第6話(2)
「や、だって。ねえ、ないの? 橋谷センパイも?」
「あるかよっ」
いくつだと思ってんだよ。俺らのこと。大体やだよ、俺。知りもしない人に体触られんの。しかも高い金払って。
驚いたように目を丸くしていた恵理は、「へえー」と呟きながら、「まあ、それでね」と話を続けた。
「話だけしに来る人とかいるわけ。ああいうトコって。えっちなことするだけの場所じゃないんだよ。みんな寂しいんだ。自分をわかって欲しくて、だけど周りの人とどうして良いかわかんなくて、癒されにくるわけ」
それは俺にとって全く知らない世界で、何となく不思議な話を聞いている気がした。俺には理解が出来ない感覚だ。だけど、そういう人もきっと確かにいるんだろう。
一人では見つけられない出口、癒されない傷、それがそういうところで癒されるのかどうかは俺には疑問だが、商売でも何でも優しく手を差し伸べてくれる人を必要とする人もいるのかもしれない。
「いろんな人のいろんな後悔とかさ、悩みとかさ、そういうの聞いてると、あたしはどうなんだろなとか思うわけよ」
「ほうほう」
「伝えておきたかった言葉とか、見ないフリをして誤魔化した感情とか、そういうの、なかったかなって」
一矢へのストーキングに繋がりそうになってきた。察したらしい一矢が、煙草を咥えながら嫌〜なカオをする。
「そうすると、あったわけですよ。……あ。何つーカオしてんのよ」
「俺に繋げんで頂きたい」
「いや、あたし最初っから『俺』の話しかしてないし」
恵理と一矢のやり取りを聞きながら、俺も煙草を咥える。
――伝えておきたかった言葉
――見ないフリをして誤魔化した感情
きっとそんなのは、探せばいくらだってあるんだろう。
だけど、今の俺が最も伝えておきたい言葉、誤魔化したくない感情……和希にクロスを抜けて欲しくない。
「あの頃に戻れたらって言ったって、戻れるわけじゃないじゃない。本当だったらあの時伝えられたら良かったんだろうけど、それが無理なんだから、だったら『今』しかないわけじゃん。その『今』を逃したら、この先にきっとまた『今』を振り返って思うわけじゃん。『あの時こうしてたら』――もう、嫌だよ、そんなん。だって今日って、今後の人生の中で一番若いんだよ」
人は一人で生きているわけじゃないから、自分の感情と誰かの感情がかみ合わないことなんて間々ある。自分に素直に生きるのは結構難しく、誰かへの思いやりを忘れては生きられない。
だから俺は、和希の気持ちをわかってやるべきだと思ったんだ。
あいつの人生、俺が責任を取ってやれるわけじゃないから、あいつの考えや気持ちを優先してやるべきだと思ったんだ。
いや、今だってそれは思わないわけじゃない。思う。
だけど、でも、そう……『伝える』ことすらしないのは、果たして正しいのか?
「だからあたし、今をしたいようにすることにしたの」
「それで俺に皺寄せが来るのはいかがなもんかと思うでしょ?」
「一矢センパイもしたいようにすれば良いんだよ。言いたいこと言えばいいし。一番健全でしょ?」
「健全か? それ」
和希だって、俺の気持ちなんか察してるだろう。その上で飲み込んだことも理解してるだろう。
だけど、『和希が察する』ことと、『俺がちゃんと伝える』ことは、全然イコールじゃないんじゃないのか?
