第5話(3)
「まあ食欲があるから大丈夫か」
「あゆなってさあ……」
息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ雑炊を食べる。それを見つめるあゆなの視線を感じながら、俺は何となく尋ねてみた。
「何で俺のこと好きだとか思っちゃったの?」
「……そうぬけぬけと、しかも思い込みか何かのように言われると、さすがのわたしも咄嗟に返す言葉に詰まるわ」
あゆなはテーブルに頬杖をつきながら、コーヒーカップを空いている片手で持ち上げた。
「俺、あゆなと話してると実は恐ろしく嫌われていてからかわれてんじゃないかって気になってくる」
「殴るわよ」
「病人、一応」
「だから何?」
この人が俺を好きだと言っていた言葉は本当だったんだろうか。
「気がついたら、としか言いようがないわね」
もう言葉を押し出す気力も摘み取られて黙々と食べていると、ややしてあゆなが溜め息混じりに言った。目だけであゆなを見る。
「どこがとかそういうのはないの?」
「ないわね」
ああ、言い切った、この人。
「好きになるのって、加算じゃないじゃない」
「……」
「ここが好きでここも好きでとかってのはあるのかもしれないけど、でも同じような性格的特徴があれば、それで他の人でも好きになれるってわけじゃない」
「まあね」
「逆に数えてみたらムカつくところの方が多くたって、『それでも好き』って思うこともあるわ。一たす一は二ってふうにはいかない」
「……今のは、俺がムカつくところが多いって話?」
「そう聞こえた?」
どうぞ、と話の続きを促して、がっくりと頭を落とす。
「何で惹かれるのかなんて、結局わからないわ。タイミング、出来事、経験……そういうものの小さな積み重ねで、理不尽なのが恋愛ってもんじゃないの」
綺麗に雑炊用の小さな土鍋の中を攫えて、最後の一掬いを口に入れると俺は手を合わせた。
「ごちそうさま。……哲学者だね」
「迷惑な男を好きになると女は哲学者になるの」
「……この土鍋、持参?」
迷惑な男とはこの場合俺のことか? 言われたい放題のように思えるのは熱のせいだと思いたい。
「持参。あげる」
あゆなは立ち上がると、食器とカップをキッチンに運んで行き、代わりに薬を持って戻って来た。
「飲むのよ。水、足りる?」
「うん。ありがとう」
咳込みながら薬を受け取る。あゆなが洗い物をしている間に、グラスに残った水で薬を飲んだ。
(理不尽なのが恋愛、か)
世の中、思い通りになることの方が少ない、とは良く聞く。
その中でも一番思い通りにならないのは、やっぱり人間の感情って奴だろう。
思い通りにならないだけじゃなくて、わからない。完全な理解なんて、きっと永遠に出来ない。だからわかりたいのかもしれないけどさ。
……今もまだ、由梨亜ちゃんは悩んでいるんだろうか。
(和希の忘れられない人ねえ……)
その話を聞いたことがないとは言わないけど、本人から直接聞いたわけではなくて、何年か前になつみからちらっと聞いた程度だ。
和希が、実際のところ由梨亜ちゃんをどう思っているのか、俺は知らない。
それに、あの直後から俺は高熱で苦しんでいるわけだし、大体俺が聞くことじゃない。
……忘れられないほど好きになった人と似ている人が現れたら、俺だったらどうするだろう。
面影を探すんだろうか。それとも、思い出したくなくて目を背けるんだろうか。
似ているとしたって、別人であることに変わりはないわけだから。
「……っかんね……」
頭を押さえて床に転がる。フローリングの床が背中に固い。
熱で視界が歪んだ状態では、脳味噌も沸騰寸前で、考えも纏まるわけがない。ただ、由梨亜ちゃんの顔が微かに見える。
「さて。わたしは帰るわよ」
毛布にくるまって床の上をごろんごろんしていると、洗い物を終えたらしいあゆなが戻って来た。
「ああ、帰るの?」
「病人の部屋にいつまでもいたってしょーがないでしょーが。あんただってゆっくり休めないじゃないの」
一応気遣いらしきセリフで締め括ったあゆなが、ハンガーにかけた上着を取り上げる。
袖を通したところで、部屋にチャイムの音が鳴り響いた。
「……」
動きたくない。
「……そうして欲しいならそうするけど」
俺の視線を受けて、あゆなが呆れたような目線を向ける。頷くと、あゆなは何とも言えない微妙な表情で玄関へ歩いて行った。軽い足音が遠のき、代わりにドアを開ける音が聞こえる。
「何してるって言われても。わたしだって別に風邪を伝染されにきたわけじゃないんだけど。人間の形状を保ってないわよ、あの人」
毛布越しの遠くから、あゆなの声だけが聞こえていた。俺、人間じゃなくなっちゃってますか?
