第6話(3)
和希自身は、本当にそれで良いのか?
そりゃあ、大切な誰かを精一杯大事にしようと思えば、自分自身を殺すことだってあるさ。自分の望みが誰かの望みと重なるとは限らない。その時に人は、どちらかを選択しなければならなくなるだろうし、相手を尊重しなきゃならないこともある。
でも。
本当にどうしても譲れないものってのだって、あるだろう?
それとも、譲れるから……譲れる程度の気持ちだってことか?
本当にそうなのか?
今はそう思っているから、そういう選択をしようとしているのかもしれない。だけどそれは、間違っていないと言えるのか?
俺には、和希が何より音楽を好きだと思える。俺自身が和希にクロスを抜けて欲しくないと言うことは一旦置いておいて、和希自身が本当は譲れないほど大切なことだと思っているように思える。
「良くはないのかもしれない。だけど、そう決めようと思っ……」
「和希が親父さんのしてくれたこととか、気持ちとか、そういうのに感謝して応えたいって気持ちが軽いものだと思ってるわけじゃない。だけど、前提としてそれがそこにあったにも関わらずやりたいって思うようになった音楽ってのは、和希にとってそれ以上の重さがあるってことなんじゃないのか?」
「……」
「和希が大切にしてきたものより、更に重いもの。それって、見過ごして良いものじゃないんじゃないのか?」
「……」
「『俺だって続けたい』――さっき、そう言ってたじゃないか。それが本音だろう? 余計なこと一切考えずに自分に問い掛けた時、浮かび上がってくる本音がそれなんだろう?」
「……そうだよ。だけど、余計なことを考えることの方が重要なことだってあるだろ」
「ないよ。和希が何を大切に思っているのか、それ以上に重要なことなんて、本当はない」
和希にとっての音楽の重さ。一番考えなきゃいけないのは、それなんじゃないかと思う。
誰の為にではなく。
和希自身の為に。
「やめないで欲しいと言うのは、あくまで俺の我侭だから」
確かに人生は自分だけのものじゃない。
でも、他人の為のものでもない。
自分だけのものでもないけど、だからって誰かが責任を負ってくれるわけじゃないから。責任を負うのは他の誰でもない、自分自身なんだから。
「それはもちろん考慮して欲しいけど、しなくて良いけど」
どっちなんだよ、と和希が苦笑した。
「でもそういうのいっさい全部置いといて、お前がどうしたいのか、もう一度自分の為に考えるべきだと思う、俺」
いつか、いろんなしがらみや鎖が色あせた時に自分の手元に残るだろう何か。
それが後悔ではあって欲しくない。
そう思う気持ちが伝わるように、俺は真剣に繰り返した。
「お前自身の為に、もう一度考えて。――お前にとって一番譲れないものって、何なのか」
◆ ◇ ◆
恋愛だとか、バンドだとか、俺の生活の中でそれなりの重さを占める部分が激震しているとしても、金だけはせこせこと稼がなきゃならない。
悩もうがオチようが、ともかくもバイトだけは地道に続けなきゃなんなかったりする。
そんなわけでバイトのあるその日、楽器屋と中古CDショップをハシゴするつもりで家を早めに出た俺は、渋谷センター街をふらついていた。お値打ち品のCDを入手して機嫌良く駅方向へと足を向ける。
(腹減ってきたなー)
何か食ってこうかな。
そう思って、美冴ちゃんがバイトをするハンバーガーショップがすぐそこにあることを思い出した。
(いるのかな?)
時刻は十九時半になろうとしている。まだいるのかな。この前、何時頃まで働いてるとか聞いた気もするけど、ぶっちゃけ覚えてない。ま、別にいなきゃいないで、それでもハンバーガーが逃げるわけじゃないからいーんだけど。
そう思いながら中を軽く覗くと、カウンターの中には女の子が三人立っていた。その内の一人が美冴ちゃんだ。
「いらっしゃいませ……あ。こんにちわっ」
美冴ちゃんのいるレジを選んで近づくと、俺を認めて笑顔になる。
「頑張ってハンバーガー売ってる?」
「あは。一応のところは。どうしたんですか? 今日は」
美冴ちゃんの声を聞きながら、カウンターに置かれているメニューに目を落とす。何にしようかな。こうして食いもんを見ると、何だか段々腹が減っているような気になってくる。
「この後バイトで。少し買い物してから行こうと思ってさ、早めに出て来たから。美冴ちゃんいるかなって思い出して。……チリドッグセットにしようっと」
「お飲み物は?」
「ホット」
「かしこまりましたー。少々お待ち下さい」
美冴ちゃんが用意している間、財布を取り出して待つ。会計を済ませると、美冴ちゃんが笑顔で言った。
「うふふ。思い出して来てくれたの嬉しいな」
え?