だとしたら。
「俺……」
「ご意見? どうぞ、橋谷センパイ」
言いながら片手を差し出す恵理に煙草のパッケージを放ってやりながら、俺は手にしていた煙草を灰皿に押し付けた。
「俺、和希のところに行って来る」
「はっ?」
一矢が素っ頓狂な声を上げた。飲みかけだったビールを飲み干し、構わずに俺は立ち上がった。
「唐突な」
「恵理の話聞いて、俺、自分がしなきゃなんないこと、ちょっとわかった気がする」
煙草を一本抜き出して恵理が放った俺の煙草を受け止めながら、俺は真剣な顔で一矢を見下ろした。
「結果は変わらないのかもしれない。だけど俺、まだ一言も和希を止めてない」
一矢が無言で俺を真っ直ぐ見詰め返した。恵理が一人、きょとんと煙草に火をつけている。
「恵理。お前、意外と真面目に生きてんじゃん」
「一度死にかけたからね」
床に放り出してあったジャケットを拾い上げながら笑うと、煙草の煙を吐き出しながら、恵理も少し笑った。
「あん時は死んでやるとか思ったけど、今になって生きてて良かったなあって思うし。別に、良いことなんか何もあったわけじゃないけどさ。生きるのって、結構自分の中の問題だったりするわけじゃんって気がついた」
「ふうん?」
「何を幸せと感じるかって、ぶっちゃけ本人の気の持ちようじゃん」
言って恵理は、壁に背中を預けた。煙草を持つのと反対の手で髪をかきあげる。
「ありがちな話だけど、朝起きて天気が良いと幸せに感じる人もいれば、宝くじで百万当たっても『一千万じゃない』ってがっかりする人もいんじゃん? 気分の問題でしょ」
「まあ、ね」
「つったってそう簡単に朝起きて天気見て幸せになれるかっつったら、そううまくはいかないんだけどさ。でもあたし、一矢センパイと再会出来ただけでもらっきーだと思えるから」
「だーかーら、そっちに繋げるなっつーの」
「繋げるも何も最初っからあたし、その話しかしてないってば」
ジャケットに腕を通しながら、思わず笑い出す。恵理が俺を見上げた。
「橋谷センパイ、笑うトコ間違ってない?」
「他にどこで笑えば良かったの?」
「ってか、笑うポイント、別に用意してなかったんだけど」
「あ、そう? そりゃ失礼」
軽く肩を竦めて見せて、俺は改めて一矢を見下ろした。
「後になって、和希にちゃんと伝えていたらどうだったろうって考えるのは、嫌だよな」
「……啓一郎」
「和希も、一矢も、武人も、美保も……俺のクロスには必要だよ」
伝えたいことは、口に出さなきゃ伝わらない。察してくれているはずだなんて考えるのは、そもそも甘えだ。口に出して、伝えて、それに対する意見を聞いて、そしてまた伝える。理解したフリをして結論を出すのは、変えられる可能性さえも放棄すると言うことだ。
「恵理。ありがとう」
部屋の出口に足を向けかけて、俺は恵理を振り返った。
「お前の話、聞いて良かった」
何が何だかわからないだろう恵理は、きょとんと俺を見上げていたが、やがて白い歯を覗かせて笑った。意外なほど素直な笑顔を見て、人間って経験で変わっていくものなんだななどと思ったりする。
「何かわかんないけど、頑張って来てよ」
「うん。……伝えてくる」
もう一度一矢に向けて言うと、一矢がふっと優しく微笑んだ。
「うん。頼んだ」
和希の家のそばで単車を停めると、携帯電話を取り出す。
相変らずこの辺は閑静だ。人気のない暗い道で、電話を耳に押し付ける。数コールの後、ぷつりと呼び出し音が途切れて和希の柔らかい声が聞こえた。
「はい。どうした?」
着信表示で、出る前から俺とわかっているんだろう。誰何する言葉はなく、いきなり和希が用件を尋ねた。
「今、家?」
「家」
「何してた?」
「レポート。別に平気だよ」
「今、家の前」
歩きながら和希の家に向かっていた俺は、アパートの前で足を止める。
耳元で、和希の驚く声が聞こえた。ばっと窓にかけられたモスグリーンのカーテンが開けられる。携帯を耳に当てたまま、窓越しに和希が驚いたような顔で俺を見ていた。
「行って良い?」
「良いも何もそのつもりだろ。いいよ」
携帯を閉じてポケットにねじ込むと、和希の部屋に向かって歩き出す。俺がドアの前に行く前に、ドアの方が勝手に開いた。光源を背にした和希の顔には、濃い陰が落とされている。
