第5話(2)
ああ、そう。デートだったんですよね。阿佐ヶ谷にいた理由は、やっぱり和希をおいて他にないですよね。
「新宿で映画を見て、お茶して、お買い物して……でね、わたし、和希さんが買った本をバッグに入れてあげてたんです。ほら、男の人ってバッグとか持ってなかったりするし」
「ああ、そうねえ……」
「それで、和希さんがレポート書かなきゃいけないって言うから早めに夕方くらいに別れたんだけど……預かっていた本を返すの忘れちゃって、返しに行ったんです。それで阿佐ヶ谷の駅まで行って」
言いながら、由梨亜ちゃんが自分の指先を弄る。そこに視線を定めながら、記憶を掘り返すような目付きで話を続けた。
「電話をかけたんだけど、出なくて。でも、家に持ってっちゃえばいっかなって、勝手に向かっちゃったんですね。わたし。もしいなければ、それはそれでポストに入れて、メールでもしておけば良いかなって」
「うん。まあ、そうだね」
「だけど……行かなければ良かった……っ」
話が飛びました。
「あの、和希の家で何かあったの?」
「なつみさんと和希さんを見たんです」
「……」
それがどう繋がるのか良くわからず、思わず黙る。
なつみが和希のことを好きで好きで仕方がないことは由梨亜ちゃんだって知っているだろうから、それは愉快ではないだろう。
だけどどうやら話の根本はそっちじゃない。
泣き出してしまった由梨亜ちゃんが少し落ち着くのを黙って待っていると、やがて由梨亜ちゃんが少し涙を収めて途切れ途切れに続きを口にした。
「和希さんの家の前で、二人がいたんです。なつみさんが押しかけてきたみたいな雰囲気で、何か詰め寄ってるみたいに見えました。わたしが出て行って良いとは思えなくて、思わず隠れちゃったんですけど、そしたらなつみさんの声が聞こえたんです。『何でっ!』って。『何であのコなの?』って」
はあはあ。そりゃ言うだろうな。前に聞いていたのかいないのか知らんが、いたんだとしても納得出来なくて押しかけてきたんだろうか。ありそう。
「わたしのこと言ってるってわかったから、一層出られなくて」
そう言って、由梨亜ちゃんは元気なく笑った。
「なつみさん、和希さんに好きになってもらえるように頑張ってたんですね。勉強も、ファッションも、全部……全部、和希さんに好きになってもらいたかったから頑張ってきたんだって言ってました」
「ああ、そうかもね」
ほぼ完璧とも言える女性像のなつみ。
美人で、頭も良くて、気配りも出来て優しくて、センスも良くて、物腰も上品で。
だけど、その全てがただ和希を振り向かせたいとひたすら願った結果なのだとすれば、今のこの状況は彼女にとって酷ではある。自分の全存在を否定されたような気分だろう。そして和希にも責任がないわけじゃない。
和希にしてみれば、友達として好きで友達として優しくしてたんだろうけど、彼女の気持ちが前提としてある以上、引いてあげるべき線を引いてこなかったんじゃないかって気がする。
俺だって、いつかなし崩しになつみと付き合うことになるんじゃないかって気もしなくもなかったもんな。当人なら尚更だろう。
「なのに、どうして由梨亜ちゃんなのって」
そりゃ失礼だ、なつみ。
「忘れられないって言ってた人はどうなったのよって。和希さんとなつみさんが高校一年生の時、告白したなつみさんに和希さんが言ったそうです。『忘れられない人がいるから、付き合えない』って」
「ああ、うん。俺もそれは知ってる。で、和希は何だって?」
「『ゆりあじゃなきゃ嫌なんだ』って」
「うん」
「『あの時も、今も』……って」
「うん……ん? え?」
頷いてから、首を傾げた。
その前のセリフまでなら、まあ、『ちくしょう、このやろう』で済む話だけど……『あの時も、今も』? え? どういうことだ?
混乱した俺の表情に、由梨亜ちゃんが悲しい笑顔で俺を見つめた。
「ね。何か変でしょ」
「う、ん。変、かな。変、かも」
「『あの時も』って……わたし、その頃は出会ってないんです。その時と今とで彼の気持ちが変わっていないと言うのなら、彼が今も好きなのは、その頃には出会っていなかったわたしじゃない……。他の誰かなんです。今も」
「……」
「わたしじゃなきゃ駄目な理由が、見えてくるじゃないですか。そしたら」
俺、何て答えよう?