「そう。……なら、後はよろしく。わたし、今帰るところだから。このまま帰るわ」
あ。
俺、お礼の一つも言ってないんだけど。
そう内心思うものの、身動きする気力がない。ぜぇぜぇしながらじっと丸まっていると、ドアが閉まる音と足音が聞こえた。あゆなと入れ替わりに誰かが入ってきたらしい。家主が理解していないのもどうかとは思うが。
「あーらら。ホントにグロッキー」
毛布に突っ込んだままの俺の頭上で、一矢の声がした。今日のスタジオをパスすると、一矢に今朝連絡したからだろう。ツンツンと毛布越しに頭をつつかれる。
「んぁ?」
「うわー。凄い鼻声。やめてーよらないでーうつっちゃうー」
む。
「……何」
「ホント、あゆなちゃんの言う通り、ひどい顔でひどい声」
毛布から顔を出すと、にべもなくそんなふうに言われた。
「電話で凄い声してたからさー。一応心配して陣中見舞い」
陣中。俺は一体どこの戦場の誰の陣にいるんだろう。
「さんきゅ……」
「熱、三十九度だって?」
「そう……」
「食う物買ってきたから、冷蔵庫突っ込んどくよー。適当に食いなさいよー。食いやすそうなもん選んで来たから、一応」
「ありがとう……」
「……上で寝なさいよアナタ」
「一人になったらそうする。もう寝飽きた」
あ、そ……と呟いて、一矢がキッチンへ消えた。毛布にくるまったまま、顔だけで一矢の動きをぼんやりと追う。げほげほと咳込みながら体を起こし、水に口をつけた。鼻をかむ。
「完了ー。しーかし、風邪って流行ってんの? 今」
「さあ……っくしゅッ……」
うー……だるー……。
またティッシュに手を伸ばす。やだなあ、ゴミ箱がティッシュの山になってくなあ。
「何で?」
鼻をかんでから涙目のまま一矢に問うと、立ったままの一矢が首を傾げた。
「美冴ちゃんが来ててね。由梨亜ちゃんも風邪とかって聞いたからさ」
あらら。結局風邪ひいちゃったのか。俺と会う前に随分濡れたみたいだったしな。
「それ聞いて和希不機嫌になっちゃうし」
ため息交じりの一矢の言葉に、俺は身動きせずに胸の内で首を傾げた。
由梨亜ちゃんが風邪って聞いて不機嫌? 普通は、彼女が風邪引いたら心配するような気がするんですけど。
「何で?」
「そこまで知らないけど」
和希が不機嫌なんて、珍しいな……。
また毛布にくるまってずぶずぶと床に沈み込み、俺は目を閉じた。薬を飲んだせいか、眠気が襲ってきていた。
「あれれ? おーいー」
由梨亜ちゃんの泣き顔が浮かんで消える。
霞んでいく意識の中で、濡れた眼差しがこちらを見てる。
「……けぇいちろぉ……」
悲しい、泣き顔。
それから、怯えたような顔。
泣かないで欲しいのに。
……俺は、何をしてあげたらいい?
