第7話(1)
自分が自分の恋愛感情に手一杯でいる間、俺は美冴ちゃんのことを知らないで傷つけていたんだろうか。
気がつかない間に俺を見てくれている人がいたということは、少なからず俺の心に動揺を誘った。
あゆなと違うところは、あゆなは俺にとって身近過ぎる存在で、急いで何かの答えを出さなくてもいーだろうと言う甘えが俺の方にある。あゆなに言ったら正拳でも食らいそうだが、正直な本音。って言うか、実感が未だない。俺のことを良く知っているから、とりあえず今のままでいーんだろうと思ってしまう。
だけど、美冴ちゃんはそれではいけない気がしてしまう。逆に言えば、俺にとってそれほど身近な存在ではないがゆえに、何とか白黒つけた答えをしなきゃなんないんじゃないかって気がする。
それに。
(結構、ショック、だなあ……)
由梨亜ちゃんのことも、俺は知らずに苦しめていたんじゃないのかな。
彼女にとって見れば、親友の好きな相手に好かれていたってことになる。
俺があの日勢いで告ってしまったことは、俺が思う以上に彼女を苦しめたんじゃないだろうか。
迷惑になるだけの想いだったら、ない方が、いいじゃん……。
これで美冴ちゃんが振られたら、由梨亜ちゃんは自分が原因だと苦しむんだろうか。だけど、どんなに考えても、美冴ちゃんと付き合うとかって答えは俺には出せそうにない。それは無理だよ……。
ない脳味噌を振り絞っていろんなことを考えて、結局感情が由梨亜ちゃんに戻る。だけど美冴ちゃんが俺を想ってくれているという事実を知れば、もう手を貸してやりたいとか思うことさえ由梨亜ちゃんを悩ませるような気がする。
感情と、状況から来る正しい結論との折り合いがつけられない。
由梨亜ちゃんと上手くいくことはないとわかっているにせよ、さっさと消せる気持ちならとっくに消しているわけで、だったらゆっくり落ち着くのを待てば良いと思っていたものの、俺が彼女を想うこと自体が彼女を苦しめるんじゃないかと思うと息苦しくなる。
結論が出ないことを考えては面倒になって投げ出し、だけど気がつけばまた同じことを考えてしまう。
恋愛ってホント、厄介だなあ、もう……。
先日俺は美冴ちゃんの気持ちを聞くだけ聞いて何一つ答えていないから、それについては何らかの言葉を伝えなきゃなんないんだろな。でも、何言えばいーんだろな。
(ってか、どうすりゃいんだろ? 電話でもかければいいのかな……)
朝の五時過ぎ。
眠い目を擦りながら、俺は朦朧とそんなことを考えつつ渋谷の駅前を歩いていた。深夜バイト明けで非常に眠い。
十一月にもなれば、吐く息は真っ白だ。こんな早朝では、さすがに人気が少ない。渋谷や新宿で最も人気のない時間帯だよな、多分。
水商売らしき女性が信号待ちしているのが見える。彼女らも俺と同じく仕事明けで、これから帰って眠るんだろう。
そう言や、恵理が風俗の仕事をしていたとか言ってたな。仕事そのものについては賛否両論分かれるところかもしれないが、そんでもって自分の彼女がやってたりしたら俺は喜べないが、でも……人生観は変わるのかもしれないな。そういう、人の本質に触れるような仕事なんてしてると。
以前のギスギスしていた恵理を思い浮かべると、随分変わったんじゃないかなと言う気がする。どこか達観したと言うか。
一矢に拒絶されても拒絶されても、へこたれずにそれはそれと、自分の感情と一矢の感情は別だと開き直っていられるのは、強さにも見えた。凄ぇな、ちょっと。俺にはまだ、そうはなれそうにない。俺が好きなら相手にも好きでいて欲しいし、それに振り回されもする。相手がどうだろうが自分はこう、と言うふうに割り切れない。
恵理とはあれっきりになっているけど、あの後どうしたんだろうな……今度一矢に聞いてみよう……。
いよいよ睡魔に襲われて霞んできた頭に渇を入れようと、俺はぶるぶると顔を横に振った。いかんいかん。これから単車を運転して帰るんだぞ。寝てどうする。