「そう?」
顔を上げると、美冴ちゃんは本当に嬉しそうに、ほころんだ顔を微かに紅潮させた。
「そりゃ……クロスのファンですから」
トレイを片手にニ階に上がり、席を探す。窓際のカウンターテーブルに落ち着いて上着を脱ぐと、煙草に火をつけた。土曜日のせいか、この前より店は混んでいるようだ。
嬉しそうな美冴ちゃんの顔を思い出して、何となく俺も小さく口元だけで微笑んだ。
俺個人にどうこうってわけじゃなくても、ああして好意を示されれば少なくとも嫌ではないし、クロスに対する好意が俺に及んでいるだけでもそれはやはり嬉しい。へっへー、バンドやってて良かったな。普通だったらきっと縁がなかっただろう人たちと、こうして繋がりあっていく。
煙草を吸い終えてチリドッグを片付け、ポテトに指を伸ばしたところで、空いていた俺の隣にトレイが置かれた。顔を上げると美冴ちゃんだった。
「ここ、良いですか?」
「もちろん。終わったの?」
「はい」
「おつかれ」
言って、美冴ちゃんの為に少しトレイをずらす。美冴ちゃんが隣に座り、チーズバーガーの包みに手を伸ばしながら首を傾げた。
「啓一郎さん、バイト今から?」
「今日は二十二時から」
本当は深夜枠は二十三時からなんですけどね。人手が足りないと、時折こうして少し早めに出させられたりする。別に、その分稼げるわけだからいーんだけど。
「えー。遅いー。何やってるんですか」
俺の答えに、美冴ちゃんは目を丸くしながらハンバーガーにかじりついた。女の子が食べるのが遅いのは、やっぱ口がちっちゃいからなんだろーか。一度に口に入れる量が少ないんだよな、要するに。別に余計なお世話ってわかってますけど。
「居酒屋。渋谷の駅前で」
「へえー」
「美保の親父が経営してんだよ」
何気なく言うと美冴ちゃんは「えっ?」と俺を凝視した。あれ? 知らなかったんだっけ。
「そうなんですか?」
「そう。ヤママサって言うさ、大手の飲食企業あるじゃん」
「ええ。CMとかやってますよね」
「そうそう。今って高倉美悠がやってんだっけ。あれ、可愛いよね」
「ええ。……そのヤママサ?」
「うん。あれ、美保と美姫の親父の会社」
うあああ、と意味不明な呻き声を美冴ちゃんが上げた。
「じゃあ、美保さんとか美姫ちゃんと知り合ったのって……」
「そう。バイトがきっかけ」
そーなんだあー、と妙に感慨深げに頷いて、美冴ちゃんは再びチーズバーガーにかじりついた。
それから、少し沈黙した後、ぽつんと尋ねた。
「……和希さんとは、どうですか?」
「へ?」
一瞬問われている意味がわからず、口にポテトを放り込みかけた指を止める。
美冴ちゃんの心配そうな顔を見て、そういや『あれ』以降どうなったのか、美冴ちゃんが知らないと言うことに思い至った。俺と和希が殴り合ったところまでしか知らないんだ。無意識に顔の傷を撫でる。
「や、平気」
「仲直り、したんですか」
「うん。まあ」
別に改めてした覚えはないけど。なし崩しと言うか。
美冴ちゃんがほっとしたように微笑む。
「良かった」
「ごめんね。心配かけて」
改めてポテトを頬張りながら謝る。
目の前で殴り合いの喧嘩なんか見ちゃったら怖いんだろうな、やっぱり。俺は別に怖いとは思わないけど。あの時美冴ちゃん、怯えてたから。女の子だなあ……。
「ううん。そんなこと。別に啓一郎さんが悪いわけじゃないです。……あ、そうだ。そう言えば」
長い髪を揺らして笑ってから、美冴ちゃんは何かを思い出したように俺の方を向いた。つられて俺も美冴ちゃんの方を向きながら、テーブルの上の煙草を一本引き出す。
「うん?」
「あああの……ふ、深い意味はないんで気にしないで下さいね」
……何がでしょう?
突然あたふたしたように言われても、肝心の内容をすっ飛ばされているので意味がわからない。が、どうやら前振りだったらしく、美冴ちゃんはおたおたと続けた。
「啓一郎さんって、映画とかお好きですか?」
「映画? うん、まあ……嫌いじゃないけど」
と言って、取り立ててハマったりしているわけでもない。普通程度の興味だ。
でも、映画の音楽なんかはかっこ良くて好きなんだよな。最近の劇場はサラウンドとか結構スピーカにも凝っていて、そういうのは面白い。ただ、敢えて見に行く機会があんまりない。
「あ、じゃ、じゃあ……良かったらその、ご一緒してもらえないかなあとか」
「は?」
俺が? 何で?