◆ ◇ ◆
ようやく外に出られるようになったのは、それから三日ほど経ってのことだった。
普段、なかなか体調を崩すことがないだけに、貴重な体験と言える。したくないけど。そんな体験。
一方で由梨亜ちゃんがどんな調子なのか気にはなったけれど、連絡をするのはさすがに気が引けた。
「はよ」
あー。何だかスタジオに来るのも久々のような気がするよ。健康っていいな。俺、大好きだな、健康。
まだ気だるさがあるにはあるが、少し動けばすぐにそれもなくなるだろ。
ぐりぐりと肩を回しながらスタジオに入った俺は、先に中にいた和希にあくび交じりの挨拶をした。なぜか和希が、微かに強張った表情で俺を見上げる。
「風邪は、もう良いのか」
のみならず、何だかひどく硬い声だ。すぐに顔を背けられて、どこかそれがそっけなく感じた。
(……?)
いや、言葉の内容から、心配してくれたのはわかるんだけど。
「……うん」
「……そう」
沈黙。
な、何だ? この気まずさは。
さすがの俺でも気がつくほどの硬い空気に戸惑う。
和希とはそれなりの長さの付き合いがあると思うけど、こんな空気は初めてだ。
「あの」
恐る恐る声を掛けてみる俺に、和希が無言で目を向ける。
「何かあったの?」
「何が?」
「いや、別に……」
取り付く島もない感じ。和希は、それきり視線も上げずにギターのチューニングを黙々と続けた。
何だろ。一矢が「機嫌悪い」とか言ってたけど、これは……相当だぞ。
「一矢が言ってたけど、由梨亜ちゃんも、風邪引いたんだって?」
困惑したまま、とりあえず俺は中に入ってドアを閉めた。和希が何で不機嫌なのかは知らないが、俺の方も和希に対してわだかまりがないわけじゃない。
「……ああ」
硬い声のままで和希が低く答える。
「具合、平気なの?」
「何で?」
「……は?」
何でって。
その言い方に、かちんと来る。何か、俺が心配するのがいけないみたいじゃん。
「俺自身かなりキツかったから、由梨亜ちゃんもひどいんじゃないかって思ったんだけど」
知らず、俺も声が硬くなった。むっとした表情の俺に、和希がゆっくりと顔を上げる。冷気を孕んだ視線に、俺は眉を顰めた。
「それだけか?」
「え?」
「心当たりでもあるんじゃないのか?」
「心当たりって……」
微かに心臓が跳ねる。
え? どういうことだ?
表情を凍りつかせたままの俺に、和希が追い討ちをかけるように続けた。
「由梨亜と会ってたろ?」
「何……」
何で、それ。
一瞬、返す言葉を見つけられずに沈黙する。肯定と受け止めたらしい和希は、既に苛立ちを隠そうともしない表情で俺を見ていた。
「言えよ」
「それは……」
「俺と付き合ってること、お前は知ってたよな」
「……」
「そんで? あんな時間に会ってた理由、言えよ」
不機嫌だった理由がわかった。
なぜだかわからないが、和希はあの日あったことを知っている。
いや、由梨亜ちゃんが言ったのでなければ正確なことは知らないだろうが、俺と由梨亜ちゃんが会ってどこかへ行ったことを知っているんだ。
和希の地元の駅だったことを思い出して、俺は頭を抱えたくなった。
まさかと思うが、見てたのか。俺と由梨亜ちゃんが落ち合ったところを。
俺の表情を読んだように、和希はにこりともせずに続けた。
「見たよ」
「……」
「由梨亜、俺の家まで来たんだろ。バッグが落ちてた」
和希が拾ってたのか。通りでどこにもなかったわけだ。
そう納得しながら言葉を見つけられない俺に構わず、和希が続ける。
「携帯鳴らしても電話中で繋がらないし、駅の方に探しに行ったんだよ」
多分、彼女が俺にかけてきてくれた時だったんだろう。タイミングが悪過ぎて思わず顔を顰める俺に、和希が益々冷たい視線を投げかける。
「何か言えよ。それとも……」
「……」
「言えない理由でもあるのか。言えないようなことでもあるのかよ」
「違っ……」
