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【ZERO】ZERO-Crystal Moon-  作者: 市尾弘那
16/29

第5話(1)

 疲れた時や、ふと不安定な未来を思う時、彼女の笑顔を思い出したりする。

 俺の隣にはいてくれない――そう知っているのに、その笑顔を見たいと思う。

 思うだけで、心の奥底にしまい込む。

 考えてもしょーがないだろ。

 繰り返し、自分に言い聞かせる。

 彼女が想う人は俺じゃないんだ。

 そうわかっているのに。

 ……きついよなあ。きっついよ。

 いーじゃん。彼女が幸せなら、それで。

 いつかはこんな気持ちだって、笑い話になる。ずっとこんな思いをし続けるわけじゃない。

 そう言い聞かせて、その気になって、考えるのをやめて、そして……結局またため息をつく。

 ……やっぱり、君がいい。

 君の、そばに、いたい。


          ◆ ◇ ◆


 別に、ミュージシャンやフリーターの全てが自堕落な生活をしているわけじゃない。

 だけど、どうやら俺は自堕落を極めた生活をしているような気がする。

 バイトだけは最低限の生活費を稼ぐ為にせこせこやってはいるが、それ以外の堕落さ加減っつったら……俺、夢が叶わなかったら真っ当な社会人になれるんだろうか。否、なれる自信がない。

 バイトが休みで、予定が白紙のまま一日を過ごした俺は、何をしていたかと言えば完全に家に引き篭もっていた。

 日が昇りきってからベッドに潜り込み、夕方間近になって目が覚めてからこっち、ずっとヘッドフォンをしてギターをしゃかしゃか。

 いいフレーズでもないかなーと思いながら心行くままにギターの弦を弾き、それに飽きると今度は和希から投げられっ放しで放置プレイだった歌詞の作成に励み。

 んで。

「ふわーぁあーぁあああー」

 そのまま眠りこけたらしい。

 ギターアンプに電源を入れたまま、頭にヘッドフォンもつけたままで床に転がっていた俺は、ポケットに入れっ放しだった携帯の振動で目を覚ました。

 良く寝るな、俺。

 寝ない時は二日や三日寝ない癖して、放っておくとこうして一日中寝ている時もある。全く『規則正しい生活』とやらはどんなものだっただろう?

 あくびをしながら携帯を引っ張り出すと、俺はヘッドフォンを外して通話ボタンを押した。

「はいはい」

 相手も見ずに答えながら、立ち上がる。開け放したままの窓が、少し冷たい風を室内に招き入れていた。

 もう十月だもんな。秋だよ、すっかり。発狂寸前にまで追いやられそうだった暑さは、どこにいったんだろう。

 夜ともなれば空気はひんやりしており、加えて雨が降り出していた。幸い吹き込んできてはいなかったが、雨と夜風のせいで部屋の空気は冷え切っている。

 体をぶるっと震わせて、俺は窓に手を掛けた。結構激しい雨に目を向けて、それから窓を閉める。

 窓を閉めても、雨音はガラス越しに響いた。そして、何の応答もない受話器の向こうからも激しい雨音が届く。

「……」

 あれ? 無反応ってどういうこと? 嫌がらせ?

 軽く眉根を寄せ、一度携帯を耳から離した。ディスプレイに表示されている名前を確認しようと思……えっ? はっ? 何っ?

「由梨亜ちゃんっ?」

「……ちろ……さ……」

 ぎょっとして大声で呼びかけると、ようやく電話の向こうから細い声が聞こえた。

 今にも途切れてしまいそうな、頼りない微かな声。だけど、確かに由梨亜ちゃんの声だ。

「ど、どうしたの?」

 彼女の声は、ともすれば背後の雨音にかき消されてしまいそうに儚い。まるで泣いているように感じられて、何が何だかわからないまま、俺は焦った。

「こんな時間に……外?」

 言いながら時計に目をやる。無愛想なデジタル時計は、二十一時も半ばを過ぎていた。間もなく二十二時だ。

 高校生の女の子が外にいるには、少し遅い時間のような気がする。もちろん人にもよるんだろうけど、少なくとも由梨亜ちゃんは夜遊びをするタイプではないし。

 何か、あったのか?