まだ半ば良くわからないままで沈黙する俺を見つめていた由梨亜ちゃんは、そこでふと「あ」と小さく呟いた。その声に顔を上げる。
「え?」
「わたし、バッグを落として来ちゃった」
「へ?」
言われてみれば、和希とのデートの時には持っていたというバッグは、確かに俺と会ってから一度も見かけていなかった。持ってない。
「落として来た?」
「和希さんたちの話にショックを受けて、バッグを多分落として……そのまま闇雲に走って来ちゃったからどうしたのか良く覚えてないんですけど……」
それから困ったように眉根を寄せて、上目遣いの視線を向ける。
「ないってことは、拾ってないんですよね?」
「ですよねって俺に聞かれても……そうなんじゃないですかね」
としか答えられない。
「大事な物は?」
「ええと、お財布も定期も携帯もポケットに入ってたから、和希さんの本くらいかな。後はポーチとかだし。あ、でも、雨で和希さんの本、濡れちゃったかな」
「濡らしとけ、そんなもん」
こんなに由梨亜ちゃんを悩ませてるんだから、本ぐらい濡れてもバチはあたらん。
「後で、俺が探しに行って来てあげるよ」
「そんなことさせられませんっ! 良いんです。わたしが馬鹿なんだし。諦めます。諦めつかないようなもの、入ってないです」
それからまた、悲しい笑顔を浮かべる。瞳に浮かぶ切ない光が俺の胸を締め付けた。
「何かいろいろ考えてたら、どうしていいのかわかんなくて。……啓一郎さんのところしか、浮かばなくて」
どきりとした。
涙を浮かべている由梨亜ちゃんにはひどく申し訳ないけれど、追い詰められて浮かんだのが俺だって言うことが……凄く、嬉しい。
俺の存在は、彼女の役に立っていると思って良いんだろうか。
「へへ。和希さん、わたしなんか見てくれてなかったんだなあ。わたしを通して、別の人、見てたんだなあ……」
「由梨亜ちゃん……」
「わたし、こんなに人を好きになるなんて思ってなかったんですよ。だけど……」
声が激しく震えていく。無理に作っていた笑顔さえも崩れ、大粒の涙が次々に溢れ出す。
「だけど、会う度に好きになるんです。知る度に、どんどん好きになるんです。和希さんのことばっかりで、こんなに大切に想う人が出来るなんて思いもしてなかった。なのに……なのに、何でこんなに苦しいんだろう? こんなに苦しいんだったら、どうして好きになんてなったんだろう?」
彼女を抱き締めたい。
こみ上げる強い衝動を抑えつけるのに精一杯で、言葉を探す余裕がなかった。ずっと押さえ込んでいた気持ちが、自分で制御出来なくなってくる。どうしても彼女が好きだ。
駄目だって。耐えてくれよ、俺……。
(か、和希の彼女和希の彼女和希の……)
もはや『呪文』じゃなくて『呪い』だ。
懸命に己に呪いを掛け続けるが、そんな俺の渾身の努力は、次の瞬間の彼女の一言で消し飛んだ。
「啓一郎さんのこと、好きになれば良かったのに」
理性が一瞬吹っ飛んだ。
腕の中に、由梨亜ちゃんの温もり。壊れそうに華奢な細い肩。
……好きだよ。本当に。
俺だったら――……。
「啓一郎さ……」
「俺にしちゃいなよ」
戻って来た理性が、駄目だと告げる。こんな時間、こんな状況、怯えさせるだけだ。そうは思う。わかってる。でも、止められない。
「……俺だったら、由梨亜ちゃんだけ見てるのに」
声が、掠れた。動悸が早いのが自分でわかる。由梨亜ちゃんが俺の腕の中、体を強張らせた。俺の頬にあたる柔かい髪から仄かにシャンプーの香りが立ち上り、頭が麻痺しそうになる。激しくなる雨の音だけが耳に届いていた。
「啓一郎さん……」
泣きそうな由梨亜ちゃんの声に、はっと我に返った。
俺の腕の中、かたかたと小刻みに体を震わせている。……怖がってる。