「どうしたの? 珍しいじゃん」
「お邪魔」
招き入れられて、俺は和希の部屋に上がった。
和希の部屋は、典型的なボロアパートだ。玄関と言うにはお粗末な小さなスペースがあり、そこを上がってすぐ右手に洒落程度のキッチン、左手にはユニバスがある。キッチンを突っ切ると六畳の和室があって、左手すぐに押入れがあった。
俺や一矢の住んでいる部屋よりも、正直言ってボロ度合いは高いが、俺と一矢と違って引越しや生活にかかるその全てを完全に自分で賄っていると思えば、かっこいいとさえ思う。高校時代から今の部屋に住んでいる俺は、今でこそ自分で生活を賄っているものの、引越し当初にかかるはずの金は全て親負担だった。
「どうした?」
狭い和室とは言え、無駄な物が少なく、整理されているので侘しい感じはそれほどしない。
ホワイトグレーの薄地のカーペットを一面に敷き詰め、シンプルなパイプデスクが窓際に置かれている。本当にレポートをやっていたらしく、スタンドライトが点けられたデスクの上には、ルーズリーフが広げられている。そのそばには、俺には何だかよくわからない本が何冊か積み上げられていた。
「悪いね。お勉強中」
「いいけど。別に。飽きてたところだから」
人のことは言えないが、和希の顔にはまだ俺がつけた傷が残っている。
デスクとお揃いみたいなシンプルなパイプベッドに寄りかかって、俺は床に座り込んだ。
「コーヒーでも飲む?」
「うん」
俺の返事を受けて、和希がキッチンに立った。コーヒーメーカーのサーバーから黒い液体を注ぎ、カップを二つ持って戻ってくる。
「さんきゅ」
差し出された一つを受け取ると、和希が顔を顰めた。
「また飲酒運転。駄目だって言ってるのに」
「そんな飲んでないよ」
「そういう問題じゃないよ。事故るなよ」
「うん」
頷きながら、コーヒーを口に運ぶ。勉強の為の眠気覚ましなのか、コーヒーは濃く苦めに入っていた。昔はコーヒーって苦くて嫌いだったけど、今はこんな苦さが旨いと思う。
「で?」
「率直に言うけど」
「うん」
俺の斜向かいに腰を下ろした和希が、俺を見ながらカップに口をつけた。
「クロス、やめないで」
ぶほっと和希が噴いたコーヒーが、数滴、俺の顔を目掛けて飛来する。……古典的な反応をどうもありがとう。
「あ、ごめん」
「……いいえー」
謝りながら、和希は床の上のボックスティッシュを、俺の方へ向けて滑らせた。ニ、三枚引き抜いて顔を拭うと、和希を真っ直ぐに見つめる。和希はまだ目を瞬いて、俺を見返していた。
「……あの?」
「俺は、和希がクロスを抜けるのは嫌だと思った」
「……」
和希が沈黙する。
唐突に何を言い出したんじゃと思ってんだろう。だけどこれが俺の本当の気持ちで、和希の事情だとか気持ちだとか一切合財無視してるとわかってはいるけど、それでも言いたいことだった。
「どうしたの。突然」
「俺、自分の気持ちをちゃんと和希に伝えてなかったから」
「……」
「和希が考えた結論だろうと思えば、言えなかった。だけど、ちゃんと伝えなきゃフェアじゃない。……俺は、和希がクロスを抜けるのは嫌なんだ」
和希がふっと目を逸らす。俺は、和希から目を逸らすことなく続けた。
「無茶苦茶言ってるのは承知の上だよ。でもちゃんと俺の気持ちも意見も聞いた上で、もう一度考えて欲しい」
「……うん」
「和希も知ってる通り、俺は音楽でやっていきたいと思ってる。クロスじゃなきゃ駄目だと思ってる。……クロスには、和希が必要だ」
和希は彫像のように固まったまま、答えない。
「これは、俺のただの我侭だ。もしも失敗したって、俺はお前の人生の責任なんか取れない。だけどそれをわかってて言ってる。俺は、お前のギターも、お前自身も、クロスに必要だと思ってる」
和希が黙ってコーヒーを口に運ぶ。俺も、テーブルに置いたカップに手を伸ばした。
「今すぐ答えろとは言わない。だけど、クロスのギターはお前しかいないって俺が思ってること、わかった上で考えて。お前の代わりになれる奴なんていない」
「いるよ」
「いない」