「外……」

「どうしたの? 何かあった?」

 掠れた短い応答に、出来る限り優しい声で尋ねる。

 途端、由梨亜ちゃんがしゃくりあげるような声が聞こえた。

「由梨亜ちゃん?」

「はっ……っく……はい……」

「……泣いてるの?」

 泣いてる。

 そう気づいて、自分でも驚くほど動揺した。心臓がどくどくと音を立てる。何かあったんだ。何が、あったんだ?

「今、どこ?」

 尋ねる。少し黙っていた由梨亜ちゃんは、数回しゃくりあげるようにすると、ややして細い声で「阿佐ヶ谷の駅前」と告げた。

 阿佐ヶ谷……和希の家は、南阿佐ヶ谷だ。JRの阿佐ヶ谷駅からも、歩いて行ける距離にある。

「すぐ、行くから。雨に濡れない場所にいて」

「はい……」

 片手に持ったままだったヘッドフォンを放り出し、俺は手近にあったジャケットとメットを引っ掴んだ。財布と鍵、それから携帯だけポケットに突っ込んで、外へ飛び出す。

 雨は、思いの外、激しい。地面を叩きつけるように音を上げて跳ねるしぶきに顔を顰めながら、俺は近くの月極駐車場へ向けて走った。全身があっと言う間に濡れそぼるが、構わずにエンジンをかける。

 ここからだったら、単車で五分かかるかどうかと言う距離だ。

 この雨の中、泣きじゃくるほどの悲しい気持ちで佇んでいる由梨亜ちゃんを思うと、一刻も早くそばへ駆けつけたい。その衝動のまま、俺は五日市街道を阿佐ヶ谷方面へ疾走した。途中、大通りを逸れて住宅街の中を走る狭い道を抜ける。信号に引っかかったりしない分、こちらの方が多分早い。

 予定通り五分少々でJR阿佐ヶ谷駅の前まで辿り着き、俺はロータリーで単車を停止させた。屋根のある駅の方まで走りかけ、階段のすぐそばに由梨亜ちゃんの姿を見つける。俺も人のことは言えないが、全身ずぶ濡れの彼女は、やけに心細そうでいたいけに見えた。