「ああの……チ、チケットがね。もらって二枚あったりして」
「へえー? 何の映画?」
何で俺なんだろう。
ちょっと勘違いしちゃうぞ? それ。
……ま、そういうのって概ね、『ホントに勘違い』なんだけどね。多分さ。
「あ、ええと……」
美冴ちゃんがごそごそとバッグを漁る。取り出した映画のチケットに印刷されているのは、最近しきりと宣伝しているアクション映画だった。恋愛アリ友情アリ家族ものアリで、ちょっと気になってなかったっつったら嘘になる。何よりテーマソングが凄ぇいいんだよ、これ。
「これ、主題歌、超いいよね」
「知ってますか?」
「ばんばん宣伝してるじゃん。ちょっと気になってた」
「ホントですか? じゃあ是非」
一枚を受け取って眺めながら言う俺に、美冴ちゃんはちょっと頬を紅潮させて顔を輝かせた。
「ありがたく。んじゃ、いつにしよーか」
チケットをとりあえず美冴ちゃんに返しておいて、煙草を咥えながら尋ねる。美冴ちゃんはのろのろと食べていたハンバーガーをようやく食べ終え、ドリンクカップに手を伸ばしながら首を傾げた。
「合わせますよ、全然」
「つっても美冴ちゃん、平日の昼間は学校だし」
「そりゃそうだけど」
「学校の後だと結構遅くなっちゃうもんね。土日かなあ」
「あ、は、はい」
何やらしゃちほこばって頷く美冴ちゃんに、いたずらっぽく笑いかける。
「つか、デートみたいだね。土日に約束して会うんじゃ。せっかくだから、デートしますか」
深い意味はなく言ったつもりだったんだが。
「あや、え、そ、その、嫌だったらその、そんな」
やたら噛まれて、俺の方が焦った。おろろろ? ちょっとまじで意識させちゃったみたいだ。失敗。
「ごめん、そんな構えないでいーけど。俺、安全よ?」
「べべ別に警戒するくらいだったら最初から誘ってません」
ああ、由梨亜ちゃんと同じで俺は安全パイなわけですかね? 何でなんですかね? 俺ってそんなに男っぽくないですか?
内心とほほーんと思いつつ、俺は苦笑いをしながらテーブルに頬杖をついた。フォローするように口を開く。
「ま、気楽に。映画だけじゃ味気ないっしょー。せっかく遊ぶんだし。映画見て、その辺歩いて、メシくらい食って。別にその後どっか連れ込もうなんて考えてないから、それは安心してもらって」
「……何だ」
「え? ごめん、何?」
「何でもないですー」
どこかしらじらしい笑い方をして、美冴ちゃんがチケットをバッグにしまう。
「明日は、俺スタジオだし。夕方からバイトだから……来週とかどう?」
俺は手帳なんか持つ習慣がない。頭の中から自分のスケジュールを引っ張り出して尋ねると、美冴ちゃんはこくこくと頷いた。
「ぜぜぜ全然」
「どっちが良い? 俺ねえ、日曜の方が良いかなあー」
「あ、じ、じゃあそれで」
俺が「じゃあデートしよう」なんて言ったせいか、妙にカチコチになって頷く美冴ちゃんが、正直ちょっとおかしかった。可愛くないと言えば嘘になる。こういうストレートな反応って可愛いよなー。俺なんか、女の子と二人で会うつったって、いちいち「デートだ」とか考えなくなっちゃってるしな。あゆななんかどーなんのよ?って話で。
……やだな。すれてんのかな俺。
(いや、でもそんなことないか)
由梨亜ちゃん相手だったら、さすがに俺だって舞い上がるんだろう。あゆなだの美冴ちゃんだの、自分の恋愛相手としての意識がないせいかもしれない。
……由梨亜ちゃん、どうしてるのかな。
和希と、仮にとは言え別れて、落ち込んでるんだろうな。
そんなことを頭の片隅でぼんやり考えながら、美冴ちゃんと場所や時間を決める。
「何か変更とかあったら携帯に電話して」
「あ、はい。そしたら、あの、番号、聞いても良いですか」
……あれっ?
「知らなかったっけ?」
思わず真顔で問い返すと、美冴ちゃんは困ったように頷いた。
「由梨亜は知ってるけど」
「あ、聞いてないんだ」
まあ別に用なけりゃ聞かないか……と思っていると、美冴ちゃんは妙に生真面目に頷いた。
「だって、わたしが啓一郎さんに聞いたわけじゃないのに教えてもらったら、悪いし」
「美冴ちゃんだったら別に全然良いのに」
悪さをするでもあるまいし。
でも、そんな生真面目さが良いトコロなんだろう。
うん。良いコなんだよな。
「んじゃ、俺の連絡先、送るよ。赤外線、ドコ?」
「あ、ここ」
「そうしーん」
由梨亜ちゃんじゃなくたって、他に良いコはたくさんいる。
そんなことは俺だって重々わかってる。
他の誰かに目を向ければいーじゃんな。
だけど……。
「じゃあ次、わたし、送りますね」
「受信おっけーい」
だけど、まだ俺の心が、由梨亜ちゃんから動けない。
◆ ◇ ◆
その一週間は、バイトとスタジオ、曲作りが立て込んでいて、珍しく飲みに行ったりするようなこともほとんどなく忙しく過ごした。
由梨亜ちゃんと美冴ちゃんは、最近ではほとんどスタジオとかにも顔を出さない。
由梨亜ちゃんは、和希とのことが原因だろう。会いたいけど、会わなくて済む方が心穏やかにいられるはずで、俺はきっと助かってるんだろうな。
美冴ちゃんの方はと言えば、これは単にバイトに入るようになったせいだと思う。
今ではすっかりなつみも来なくなったし、基本的にクロスのメンバーと美姫だけと言うことが、このところ多い。