そのことに気づいて衝撃を受けた。……駄目なんだよな。わかってるよ。俺じゃあ、駄目なんだ。どんなに彼女を想ったって、俺じゃあ彼女は駄目なんだ。
ありったけの精神力を振り絞って、体を引き離す。
「ごめんね……」
驚いて涙は止まってしまったらしい。信じられないものを見るような、微かに強張った顔で、由梨亜ちゃんが俺を見つめていた。顔を、逸らす。
「乾いたんじゃない、洋服」
「あ……」
顔を背けたまま、俺は全てを誤魔化すように立ち上がった。まだ鼓動は速い。そしてそれ以上に衝撃が大きい。
何を言われるよりも、彼女の答えが伝わった。体が震えるほど、怖がらせてしまう。俺が和希なら、きっとそんなことはないんだろう。
(知ってるよ……)
そんなこと、百も承知だよ。わかってるよ。わかってるけど。
……わかってるけどッ……。
「着られそうだよ。もう、大丈夫なんじゃないかな」
ハンガーにかけた由梨亜ちゃんの服を確認すると、もうほぼ乾いていて着られる状態だった。努めて感情の滲まない声で告げる。彼女を見ないままハンガーから洋服を外し、それを手渡そうと振り向いた瞬間、由梨亜ちゃんがびくりと体を震わせた。
「そんなに、怖がらないで」
無理矢理の笑顔。
自分のせいとは言え、これはやっぱりショックだ。
「あ、そ、そういうわけじゃ……」
俺から洋服を受け取り、由梨亜ちゃんが俯く。
「冗談だよ」
冗談なんかじゃないけど。――本当に君のことが好きだけど。
きっと君は、そうであって欲しいと思ってるんだろうな。だから、それでいいよ。
「冗談。ごめんね。脅かし過ぎちゃった。……忘れて」
由梨亜ちゃんが無言で顔を上げる。怯えるような顔付きは、少し和らいでいた。
「バスルームで着替えておいで。上着は、俺のを貸してあげる。そろそろ送るよ」
「……はい」
由梨亜ちゃんがバスルームに姿を消すと、俺は壁に寄りかかって座り込んだ。左手で顔を覆う。由梨亜ちゃんを腕の中に抱き締めた感触がまだ残っている。俺の中で抑圧されていた彼女への想いは、想像以上に育っていたみたいだ。俺自身が止められなかった自分に驚いている。
……泣きてぇよ。どうして俺じゃ駄目なんだよ……。
何でもしてあげるのに。泣かせない。大切にする。なのに、実際はあんなに怖がらせる。怖がらせたいわけじゃない。やり場のない想いに、まじで泣きそう、俺。
左手で顔を覆って瞳を閉じたまま、深呼吸をした。落ち着け。駄目だろ、こんなんじゃ。
罪悪感と自己嫌悪が湧き上がる。俺は、彼女の気持ちをきっと裏切ってしまったんだろう。
立ち上がって、クローゼットを開けて由梨亜ちゃんに貸せそうな上着を引っ張り出していると、バスルームの扉が開いた。
「お待たせしました」
儚い細い声で、俺から視線を逸らしたまま言う。その表情が、まだ俺を怖がっていると告げている。
「大丈夫? ちゃんと乾いてた?」
「はい」
「これで、良いかな」
「あ、大丈夫ですよ……」
「風邪ひくから。スタジオに来る時にでも持って来てくれれば良いし。顔、出しにくかったら美冴ちゃんに渡してもらっても」
「あ、それは……」
由梨亜ちゃんが口篭る。あ、そうか。何で俺のジャケットなんか持ってんだってことになるよな。
「ええとー……ま、宅配便とかで送りつけてくれても良いし。最悪ポストに突っ込んでくれれば」
「……入らないです」
俺の言葉に、由梨亜ちゃんが顔を俯かせたまま上目遣いで笑った。口元に浮かべた笑みが自然で、ようやく俺はほっとした。
「帰ろう」
新高円寺駅まで行って電車に乗り、新中野の由梨亜ちゃんの家に送り届けるまで、俺も由梨亜ちゃんも無言だった。結局由梨亜ちゃんに貸していた上着は、彼女の家の前で俺が受け取り、そのまま脇に抱えて戻った。
(怯えてた、よな)
帰りの電車の中で深く溜め息をつく。