「由梨亜ちゃん」

 周囲に目などくれず、ただ真っ直ぐ由梨亜ちゃんの方へ駆け寄る。俺の声に、由梨亜ちゃんが顔を上げた。

「待たせてごめんね。ずぶ濡れだ……風邪引く」

 いつも優しげな顔は、今は青白く、どこまでも頼りない。その様子の全てが、俺の中の衝動を煽る。

 何かしてあげたい。俺が守ってあげたい。……独占、したい。

「ごめ……さい……」

 由梨亜ちゃんが掠れた声で謝る。俺の顔を見て安心してくれたんだろうか。収まっていたようだった涙が、再び由梨亜ちゃんの頬を伝い落ちた。

 腕を伸ばせば抱き締められる距離。

 それだけの距離で、由梨亜ちゃんが肩を震わせて泣いていることが、俺の心を強く惑わす。

 抱き締めたい。――友達の、彼女でさえなければ……。

 俺は一度強く目を瞑ると、込み上げる衝動を押し殺した。

「寒いから、これ、着て」

 背中の方に腕を回し、濡れて寒そうな肩にジャケットを羽織らせる。外側は雨の中を単車でかっ飛ばしてきたせいで濡れているけど、中は濡れていない。

 両手で顔を覆って俯いていた由梨亜ちゃんが、俺の言葉に顔を上げた。

「啓一郎さんが、寒いでしょ……?」

「平気。……どうしようか」

 尋ねながら、鼓動が速くなる。

 これだけ二人ともずぶ濡れでは、どこの店でも嫌がられそうだ。それに泣いている彼女の話をゆっくり聞いてあげるには、余り人目がない方が多分良いんだろう。

 そう思いながら、自分でもどこか言い訳じみているような気がする。

 心のどこかで、俺は、彼女を連れて帰りたいと思っている。

 由梨亜ちゃんは、言葉もなく俺を見上げた。

「あの……とりあえず、俺の家とか、行ってみる?」

 口に出してみると、ややしどろもどろになった。だっせぇ。だけど反面、「そりゃやべぇだろ」と思う気持ちだって本音なんだ。

 時間は間もなく二十二時。一人暮らしの俺の部屋に、和希の彼女を連れて帰って良いとは思えない。

 だけど、由梨亜ちゃんが掠れた声で答えた。

「いいんですか」

「俺は、いいんだけど……」

 目をそらしながら、口篭る。ずぶ濡れの服は由梨亜ちゃんの体に張り付いて、その体の起伏を忠実に再現していた。正直、目のやり場に困る。

「その……時間も、時間だし。俺、一人暮らしだし……」

 そうだよな。そうだよ。良くない。良いわけがない。大体俺、自分に自信がもてない。

 口にして、ようやく少し諦めがついた。泣いている彼女につけこむような真似は良くない。和希だって、知ったら不愉快なはずだ。そうだよ。うん。やめよう。やめやめ。諦めろ、俺。

 自分に言い聞かせて、俺は笑いを作りながら顔を上げた。

「や、でも良くないね。うん。やめよう。どっかその辺の店でも……」

「啓一郎さん家、連れてって下さい」

 どきーーーーっ。

「え、え?」

 動揺し過ぎて視線が泳ぐ。そんな俺を見て、由梨亜ちゃんは泣き疲れたように大きな目を細め、頼りない笑顔を向けた。

「こんな格好じゃあお店に迷惑かもしれないし……あ、啓一郎さんに迷惑かけちゃうか……」

「いやいやいや、俺は本当に全然構わないんだけど。でも、あの……俺の部屋っつーのは、何つーか、由梨亜ちゃんが落ち着かないかなって言うか……」

「大丈夫です」

 たじたじで口篭る俺の言いたいことを読んだらしく、由梨亜ちゃんは作り笑顔のままでため息のように続けた。

「啓一郎さんのこと、信じてますから」

 あ、釘刺された。

 真っ直ぐ見上げる視線を見つめ返して、俺も小さく笑った。信じられちゃあ、裏切るわけにはいかないよな? 頑張れよ、俺……。

「わかった。じゃあ、とりあえず行こう。このままじゃ、風邪引く」

 俺のジャケットを由梨亜ちゃんにしっかり着せて、単車まで連れて行く。シートを開けて、中に放り込んである雑巾で座面を拭うと、半ヘルを渡した。

「濡れちゃうけど、すぐだから。しっかりつかまっててね」

「はい」

 由梨亜ちゃんがしっかり俺に掴まったのを確認して、俺は単車をゆっくり発進させた。

 背中に、由梨亜ちゃんのぬくもりを感じる。何の意味もないとは言え、俺の体を背後から抱き締めるように回された由梨亜ちゃんの腕が鼓動を速くする。

 ばれないだろうか。ばれるかな。……気づいて。でも、気がつかないで。

 こんなに好きなのに……。




 行きはとりあえずかっ飛んだけど、帰りは由梨亜ちゃんを乗せているのでそうはいかない。雨で路面は滑りやすく、視界も悪い。

 事故ることのないよう気をつけながら裏道を通り、自分の住むマンションの前で一度由梨亜ちゃんを下ろすと、俺は単車を停めて再びマンションまで戻って来た。寒そうにエントランスで佇んでいる由梨亜ちゃんを促す。

「ごめんね。入ろう」

 俺も由梨亜ちゃんも、そのままプールに飛び込んできたみたいにずぶ濡れだ。体温も奪われて、体は冷え切っている。

 由梨亜ちゃんを促して部屋に入ると、俺は取るものも取りあえず、エアコンを強めにかけてタオルを引っ張り出した。

「とりあえず、拭いて」

 一本を自分の頭に引っ掛けて、一本を由梨亜ちゃんに渡す。それを受け取りながら、由梨亜ちゃんが少し情けない顔をした。

「ごめんなさい。床とか、濡れちゃって」

「そんなん俺もだから。気にしないで。由梨亜ちゃん、寒い? エアコンの風のあたる方に……」

 って言っても、濡れた服を身に付けている手前、温かくなるにも限度がある。

「着替え……」

 って、待て、俺。着替えるのも、それはそれで俺の精神衛生上非常に宜しくないような。

 密かに葛藤しつつ、とりあえずはジャケットをハンガーにかけた。由梨亜ちゃんに貸していた俺のジャケットと、由梨亜ちゃんの薄手のコートだ。……うおあ。絞れるぞ、これ。

 部屋の中に吊るしておくにはあまりに勇気がいったので、水が滴り落ちなくなるまで、一時的に玄関のハンガーフックに引っ掛ける。余り使ったことがないけど、こういう時に便利なんだな。ぽたぽたと水滴が水溜りを作っているが、ま、玄関だから良いでしょう……。