単車を停めた駐車場の方へ道を折れながら、俺はぺしぺしと自分の頬を打って携帯電話を取り出した。深い意味はなかったけど、何気なく視線を落として不在着信表示を発見する。操作をすると和希の名前が表示された。時間は、昨夜の二十三時半だ。ちょうどバイトに入って間もなくくらい。
(何かあったっけ……)
何か用事があっただろうかと、ぼんやり考える。
明後日スタジオに入る予定だけど、都合が悪くなったとか? それとも来週のライブのことかなあ。
念の為留守電をチェックすると、一件登録があった。再生する。
「あ、和希だけど……えーと、バイトかな。……例の、件、で。えー……俺なりに、あれからいろいろ考えました」
例の件。
(うわああああ)
例の件かっ。
メッセージを聞いて、途端に俺の眠気は一気に吹き飛んだ。心臓が早鐘のように鳴り出す。
「それについて話したいから、時間ある時に連絡もらえると助かる。出来れば明後日のスタジオの前に、啓一郎には話しておきたいんで……よろしく。じゃあ」
ぷつっ……。
(結論、出たんだ)
明け方の渋谷の路上で、思わず携帯を見つめて佇んでしまった。
このメッセージではどちらに結論を出したのか、俺には判断がつかない。
咄嗟に、すぐにコールバックしようとして、思い留まった。五時半は、ちとまずいか。和希は俺と違って学校もあるんだし、自分が起きてるからと言って他人も起きているとは限らない。と言うか、普通は寝てる。
気になり過ぎて今すぐ聞きたいのはやまやまだけど、ここは堪えて先送りにするか。仕方ない。一旦家に帰って寝て、起きてから……。
そう思って携帯を閉じかけた俺の手の中で、電話が振動した。どきっとしてディスプレイに視線を落とすと、期待通り和希の名前が表示されている。
「はははい」
焦った余り、どもりながら電話に出ると、受話器の向こうから和希の低い笑い声が聞こえてきた。
「おはよ。何どもってんの、お前」
「や、だだって、今ちょうど和希の留守電聞いたばっかでさ。かけ直そうとか思って、今かけちゃまずいかとか思い直してたところだから、ビビった」
「ビビるなよ。何だよそれ」
「そんで、どうすんのさ。ってか何してたの? 起きてたの?」
矢継ぎ早に尋ねる俺に、まだ笑いを残した和希の声が答える。
「うん。起きてた。今日締め切りのレポートがあって。今さっき終わって寝ようかと思ったら、ちょうど啓一郎のバイト終わりくらいかなって気がついて」
ナイスな読みだ。
「で、どうするって?」
少しだけ緊張する。声を改めて尋ねる俺に、和希が小さく「うん……」と頷くのが聞こえた。
「俺、もう何も言わない。お前が決めたことをちゃんと受け入れる」
半分、自分自身に言い聞かせるつもりで先に口を開く。
俺の意志は伝えたんだ。それを踏まえた上で和希が決めたことなら、もう俺には何も言う権利はない。和希のことは和希が決めることだ。
胸の内でもそう自分に言い聞かせ、和希の結論を聞く覚悟を決める。和希が、低い声で訥々と話し始めた。
「俺ね、啓一郎の言ってたことを考えながら、またいろいろ自分で考えてて」
「うん」
「お前も知ってるとは思うけど、俺は自分より他人の気持ちを尊重出来るならしたいと思っちゃうところがあるんだよ。多分」
「うん」
「そうやって言えばちょっと聞こえはいいけど、結局のところは自己犠牲と言う名の欺瞞ってのかな。それが一番楽なんだろうな。きっと」
そうかな。俺にはわからん。自己を犠牲にするくらいなら他人を犠牲にするとまでは言わんが、出来る限り俺は犠牲になりたくない人なので。
「裏切るのも、踏み躙るのも、心苦しいでしょ? 普通に。だから、その心苦しさに耐えるよりは、自分が諦めちゃった方が楽なのかもしれない。何だか、そんなことを考えた」
「……それって」
「だけど」
自己を犠牲にすることを選んだ、と続きそうな気がして焦る俺に、和希が遮るように続ける。
「親父たちが、俺がこうしていろいろ考えていることを知らないでいるのも、何か違うなって気がした。俺だけが黙って決めて自分の本音から目を背けて、それこそ本当の自己満足かなって。だって、俺は、俺が気にかけているはずの誰も意見を聞いていないんだ」