きっぱりと言い切る俺に、和希は再び黙り込んだ。それからカップをテーブルに置くと、自分の膝に肘をついて、片手を額に押し付ける。深い吐息が、こっちにまで届いた。
「凄ぇ、悩んでお前に言ったんだぞ、俺……」
「わかってるよ」
「わかってんのかよ、本当に。……俺だって、続けたいよ」
呻くような声に、俺はカップに口をつけかけたままの姿勢で動きを止めた。
「……へ?」
「俺だって、続けられるもんならクロスで続けたいよ。音楽で食っていけたらどんだけ良いだろうと思うよ。こんなに居心地の良いバンド、そうそう見つかるわけがないとも思ってるよ」
「じゃあ、何で……」
「俺だけの話じゃないんだよ。俺の気紛れで決めて良いとは、俺には思えないんだ」
話が掴めずにただ和希を見つめる俺に、和希は改めて深いため息を落としながら口を開いた。
「俺がね、教師になろうって思ったのって、もうずっと前なわけ。小学校の時」
「はあー。そりゃ年季の入ってる」
「入ってるよ。元々それは、俺の夢ってわけじゃなくて、親父の夢だから」
「親父さんが、和希に期待してたってこと?」
「じゃなくて、親父自身がなりたかったってこと」
ふむふむ。
和希の家族って仲良いからなー。いや、仲良いって言やあウチだってそうだけど、何つーか……『正統な家族像』ってイメージがある。良く知らんけど。
だって俺、親父の夢とか聞いたことないし。
「親父の実家は、時計店の下請けやってる個人業者なんだけどね。修理したりとかの実際の作業をするような。そんなんだから、親父の親父……俺にとってのじーさんは、職人気質で自分の仕事にプライド持ってるわけ。そんで、親父に自分の仕事を継がせようとしてたんだけど」
言いながら、和希は煙草のパッケージを引き寄せた。両手で弄びながら、少し言葉を選ぶように視線を泳がせる。それから、一本引き出した。
「でも親父としてはそれを継ぐのが嫌だったんだよな。物凄く文系気質の人で、大学行って勉強したいって思ってて。文学を勉強したりとか、人にモノを教えたりとか、そういうことがやりたかったみたい」
何となく、和希の親父らしい気がする。その癖エンジニア肌なところがあるのは、じーさんの気質だったりするのかもしれないけど。
「そんで、大喧嘩。おかげで、俺もじーさんに会った記憶ってのはほとんどないわけだけど」
苦笑しながら煙草を咥えた和希は、火をつけて煙を吐き出すと、話を続けた。
「結局勘当同然で家を出た親父は、自分で働いて学費作って、そんだけの思いをして大学に行ったわけ」
「すっげぇ。大学って、相当金かかんじゃないの?」
「かかるよ。だからそんだけ思い入れがあったんだと思うよ。だけど、現実的に学費が稼ぎきれなくなって、中退してるんだよね」
まあなあ。
俺なんかは今、自分の収入だけで生活を賄っているけど、バイトの立場で生活を支えるのは結構ギリギリだったりする。
まあ、バンドなんかやってるし、結構飲んだりもするから変な出費が多いせいもあるんだろうけどさ。
「そんで俺はさ、何の苦労もなく大学に行かせてもらってるわけじゃん」
「ああ、うん」
「親父がそんだけ苦労して通いきれなかった大学ってものに、俺は望み通り不自由なく通わせてもらってるわけ。それも、そもそも『俺が先生になるよ』とか言って子供の頃に期待させるだけさせちゃって、進学して」
和希を引き止めている理由が、ようやくわかった気がした。
自分の大切な人の期待を裏切るのは、誰だって辛い。そして和希は、家族を……特に親父さんのことを、多分とても大切に思っているんだろう。
「『良いコちゃんのフリ』をしてきて、金だけ払わせて、で、最終的に『やっぱやーめた』って裏切るわけにはいかないだろ。俺だって別にやりたくないわけじゃないんだ。親父には感謝してるし、尊敬もしてるし、俺で出来ることならしてやりたいんだよ。失望させるのは、嫌なんだ」
「でも……」
言いたいことを形にしきれないままで反論しかけた俺に、和希は口を噤んで顔を横に振った。俺の言葉に先んじて口を開く。
「わかってるよ。俺の人生だから、俺が決めることだ。だから俺は、俺が決めたつもり。別に犠牲になるわけじゃない。俺自身の夢より、俺は親父への感謝を裏切らないことを選択したんだ」
「それでいーのか?」