 当面出来ることを終えてしまい、俺は再び『濡れ鼠である現実』と言う問題と向き合った。

 つまり、その……普通に考えれば最善の方法はシャワーを浴びて着替えることなんだけど。へ、変な意味じゃなくっ!

「……シャワーとか、使う?」

 凄いこと言ってる気がする、俺。

 自分の言葉に自分で動揺していると、ぼんやりと立ちすくんでいる由梨亜ちゃんも、さすがに躊躇した表情を見せた。

「あ、えと……」

「いや、わかるよ。わかります。わかるんだけど。……でも、このままじゃあ風邪引くし……その、別に無理にとは言わないけど、まあ良かったらってことで……。俺、覗いたりしないし」

 次第に赤面して俯きながらしどろもどろに言うと、由梨亜ちゃんがくすりと笑った。弱々しく。

「……そうですね。迷惑じゃなければ、お借りしても良いですか」

「あ、うん。それは全然……。じ、じゃあとりあえず俺ので悪いけど、服が乾くまで着替え……」

 買ってまだ一度も袖を通していない、トレーナーとハーフパンツを手渡す。礼を言って受け取ると、由梨亜ちゃんはバスルームへと姿を消した。

 とりあえず床に俺たちが落とした水滴を拭わなければと思うが、雑巾代わりになっている古いタオルは浴室の方だ。今取りに行ったら、俺は生涯軽蔑される。

 仕方がないので、濡れたトレーナーを脱いで、応急処置としてそれで拭ってみた。ぐはっ。一層広がりやがった。

 ため息混じりに諦めて、キッチンの手拭になっていたタオルで床を拭う。雑巾行きが、これでまた一つ増えてしまった。

「あ、飲み物……」

 由梨亜ちゃん、何飲むかな?

 冷蔵庫を覗いてみるが、どうやらろくなものがない。当たり前だ。家主である俺が、ろくなものを購入した覚えがない。

 コーヒーで良いかな……。

「あ、そう言えば」

 ポン。

 いつだかあゆなが、ココアなんて気の利いたものをくれた気がする。

 思い出して流しの上の棚を覗き込むと、めでたく発見された。意気揚々とポットにお湯を沸かす。

 その間にも、バスルームの方からはシャワーの音が響いていた。……うぅ。考えるな。考えると鼻血を噴くぞ。考えてはいけない。

 極力シャワー音に耳を塞ぎながら、玄関の方へ向かう。先ほどハンガーに引っ掛けた由梨亜ちゃんのコートの水分をタオルで吸わせ、エアコンの前に広げて干した。

 すると、やることがなくなった。

「はあ」

 何か、どっと疲れたな。

 濡れたままのジーンズを脱いで部屋着にしているパンツに履き替えると、床に座り込んでため息が漏れた。

 煙草を引っ張り出してくわえながら、散らばしっ放しだった譜面をまとめて隅に寄せる。煙草に火をつけ、吐き出した煙の向こうに由梨亜ちゃんのコートが映った。

 あ、やべえ。臭い、うつっちゃうかな。濡れている衣類に、煙草の臭いは大変つきやすい。

 そう気がついて、ベランダへ飛び出す。

(のあーッ……)

 途端、猛烈な雨と風が吹きつけて、剥き出しの腕にぶわーっとトリハダが立った。さ、寒い。

(せめて何か着れば良かった)

 さすがにTシャツ一枚の上にバスタオルを羽織っている状態では、何の防寒にもなってない。これじゃあ風邪引くのは俺だろう。

(や、やっぱ動揺してんな、俺)

 くぅ。努めて冷静を装っているつもりだったけど。

 全身に鳥肌を立てたまま、俺は風雨に曝されて煙草を吸い続けながら頭を抱えたくなった。体がどんどん冷えていく。

 でもさ。

 落ち着けったって、無茶な話じゃないか?