「冗談だ」つったって、あの状況下信じられるわけがない。俺は自分から、彼女にとっての「頼れるお兄ちゃん」の位置までも放棄してしまった。あれだけ自分に『呪い』をかけたにも関わらず、女の子の一言は恐ろしい。
落ち込みながら部屋に戻った俺は、由梨亜ちゃんが鞄を落としてきたままだったことを思い出した。
由梨亜ちゃんに貸していた上着を玄関に放り出し、再び外に出る。駐車場に向かい、単車に跨うと、さっきシャワーを浴びてせっかく温まった体がどんどん冷えていくのがわかった。だけど、和希の家の付近でバッグを探すんだったら単車の方が圧倒的に便利だろう。メットをかぶってるし、撥水加工のジャケットだから、いーや別に。
どこか、自虐的な気分もあったのかもしれない。
自己嫌悪に駆られた、自分を痛めつけたい衝動。
(馬鹿みたいだな、俺)
まじで。
どるんっと重い唸りを上げて単車が全身を震わせた。その振動を感じながらハンドルを握る。
彼女が落として来たバッグを探すことが、自分にとって何かの償いのような気がした。
和希の住むアパートの辺りは、住宅街でひどく暗い。
道を歩く人の姿もなく、一向に止む気配のない雨が一層雰囲気を暗く見せる。
エンジンを切って停めた単車を降りると、俺はシートの下に放り込んであった折り畳み傘を引っ張り出した。雨が傘を叩く音が、ひどくうるさく感じる。
和希の部屋は明かりが灯っていない。この時間にもう寝ているとは考えにくいし、どこかに出かけているんだろうか。なつみを送ってそのままどこかに行ったのかもしれない。
ここで和希と遭遇したら、俺って何モンなんだろう。そう思いながら、和希の家の周辺をぐるーっと周ってみる。こんな深夜に、果たして俺はなぜ男友達の家の周囲を徘徊せにゃあならんのだろうと……しみじみ。
(和希、どういうつもりなんだろうな)
雨の音のせいか生活音さえも聞こえず、大通りからも離れているので車の音もしない。静か。いや、雨がうるさい。
由梨亜ちゃんのことを考えながら、俺はしばらくバッグを探して歩き回ってみたけれど、それらしきものはどこにも見つけることが出来なかった。誰かが警察に落し物として届けたんだろうか。……って、そうか。それもアリか。
ようやくそう思い当たって、単車を停めたところまで戻る。
それから南阿佐ヶ谷駅付近の交番に行ってみたが、結果としてはそちらも空振りに終わった。該当する落し物は、特に届いていないということだ。
しょーがないかー。
交番を出て、空を見上げる。
体はすっかり冷え切り、白い息が雨の向こうに消えていく。
せめて彼女のバッグを見つけたかったけどな。
そうため息をついた脳裏に、怯えたような由梨亜ちゃんの顔が、浮かんで消えた。
――啓一郎さんのこと好きになれば、良かったのに。
それでも。
それでも君は。
(和希を選ぶんだ……)
行き場のない想いを持て余したまま、雨の中、俺は再び単車に跨った。
◆ ◇ ◆
風邪を引いた。
当たり前と言えば当たり前だが。
ここ二日ほど、俺は一人でロフト上の布団に包まり、ぼーっとした頭でうとうとして過ごしている。
(あー……)
遠くで何かが聞こえる。
繰り返される音で次第に意識を引き戻されたものの、残念ながら朦朧としている。良く良く聞いてみればそれはチャイムの音であるような気がしなくもなく、ようやく俺はずるずると重い体を引きずり起こした。
のろのろと玄関へ向かってドアを開ける。そこに立っていたあゆなは、俺の状態を見るや否や、こう宣った。
「こりゃまたひどい状態だわね」
「あー……悪いね……げほげほ」
俺が呼んだんだった。そう言えば。
昨日、そして今日と、身動きが出来ずにいる。と言うことは、何も口にしていない。食欲はないものの、このままでは死んでしまうと言う危機感に迫られ、進退窮まった俺はあゆなにヘルプを求めた。何とかこれで、孤独死は回避出来そうだ。俺の最期を看取ってくれ。