「お前、由梨亜の何なんだよ」
和希らしくない、どことなく高圧的な物言いに、思わずかっと来た。
和希がなつみといる姿を見ても、由梨亜ちゃんは微塵も和希を疑ったりしていなかった。
傷ついて、泣いて、それでも彼女は和希を想っていた。いや、今でも和希だけだ。
なのに、何で信じてやれないんだよ? 由梨亜ちゃんがあれほどお前を想っていて、俺なんか入り込む隙はどこにもないのに。何で彼女の気持ちを信じてやんないんだよっ。
「……嫉妬かよ」
言った俺自身が、自嘲で笑いそうだ。……嫉妬してるのは、俺の方だ。
「な……」
スタジオに入ったそのまま、未だ床に座っている和希を見下ろす。和希が目を眇めて立ち上がった。抱えていたギターが派手な音を立てて床に落ちるが、和希は目もくれずに俺に鋭い視線を注いでいた。
「嫉妬するくらいだったら、どうして彼女に不安な思いなんかさせたんだ?」
「お前に関係ないことだろ」
「言えないようなことがあったって俺が言ったら、お前どうすんの? 真に受けて、彼女を疑うの? そんなんだから……」
かっとなったように、和希が俺の胸倉を掴む。至近距離で睨み上げながら、俺は持て余してきた由梨亜ちゃんへの想いが暴走するのを感じた。俺がキレやすいのは元々だが、それを更に焚きつけているのは、行き場のない恋情、嫉妬……自分で、そうわかっている。
「そんなんだから、彼女が俺を頼ったんじゃねえのかよっ?」
わかってる。これは、挑発だ。そう自覚しているのに、止められなかった。
「お前の方こそ、彼女の気持ちが離れても仕方ない心当たりでもあんじゃねえのかっ? 不安なのはお前の方だろうがっ」
「うるさいっ……」
和希の拳が振り上げられた。寸でのところで顔を背ける。和希は一見ほっそりしているが、結構筋肉質なので、まともにくらえば俺ごとき吹っ飛ぶだろう。避けきれずに掠っただけなのに、俺は体ごと大きくよろけた。体勢を立て直しながら、和希の顎を狙って拳を突き上げる。センターを少し外した辺りに食らわせられれば、ウェイトに差があっても体勢を大きく崩せる。大の男に対して女性がやっても効果がある防衛手段だ。
狙い通りに拳がヒットして、和希がふらついた。その隙に胸元を掴んでいる和希の手を振り払い、距離を少し空ける。
「くだらねぇ嫉妬なんかしてるくらいだったら、彼女を不安にさせる自分の腑甲斐なさでも反省しろよ」
俺に向けられる和希の冷ややかな視線は、既に氷点下だ。完璧なまでの美貌が、凄絶な迫力に拍車をかける。次の瞬間繰り出された拳は俺の腹にまともに入り、小柄な俺の体が本当に軽く吹っ飛んだ。壁に当たって、一瞬呼吸が止まる。咳き込む俺に近付いた和希が、壁に俺を押し付けるように再び胸倉を掴んだ。その瞬間、俺は和希の腹を目掛けて膝を振り上げた。避けようと手を離すが間に合わず、和希がよろけながら小さく呻く。舌打ちが聞こえた。
「お前に説教される筋合いじゃない」
「絡んで来たのはお前の方だって忘れんなよな」
「心外だな。人の彼女とこそこそ会ってんの、どこのどいつだよっ?」
「そうやって偉そうに言えるほど、お前はちゃんと彼女を見てやってんのか? 何であの日由梨亜ちゃんが泣きながら俺に電話してきたか、わかってんのかよっ?」
和希の拳を頬に食らう。唇が切れた痛みを感じながら、俺はまた壁に背中をついた。くそ、痛ぇ。
「お前なんかにわかるか……っ」
「わかんねーよ、お前の考えてることなんてっ!」
怒鳴りながら、和希に肘鉄をくらわせる。よろめいた隙をついて足払いをすると、和希が床に倒れ込んだ。襟首を掴み上げ、殴ろうと拳を振り上げると、和希が体を捻って俺を床に引きずり倒す。その体を俺が蹴り上げ、和希が俺目がけて肘を振った。
「はよー。……って、お、おおおおお?」
突然防音扉を押し開くギィーっという音がし、一矢の呑気な声が割って入った。入ったが、構わず和希が俺の頬を殴りつける。
