。結婚しなきゃいけないし、だったらあたしも変わらなきゃいけない。……こうやって少しずつ、いろんなことが変わってくんだね」
「美保」
「あたしはあたしの生き方があるから」
「うん……」
「それだけだよ。……こだわってくれて嬉しかった。ありがとう。ごめんね」
「や。俺こそ、引き止めてごめん。……わかった」
俺も、無理して笑顔を作った。
美保がもう決めたことだとわかってる。
それが美保にとって一番良いと言うのなら、もうそれを受け入れるしかないんだろう。
俺も美保も、それきり黙った。美保が、鍵盤を軽く弾く。
ポーンと心に響く音色に耳を傾けてぼんやりとしていると、やがて足音が外から近付いてきた。誰かが来たらしい。
顔を振り向けると、和希がちょうど入ってくるところだった。
「はよ」
続いて一矢も姿を現す。武人は当然のことながら学校なので、授業が終わった後に来るだろう。
「さー、始めようかー。いいかげん、今日当たりで決着つけたいんですけどねえ……」
置きっ放しのギターケースからギターとチューナーを取り出して、和希がチューニングを始める。一矢も、欠伸をしながらドラムセットのセッティングに入った。
「昨日、結局何時まで?」
「三時」
「……お疲れ」
「そっちこそ。今日も五時までバイトだったんだろ」
「もちろんですわー。和希、学校は?」
「今日は六限の授業だけ。多分武人と入れ違いで一度抜けて、それだけ受けてくる」
美保がピアノの鍵盤を閉める。俺も立ち上がって和希たちの方へ行った。
気持ちを切り替えよう。
ともかくも、今やらなきゃならないことは、地獄のリアレンジだ。
「昨日一発録りしたの、聞いてて。啓一郎」
「はーい」
和希に言われて、スタジオに置きっ放しになっているMTRにのそのそと近付く。その日のアレンジ作業が終了する度、MTRで最後に一発録りしているのだ。翌日はそれの再生から始まってアレンジに取り掛かっている。
このMTRは、パソコンを使ってレコーディングするようになる前に使っていたものだ。音とか全然クリアに録れるし使い勝手も良いんだけど、パソコンとは使用出来るch数の桁が圧倒的に違うので、普段はパソコンへのADコンバータ(アナログからデジタルへの変換)的な役割を担わされ、たまにこういう試験的なお手軽レコーディングの時だけ真っ当な使い方をされている。
データを呼び出して再生すると、MTRを繋げたコンポのスピーカから音が流れ出した。
「やっぱここ、絶対駄目だって。絶対単調なんだよ。インパクト出るはずなのに消えてるんだよ」
「んじゃどうするんだよ、これ以上。俺、無駄におかずとか付けんの、大反対だよ」
「そうじゃなくて違うやり方があるでしょ? 音色変えるとか、弾き方変えるとか」
「もうこれ以上どうしていいのかわかんねえよ……」
ずるずるとアレンジ作業に突入し、進んだかと思えばまたぶつかるのを今日も飽きることなく繰り返し。
武人が来て和希が学校へ行き、戻って来てしばらくしたら今度は俺がバイトへと姿を消し。
……結局アレンジは今日も終了することが出来なかった。
◆ ◇ ◆
「宜しくお願いします……」
あの日アレンジが終了出来なかったと言うことは、俺の予想通り録音作業は徹夜になった。
メンバー全員、ほとんど睡眠をとることが出来ず、何とか録音を終えたその週の日曜。
録音を終えたその足でブレインに向かい、いやに爽やかな広田さんに音源を渡して頭を下げた。
「いやに疲労してるけど、大丈夫?」
あんたが滅茶苦茶言うからでしょー?
……とは言えずに、乾いた笑いを浮かべる。
「ちょっと聴かせてもらっても良いかな。……あ、どうぞ」
促されて事務室に入る。事務室の中はそれほど広くはなく、デスクがいくつかあって、今はそのどれもが無人だった。この前の山根さんの姿もない。
少し離れた一番奥に、壁際を背にして広田さんのデスクがぽつっと置いてある。本棚や棚が要塞のように置かれていて、真ん中ら辺の棚に小型だけど高そうなコンポが置かれていた。
それに音源を入れて、広田さんが再生ボタンを押す。その瞬間、俺の心臓はばくばくだった。流れ出した音は、もう聞きたくないほど聞きまくった俺らの曲だ。広田さんは、スピーカのLRのちょうど中心点に来るような位置で腕を組んで無言のまま聴いていた。
き、緊張する。