両手にスーパーのビニル袋を抱えているあゆなは、よろよろと部屋へ戻っていく俺の後を追って中に入ってきた。再びロフトへ上る気力がなく、俺はむしろ毛布をこちらへ引き摺り下ろして、そのまま床に丸くなる。
「ちょっと。粗大ゴミみたいにそんなトコに転がらないでよ」
「ひどい」
「どうしたの、風邪なんて。珍しい。何とかは風邪を引かないんじゃなかったの?」
病人に対しても手控えのないこの仕打ち。
「雨に打たれた」
「雨? 一昨日の?」
言いながらあゆなはキッチンへ向かうと、床に下ろしたビニル袋の中身を冷蔵庫に移し替え始めた。
「何よ? 修行?」
「……由梨亜ちゃん」
「……あ、そ」
そんなに呆れたような声を出すなよ。
そう思うものの、反論をする気にもなれない。鼻をぐずつかせながら、黙ってティッシュに手を伸ばす。
「俺、言っちゃった」
鼻をかんでティッシュをゴミ箱に捨てる。ゴミ箱のすぐ脇、ステレオボードの上にころんと置かれたピンク色のヘアクリップが目に入った。あの日の由梨亜ちゃんの忘れ物だ。
「何を? ……え? 由梨亜ちゃんに?」
ざらざらと米を研いでいたあゆなが、驚いたような声を上げる。振り返ったのかもしんないけど、毛布に頭を突っ込んでいる俺にはよくわからない。ああ、頭がぼーっとする……。
「ぞう……」
「ぞうって……」
で?とあゆなが再び作業を続けながら俺を促した。
「怖がられちゃったみたい、俺」
「ああそう。それは良かったわねえ」
「……何か悪意感じる」
「あなたを好きだと言ってる女に、ぬけぬけとそんな愚痴こぼせるあんたも相当なもんだと思うんだけど」
「だってあゆなって、繊細さと無縁な気がするんだもん」
「……濡れタオルで顔を覆ってあげようか?」
殺される。
「何よ。それで落ち込んでんの?」
米を研ぐ音がやみ、ざあーっと言う水音、少ししてからトントンと俎板の上で包丁を使う音がした。
(何かこういうのいいな……)
安心する感じ。
高校の時から家を出て一人暮らしをしている俺は、こうして誰かがごはんを作ってくれていると言う空気感をしばし体験していない。
そんなことをぼんやり思っていると、その音が途切れた。代わりに、足音が俺の頭上まで近付いてくる。
「ねえ。ちゃんと布団で寝たら?」
「寝飽きたからやだ」
「子供じゃないんだから」
布団の上からまた、あゆなのあきれたような声がする。足音が遠ざかり、再び俎板の上で何か切ってる音が聞こえ始める。
「何か誰かがメシ作ってくれる空気って安心する」
毛布からずぼっと顔だけ出してまたティッシュに手を伸ばしながら言うと、あゆなが振り返った。
「家戻ったら? じゃあ。近いんだから」
「家戻れるくらい元気なら、その前にコンビニ行って何か食ってる」
それもそうか、とあゆなが呟いた。湯気の立っている鍋に、俎板の上で刻まれた野菜をざらざらと流し込んでいるその後姿をぼんやりと眺める。
「薬は? 飲んだの?」
「飲んでない」
「駄目じゃない。食べたら飲むのよ」
「ない」
「買ってきたからっ!」
包丁と俎板を洗いながらあゆなが半ば怒鳴った。……何から何まですみません、ホント。
「あゆなって普段粗暴なのに、時々優しいよね」
「……今すぐこの鍋ごとゴミ箱に突っ込んで帰っても良いのよ、わたしは」
「……普段から、でした」
よろしい、と呟いてあゆなは俎板と包丁を綺麗に拭いてしまう。屈みこんで鍋をかけている火の調整をしながら、俺に問い掛けた。
「啓一郎もそうだけど、一矢も和希も、何で家を出てるの? 高校生の武人くんとお嬢様の美保さんはともかくとして……みんな東京出身でしょ」
「うん……」
「実家いた方がお金かからないし楽なのに」
……もう思い切って鼻にテッシュ詰め込んじゃおかな。