 良く考えてもみろ。

 由梨亜ちゃんが今、俺の部屋で、シャワーを浴びているんだぞ?

(な、何でこんなことになったんだろう……)

 知らないうちに何て偉業を成し遂げてしまったんだろうか、俺。いや、そういう話じゃない。

 俺の顔を見た瞬間に涙を溢れさせた由梨亜ちゃんの悲しい顔を思い出す。思い出すだけで、胸が痛くなる。

 どうしたんだろう。何があったんだろう。俺に何がしてあげられるんだろう。

 俺が解決してあげられるようなことなら何でもしてあげたいが、してあげられるだろうか? それとも何も聞かない方が良いんだろうか。

 ため息と一緒に吐き出した煙が、激しい雨にあっと言う間に飲まれて霧散する。それを眺めながら、いつかの由梨亜ちゃんの声が脳裏に過ぎった。

 ――こんなお兄ちゃんが欲しかったな

 俺は、彼女にとって『お兄ちゃん』なんだな。

 だから、こんな時間に一人暮らしとわかって俺の部屋に来ているんだろう。警戒する対象じゃない。『男』じゃない。多分。

 そう思えば、胸を締め付けるような痛みと悔しさがこみ上げる。自分を男として意識させてみたいと言う欲求が膨れ上がる。

(駄目だってば)

 雨の中、俺を頼ってくれたその気持ちを考えろ。きっと彼女にとって、『安心出来る存在』と言う位置付けではあるんだろう? だったら、それを裏切るような真似はしちゃいけない。間違えるなよ、俺……。

 どうしたって好きな女の子と自分の部屋で二人きりと言う状況に抱きたくなる希望を出来る限り叩き潰しつつ、心の中で呪文のように「和希の彼女だ、和希の彼女」と繰り返し、深いため息と共に部屋に戻る。と、ちょうどバスルームの方でカタン、と音がした。

 扉が開いて、俺の服を身につけた由梨亜ちゃんがバスタオルを片手に出て来る。

(うわああああああああ)

 俺の服を身に付けて佇む、湯上りの彼女。

 いくら俺が小柄とは言え、由梨亜ちゃんにはさすがに大きいらしく、少しだぼついてるのがまた猛烈に可愛い。

 ……くぅ。俺、いきなり間違えそう、やっぱ。

 熱いシャワーを浴びて温まったらしく、さっきまで白かった由梨亜ちゃんの頬がほんのり上気していた。ベランダから戻って来た俺に首を傾げる。濡れた髪と素朴な表情と上気した頬とで、もう、あの、何つーか……くそぅ、可愛いぞ。もう他の言葉では表現しきれないくらい。頭が猛烈にくらくらするよ、ちくしょー。

「ベランダにいたの?」

「え? ああ、うん。部屋で煙草吸ってると、由梨亜ちゃんのジャケットに臭いが移るし」

 言いながら窓を閉めると、由梨亜ちゃんが怒ったような顔つきをした。

「そんな! 啓一郎さんが風邪ひいちゃいますっ。いいんです、そんなこと気にしないで。自分の部屋なんだからっ」

「あ、はい。いやでも」

「いいのに。本当に。こんな時間に突然来て、迷惑かけてるのはわたしなんだから……」

 何をおっしゃいますか。迷惑なんて微塵たりともないと言うのに。いっそここに住んでも良いくらいですよ。

 そんな妄言が頭に過ぎっている俺に気づくはずもなく、由梨亜ちゃんは沈んだ表情のままで続けた。

「シャワー、ありがとうございました。啓一郎さんも、浴びてきて下さい……」

「あ、うん」

 確かに浴びたい。びしょびしょの体をリセットしたいのもそうだが、脳味噌の方も出来ればリセットしたいものだ。

「由梨亜ちゃん、ココア飲む?」

「え?」

 濡れた服を掛けるようにハンガーを渡し、由梨亜ちゃんにクッションを勧めてキッチンへ向かう。先ほど引っ張り出したココアをカップに入れてお湯を入れると、床に座り込んで膝を抱えている由梨亜ちゃんに持って行った。

「どぉぞ」

「あ……」

「飲んでて。適当に、CDかけたり雑誌見たりしてて良いから」

 カップを受け取る由梨亜ちゃんの顔が、一瞬くしゃりと歪む。泣く寸前のようなその表情に焦るが、辛うじて、笑顔に変わった。

「ありがとう」

「いいえー」

 努めて軽い口調でひらひらと片手を振ると、バスルームに入る。

 今し方、彼女が入っていたバスルームは、まだ熱気と湯気とボディソープの香りが……。

(あーーーーーーーーーーーーー……)

 俺、鼻血噴いても良いですか?