「ちょ、待っ……何してんだよっ?」
食らった痛みに顔を顰めながら、足の裏で和希の腹を蹴り上げた。その体が仰け反り、和希の顔を殴りつけようとしたところで、それより早く和希の肘が俺のこめかみに当たる。その衝撃で顔が明後日の方向を向きながら、俺はそのまま和希の頬を殴った。
「やめろってっ!」
駆け寄ってきた一矢が止めようとするが、一人で二人を止められるものでもない。こっちは頭に血が上っている。間に入れば一矢だって巻き添えをくらう。
「どうし……何してんのよっ?」
「和希さんっ」
「啓一郎さんっ?」
開け放したままのドアから一矢の怒声が聞こえたのか、慌てたような美保の声に続けて由梨亜ちゃん、美冴ちゃんの声が聞こえた。
「どうしたのっ?」
「やめて、和希さんっ」
和希が俺の胸倉を掴み上げて、俺の上半身が浮き上がる。殴りつけようとする和希の腕を避けるように、俺は両腕で顔のサイドをブロックし、そのまま裏拳で和希の頬を張った。
「やめろって!」
顔が反れ、和希の手が俺の胸から離れる。振り払って立ち上がり、尚も和希の方へ行こうとする俺を、一矢が正面からタックルするかのように押し留めた。和希の方も、美保と由梨亜ちゃんと美冴ちゃんの三人がかりで押さえている。
「……」
そのまま少しの間、俺と和希は荒く息をつきながら睨み合った。やがて、一矢に抵抗する力を抜く。それを感じてか、一矢も俺を抑える力を少し抜いた。
「久々に啓一郎が来たと思ったらどーなってんだよー」
俺を抱きとめるような格好のまま、一矢がぼやく。
俺を睨みつける鋭い視線のまま、和希はふっと顔を背けた。それから美保たちの手を振り払い、切れた口元の血を親指で拭いながら、無言で開け放されたドアから出て行く。俺も一矢を振り払うと、その場の全員に背中を向けた。先ほどぶつかった壁の方に歩き出す。
「啓一郎さん……」
まだ興奮の名残が消えないままで壁に寄りかかって座り込むと、由梨亜ちゃんの泣き出しそうな声が聞こえた。顔を上げると目が合った。ぎこちなく笑みらしきものを口元に作り上げ、後を追えという仕草をしてみせる。由梨亜ちゃんは躊躇うような表情を浮かべたが、すぐに身を翻して出て行った。
……はー。
何やってんだか。ホント。
彼女の消えたドアの方をぼんやりと見つめ、それから俺は座り込んだままころんと横向きに床の上へ倒れ込んだ。くの字型に床に倒れこんでいる俺のそばに、美冴ちゃんが駆け寄って来る。戸口で一矢と話していた美保は、俺の方を一瞥してからスタジオを出て行った。
「啓一郎さん……」
さすがに五日間も寝込んでいた病み上がりの体では堪える。肩で息をしながら、俺は目だけで美冴ちゃんを見た。美冴ちゃんの目には涙が浮かんでいる。ごめん。怖い思いをさせたらしい。
「はは……ごめんね。びっくりさせちゃって」
「血が」
美冴ちゃんがポケットからハンカチを取り出そうとするのを押し留めて、俺は仰向けに転がった。左腕で顔を覆うようにして目を閉じる。
「汚れちゃうから、いいよ。ありがとう」
「でも」
そこで美冴ちゃんが口を噤む。腕で覆った俺の視界に影が落とされた。頭上から一矢の声が振ってくる。
「ずっと寝込んでたわりには元気じゃん?」
「……元気に見えるか、ばぁか」
まだ息が切れている。腕をずらし、片目だけで一矢を見上げた。俺の頭のすぐのところに、両手をポケットに突っ込んで立ったまま、一矢が俺を見下ろしている。そのまますとんとしゃがみこんだ。
「何してんのかね、まったく」
「別に」
理由なんか言えたものじゃない。俺は再び顔を腕で覆ったまま、ころんと横向けになった。一矢が俺の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「お前らが喧嘩すんのって初めて見るよ」
「……初めてだよ」