「……」
「俺はやっぱり、本心では音楽を続けたい。叶うはずがないと言われても、馬鹿にされるとしても、やっぱり、やりたいものはやりたい。……まず、それが俺の本心と向き合った俺の結論」
足を止めて、俺は目を見開いた。それは……その言葉の意味は。
「じゃあ」
「うん。……ごめん。やっぱり、続けさせて欲しい」
「…………………………よ」
かったああああああああああ。
「……『よ』?」
「や、『良かった』。続きを心の中で言っちゃった」
俺の言葉に、和希が吹き出した。つかえていたものが取れたような、どこかすっきりした晴れやかな笑い声に聞こえる。
それから和希は、笑いを飲み込んで、真面目な口調で言葉を続けた。
「でも、俺の中で結論を出しただけで、俺はまだ親父には何も伝えてない。だから腹割って話すのはこれからになるけど、俺が思っていることも、どうするつもりなのかも、そしてどうして欲しいのかも、全部話し合ってみる。迷った末に俺が出した結論も」
「平気なの?」
「さあ。平気かどうかはわからない。でも俺はもう変えられない本心から目を背けるつもりはないから、謝るしかない。だけど、わかってくれるような気もする。だって良く考えたら、自分のやりたいことを貫こうとして勘当された親父だよ?」
その言葉を聞いて、今度は俺が吹き出した。確かに。
「血は争えないってこと?」
「結果としてそうなっちゃうな」
くすくすと二人してひとしきり笑う。その笑いが途切れた時、和希がぽつんと言った。
「心配かけて、ごめん。でも、もう迷わないから。失敗しても、挫けても、俺、後悔しないと思う」
「うん……」
「目一杯悩んで、自分で決めたことだから」
やべえ。腰抜けちゃいそう、俺。安堵の余り。
俺にとっては譲れない夢と、かけがえのない仲間だから、どうしても失うのは嫌だった。
それを失わずに済んだことが、本当に本当に嬉しかった。
「だから、これからもよろしく」
「……こちらこそ」
和希がその曲を引っ張り出してきたのは、それからニ日後のことだった。
スタジオに行くと、相変わらず一番乗りの和希が、打ち込んだ曲を焼いたCD-Rをくるんと人差し指にはめて回した。
「昔作ってさ、なし崩しにあまりやらなかった曲があるじゃん」
「何だっけ」
尋ねると、和希は覚えていない俺に苦笑いをしながら、Crystal Moon、と言った。
「ああ」
クロスを結成したばかりの頃、初めてこのメンバーで作った曲だ。最初の頃に数回しか演ったことがない。好きだったんだけどね、結構。
でも、バラードで盛り上げ系の曲じゃなかったから、勢いで押せ押せだった当時は何となくチョイスすることが減って、バラードとかもバンバンやるようになってからは、その曲の存在を忘れていた。
「あれがどうしたの?」
「作り直してみた。何か、気持ちを改めようって言うか……もう一度、バンドを始めた頃のことを思い出したりして」
ちょっと照れ臭そうに言いながら、和希が視線を泳がせて頬を掻く。
「慣れてくと、忘れてくんだな」
「何を? 曲を?」
「じゃなくて。いろんな気持ち。希望とか期待とか、いろんな夢を持って始めたわけじゃん。しょせん衣食住に関係ない音楽ごときって言ったって、そこに何かの可能性があると勝手に思って、熱くなって、楽しくって、むきになって」
『Crystal Moon』――タイトルをつけたのは俺だけど、『虚構の月』的な意味がある。
空に輝く本物の月……決して手に届かない憧れを手に入れたくて、もがいて、自分の手で作り上げる月。
それはニセモノかもしれない。
だけど、手にしたくて自分で作り上げるそれに、意味がないわけじゃない。
本物には勝てない? そんなことはないだろう。憧れを形にして自分で手にするそれは、本物とは違う自分だけの特別な輝きがあるはずだ。
世界にたった一つの、自分だけの夢。
「そういうの、忘れないように」
和希がCD-Rを再生すると、スピーカから繊細なピアノの音が流れて来た。
壊れそうに細いメロディライン、だけど曲が進むに連れて、次第に静かな強さが引き出されていく。