あゆなの言葉を半ば聞き流し、ボックスティッシュをためつすがめつしてしみじみとそんなことを思う。そう言っているそばからまた鼻がぐずつき、ティッシュを引っ張り出した。くそ、面倒臭い。
そんな俺に、あゆなが冷たい視線を投げて寄越した。
「いくらなんでもやめてよね」
何でわかったんだろ。
「ファンのコが見たら泣くわよ」
「見せないもん」
はあっとこれみよがしに溜め息をつくと、何か飲む?と改めて俺を振り返る。
「……水くらさい」
「はいはい」
壁に背中を預けた姿勢であゆなから水のグラスを受け取って一口飲むと、俺はずぶずぶと床に沈みこんだ。
ええと、何の話だっけ。
「和希はねえ……二年前くらいに両親が仕事の都合で千葉の結構南の方に引っ越しちゃって」
「ああ、それで残る為に一人暮らしを始めたの?」
「や、何か元の家の隣に母親の兄弟が住んでたらしくって、最初は弟と一緒にそこに厄介になってたんだってさ。今も弟はそこにいるみたいだけど。でもまあ、和希は年も年だし、出ちゃった方が気楽だしっつって」
「ふうん」
あゆなは、カップに自分の分だけコーヒーを淹れて戻って来た。俺が転がっているすぐ隣にぺたんと座る。
「一矢は……まあ、いろいろと」
一家離散なんてあちこちで俺が吹聴する話じゃない。
「啓一郎は?」
「俺は……」
問われて、口を噤んだ。
ぼうっとする脳裏に蘇る光景。
毎日、俺の部屋から見えていた幼馴染の克也の部屋。あいつが生活し、あいつと笑い合っていたあの部屋。
克也が死んで、俺が中学を卒業する頃には家族で引き払ってどこかへ行ってしまった。
今は、誰も住んでいない。
「……あの家に、いたくなくて」
主のいない克也の部屋が見える、俺の部屋に。
「啓一郎の家族って、仲良くなかったっけ?」
「仲良いよ。別に、家族に不満があるわけじゃないけど」
「家族に不満があるわけじゃないのに家出てるの? 高校の時からここに住んでるんだったっけ」
「うん」
あゆなが不審そうに眉を顰めた。
「渋谷に実家があって、渋谷の高校に通ってたのに?」
「うん。……渋谷、嫌いなんだ」
言いながら目を瞑る。
あの街は克也との想い出が多すぎて、嫌いだ。だけど、やっぱりいつもあの街に戻ってしまう。
「……熱、測った?」
言葉を濁す俺に、あゆなは言いたくないと言うことを察したのか突然話題を変えた。俺も同じ話を続けたいわけじゃないので、あっさり路線変更してそれに答える。
「測ってない」
「体温計は?」
「どっかその辺の引き出し」
あゆなが俺の言葉に引き出しを漁る。「何よこんなもん捨てなさいよ」と何かを勝手にゴミ箱に放った。……おい。
「あったあった」
「今、何か捨てた?」
「ゴミ」
「俺に聞いてからにしてくれる?」
「ほら、体温計」
聞けよこら。
「……さんきゅ」
受け取って電源を入れると脇の下に挟む。
あゆなが無言で立ち上がった。キッチンへ行く足音が聞こえる。カチャカチャと何か音が聞こえ、やがて俺の顔の下からピピピピと電子音が聞こえた。
「三十九度五分」
お盆を手に戻って来たあゆなに体温計を差し出すと、あゆなは眉を顰めた。
「あんねえ……こんだけ熱あるものを、何も食べず薬も飲まず病院も行かず……あんたあほなんじゃないの?」
他に言い草はないものか。
のそのそと体を起こす。手を合わせ、あゆながテーブルに置いてくれたレンゲをとりあげると、雑炊を掬った。
「あほって……。いただきます」
「だって二日間寝ててこんだけ熱あるってことは、最初はそれ以上だったかちっとも良くなってないかどっちかじゃないのよ。儚いノーミソが沸騰して、いよいよなくなっちゃうわよ」
もう好きに言ってくれ。
反論する気もなく、俺はもそもそと雑炊を掬っては口に運んだ。熱のせいで、正直味なんぞ良くわからない。