バタバタと足音がして、顔を上げると美保が救急箱を片手に戻ってくるところだった。
「え、い、いいよ……」
「あんね。本人見えてないからわかってないみたいだけど、怪我してんだよね。見苦しくて迷惑だから、むしろ黙ってやらせろって思ってるけど」
もう少し優しい言い方でお願いします。
「ほら起きてっ」
美保が乱暴に俺の腕を引っ張った。引き摺られるように上体を起こす。
「ひっどい顔」
「アイディンティティに富んでるでしょ」
「こんなもんは個性って言わないっ」
元々吊り上がり気味の目をますます吊り上げて、美保は救急箱をバコンと開けた。ガーゼに消毒液を吹き付けて、俺の顔にぐいぐい押し当てる。
「……ってえええッ」
「男だろっ? 手当てしてやってんだからありがたく黙り込みなっ!」
「ううう」
オトコマエすぎです、美保さん。
確かに、顔と言わず体と言わずあちこちが痛い。俺と違って和希は力があるから、同じクリティカルヒットなら和希より俺の受けるダメージの方がでかいはずだ。
「ったく、ヴォーカルがこんなカオじゃライブだって出来やしないじゃないよ」
「……そんなひどい?」
「バケモノみたい」
げふん。せめて人間でいたかった。
「来月までに何とか直すよ」
今月はとりあえずライブの予定はない。ストリートライブもパス、かな。
ヴォーカルとギタリストが双方ぼこぼこだったら『バンド内不和』って感じで……ねえ?
「はい、おしまい」
俺の顔のあちこちに消毒液のついたガーゼをぐりぐりと押し付けてテープで止め、美保はバタンと救急箱を閉じた。
「さんきゅ」
「もう帰って寝たら」
「……久々の娑婆なんですけど」
「喧嘩の傷って後で熱出すわよ」
「そこまで激しい怪我してないよ」
美保が救急箱を持ってスタジオを出て行くと、俺は溜め息をついて壁に寄りかかった。美冴ちゃんが心配そうな顔で俺を見つめる。一矢も立ち上がって、ため息混じりに煙草に火をつけた。
「一本ちょうだい」
「自分のは?」
「ここしばらく風邪で吸ってなかったから。持ってない」
「買って来なさいよねー」
言いながら、一矢はパッケージごと俺に煙草を放った。後を追うようにライターをポンと投げる。
「さんきゅ」
受け取って一本抜き出し、火をつけて吸い込むと眩暈がした。しばらく吸ってなかったせいだ。ひどく酔っ払った時のような軽い酩酊を感じながら、こめかみを左手の親指で軽く押さえる。切った唇と、多分明日には痣になるだろう和希に打たれた頬がじりじりと痛んだ。
「和希、どうしたかな」
しばらく座り込んだまま黙って煙草を吸い、ぽつりと言う。立ったまま俺の隣で壁に寄りかかっていた一矢が、目線を下げた。
「さあ。由梨亜ちゃんがついてるから、大丈夫じゃないの」
「……うん」
頷き、口から煙を吐いた。俺の口から真っ直ぐに吐き出された煙が、上へ上がるに連れて形を崩していく。
「そう言えば、由梨亜ちゃん、どうしたの?」
ふと気がついて美冴ちゃんに尋ねる。黙ったまま座り込んでいた美冴ちゃんが小首を傾げた。
「どうしたって?」
「最近来てなかったから。久しぶりじゃない」
「ああ。……和希さんと話があるからって」
そう、なんだ。
話し合う決心をつけたんだろうか。和希の本心を問い質す決意。和希がそれにどう答えるのか、俺には結局未だにわからない。
「風邪ひいてたって聞いたけど」
「ええ。もう、良いみたいです」
美冴ちゃんが、何故か少し悲しげな顔をして微笑んだ。
「武人は?」
一矢が、自立式の灰皿を引き寄せて灰を落としながら尋ねた。ちなみに今日は平日なので、美冴ちゃんも由梨亜ちゃんも制服姿のままだ。
「あ、何か人と会ってから行くとかって話で」
「へえ?」
そこへタイミング良く武人が入ってきた。
「はよーっす。……どうしたんですか? 啓一郎さん。しばらく見ない間に男前になってますけど」
「ワイルドでしょ」