強さと弱さ。儚さと激しさ。相反する二つのものが絡み合って、心が熱を帯びていく。
「みんなで、もう一度形にしようよ」
――俺たちの夢を。
◆ ◇ ◆
アマチュアバンドにとって、ワンマンライブなんてそうそう出来るものじゃない。
そりゃあキャパにも寄るけれど、一年に一回やるんだってしんどい話だ。
そんな夢のワンマンライブが、クロスは本日で三回目になる。本当に一年に一回出来るかどうか。小さなライブハウスで、友達をかき集めて何とか成立。
いつか……いつか、俺たちの音に共感を覚えてくれる人が増えていったら。
少しずつ、少しずつ、認めてくれる人が増えたら。
「……バンド、やってて」
最後からニ曲目の、最近定番になってきた『KICK BACK!』を終えて、荒く息をつく。
マイクに向かって――暗い人の波に向かって、俺は淡々と語りかけた。
「楽しいことばっかりじゃないなって思うことも、少なくない。悩んだり、迷ったり、つまんねえことで喧嘩して殴りあったり」
ちらっと和希を見ると、くすくすと俯いて笑っていた。俺と和希の顔の傷は、今ではもう目立たないくらいには治っている。
「青春でしょ?」
ちらっと笑うと、お客さんもくすくすと笑ってくれる。
「うまくいくことの方が多分少なくて、何むきになってんだよって……何熱くなってんだよって言われたりもするわけで。……でもさ」
大人って、何だろう?
誰もが、かつては何かを夢見ていた時代があったはずなのに、年齢を重ねていくに連れてそれを鼻であしらうようになる。
どうしてだろう?
だけど俺には、そうして鼻であしらう人は、みんな退屈をしているように見える。
『叶わねえよ』『熱くなってどーすんだよ』『わかんねー』……そうして『何か楽しいことないかな』。
それって大人? こんなふうに思う俺はガキ?
難しいことは俺には良くわかんないけど、大人でもガキでも何でもいーけど、楽しくやりてえじゃん? 馬鹿にされても、つまんねえの、やだもん。
「やりたいこと、やりたいじゃん?」
それが難しいんだろう。でも、やめたら『難しい』と思うことさえなくなってしまう。
「年食って、いろんなことわかってきて、出来ること出来ないこと自分で制限してって……でもやめらんないこととかもあって。俺はそれが音楽だから、誰も認めてくんなくてもやりてぇなあって思っちゃってて……そういう気持ち、忘れんのが、嫌です」
いつか俺の気持ちが迷子になりそうな時に、今のこういう気持ち、思い出せるように。
「だから、この曲を作りました。初めてこのメンバーで作った曲を作り直して、この先の未来にも今の自分たちを思い出せるように。――最後の曲です。聴いて下さい」
タイトルコールに静かに潜り込むように、美保のキーボードが入り込んできた。
あれから散々アレンジでもめて、苦労して苦労して話し合って作った曲。
誰かの声に呼ばれたような気がして 立ち止まり振り返る
人にあふれる街の片隅 自分の存在はあまりにも儚く感じた
自分の存在の意味がわからなくて 不安定な自分を確かめていたくて
誰かに認めて欲しいと 多分誰もが思ってる
掴んだはずの絆 見つけたはずの夢
誰より自分が嘲笑う
届くように手を伸ばした月の光は いつも僕の指の隙間を滑り落ちて
ねえ 願うことは罪なのかな
行き場のない望みを持て余して 届くことのない憧れと諦めるの?
もがいて 泣いて 手のひらの中の小さなCrystal Moon
握り締めて 抱き締めて 自分だけの本物に変えてみようよ
いつか、手が届く日が来るだろうか。
手が届いた時、そこには何があるんだろう。
その時何を失っているんだろう。
今はまだ夢の途中……いや、途中とさえ言えないから、俺にはそこが眩しく輝いて見える。
だけど、俺もまた、今のこんな俺の気持ちを嘲笑うんだろうか? 鼻であしらうようになるんだろうか?
もしもそうやって夢が迷子になったとしても……。
「……ありがとうございました」
もう一度、この気持ちに戻ることが出来るように。