 ちょっと余計な想像力がいろいろと働いちゃうんですけど。

(参ったなあ、もう……)

 手を触れることさえ出来ない好きなコが今さっきまで入っていたバスルームと言うのは、ちょっと拷問に近いよ。

 己の煩悩に悩まされつつ、衣類を脱ぎ捨ててシャワーを捻る。シャワーから吹き出る熱いお湯に、冷えた全身が次第にほぐれていくような気がした。何だか、ようやくほっと一息ついた気分だ。

 何があったのかな。

 和希が浮気したとか? まさか。和希に限って、ちと考えにくい。でも他にあんな悲しい顔をする理由って何だろう? 何か暴言を吐いたとか? あの和希が? それもないな……うー、わからん。それとも和希と全然関係なかったりして。

 結局うだうだ考えながらシャワーを浴び終えて、バスルームを出る。

 部屋に戻ると、由梨亜ちゃんは同じ場所でぼんやりと膝を抱えていた。俺が戻って来たことに気づいて顔を上げると、にこっと微笑む。

「おかえりなさい」

 ……『おかえりなさい』ッッッ!!!

 あ、一瞬眩暈が……。

「け、啓一郎さんっ? 具合悪いの?」

「……ぜっっこうちょう」

 この幸福の最中、頭の中で「和希の彼女だ和希の彼女……」と繰り返さなきゃならない俺って、ちょっと可哀想だと思う。

「テレビのない部屋でごめんね」

 頭に引っ掛けていたタオルを首に提げながら、さりげなくカップの中身に視線を向ける。カップの中身は半分以上減っていて、俺は少し安心した。

「温かいの、入れ直そうか」

「ううん。大丈夫」

「そう? どうせ俺、今から自分のも入れるけど」

「大丈夫。ありがとう」

 由梨亜ちゃんの言葉を受けて、俺はキッチンで自分の分のコーヒーを入れた。ビールでも飲みたいけど、酒が入って自制心が緩くなっても困るので。カフェインで気付。

「寒くない?」

 カップを持って戻ると、俺は由梨亜ちゃんとテーブルを挟んで向かい合うように床に座った。CDラックを漁ってプレーヤーにセットしながら、尋ねる。

 由梨亜ちゃんは緩やかに首を振った。再生したCDの、アメリカ人女性の掠れた声がスピーカから流れてくる。

「……優しいの。啓一郎さんたら」

「でしょ。和希から乗り換えたくなるでしょ?」

「ふふ。わたしなんかじゃとても」

「何をおっしゃいますか。由梨亜ちゃんだったら、嫌がる男なんていないっしょ」

「またまた」

 当たり障りのない、どこか上滑りな会話。

 話の核心を避けて、場を繋ぐだけの会話だ。

 だけど、聞くべきか聞かないべきなのか、まだ少し迷っている。

「啓一郎さん、作詞、してたの?」

 両手でココアのカップを包み込みながら、由梨亜ちゃんが隅に寄せられた譜面に視線を向ける。

「うん」

「啓一郎さんは、楽器はやらないの?」

「今はもう人前ではやらないね。前はギターやってて、今も曲を作る時はギターで作るけど」

 俺の返事に、由梨亜ちゃんは視線をさまよわせた。一見してどこにも見当たらない楽器を探す仕草に苦笑。

 カップを置いて立ち上がると、俺は作り付けのクローゼットを開けた。上下段に分かれているクローゼットだ。上段には、収納ボックスと突っ張り棒を使って、俺の数少ないワードローブが納められている。下段は、ダンボールなんかに普段あまり必要のない物なんかが納められていて、それと一緒に小型のギターアンプとギターが3本入っていた。

「えー。そんなトコに」

「楽器禁止だからね。この部屋。つっても別に管理会社がそうそう来るわけじゃないけど。一応」

「そうなんだ。テレビは、本当にないの?」

「本当にないんですよー。テレビをクローゼットにしまっとくわけにはいかんでしょ」

 テレビ見る度にクローゼット開けるって、どないやねん。

 小さく笑いながらクローゼットを閉めると、由梨亜ちゃんが「それもそっか」と小さく笑い声を上げた。すとんと由梨亜ちゃんの斜向かいに座り、コーヒーカップを取り上げる。

 由梨亜ちゃんが、ココアのカップを両手で包んだまま沈黙した。

 俺も、黙っていた。

 何も話したくないなら、それはそれで構わないんだ。気にならないと言えば嘘になるけど、俺に話すことで彼女の傷が大きくならないとも限らないから。

 ……そうだよな。俺から聞くのは、やめておいた方が良いかもな。

「そう言えば、もう結構遅いけど……お家の人、心配しない? 大丈夫?」

「さっき電話しました。大丈夫……ありがとう」

「そう? なら良いけど。服が乾いたら送るからね」

 俺がすべきことはきっと、彼女が落ち着くまでいる場所を提供してあげることなんだろう。

 気を紛らわすでもなく、話を聞きだすでもなく、とにかく彼女が自分で自分の気持ちを整理して落ち着ける場所。

 そう判断して、俺は聞くのをやめようと決めながら立ち上がった。干してある由梨亜ちゃんの服に手を当てると、まだ湿り気を残している。でも、コートはともかく中に着ていた服の方は、あと少しで何とかなりそうだ。

「あ、そんな。そこまで迷惑かけられないです」

「だって遅いし。ま、雨降ってるから、電車になるけど。一人じゃ帰せないよ」

 いっそ帰したくないと言うのが本音だが。

 由梨亜ちゃんは申し訳なさそうにうなだれた。

「ごめんなさい。本当に、啓一郎さんに迷惑ばかりかけて」

 あ、こんな迷惑ならいつでもご利用下さい。

「わたし……」

 自分の膝をぎゅっと抱き締めた由梨亜ちゃんが、不意に掠れた声で口を開いた。俯いて膝に額を押し付けるように、くぐもった声が微かに聞こえる。

「和希さんの好きな人って、きっと、わたしじゃない」

「へ?」

 あああ。間抜けな返答をしてしまった。

 でも、言っている意味が全くわからず、俺は少しぽかんとするしかなかった。どゆこと?

「和希さん、わたしのことなんか見てなかったみたい。本当に好きな人は、別にいるんだわ」

「まさか」

 和希は、誰かを想いながら他の人と付き合えるような器用な奴じゃない。そういうことが出来る奴なら、これまでだって一人や二人は付き合ってるだろう。チャンスだけは山のようにある奴なんだから。

 だけどそういったことは俺の知る限りで全くなく、鉄壁の和希を崩したのは由梨亜ちゃんだけなんだ。和希が由梨亜ちゃんを好きだからとしか考えられない。

「和希さんがわたしを選んだのは、きっと、好きな人にわたしが似ているからなんだと思う」

 俺の反論に緩く顔を横に振った由梨亜ちゃんは、悲しい顔をしてそんなふうに続けた。

「忘れられない人がいるらしいよって、噂は聞いたことあったの。なつみさん、前にそう言って振られてるんでしょ?」

「あ」

 そうだった気はする。

 だけどそんなの、遠い遠い昔の話で、最近はどうなのか俺も知らない。って言うか、そもそも俺は和希が誰のことを好きだったのかも知らない。わざわざ聞くことでもないわけで。

 でも、俺の知る限りで言えば、由梨亜ちゃんに似ている人なんて和希の周りにいたわけじゃないし……。そりゃ、俺と知り合う前の話なら知らないけどさ。

「あの」

 ともかくも、実際のトコどうなのかは和希本人に聞かなきゃ確かめようがない。和希のいないここで想像の話をしても結論は出ようがないわけで、俺はそもそも由梨亜ちゃんがどうしてそんなふうに思ったのかを聞いてみることにした。

「どうして、そんなふうに思ったの?」

「今日、和希さんと会ってたの」

 ずきずきずきずき。






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