第3話(3)
笑い転げているなつみにクレームを言うと、なつみは酔い混じりの朗らかな顔のまま、俺の肩を軽く叩いた。
「ま、愛よね」
「どこがっ?」
「愛されてるってことで」
「こんな愛は欲しくない」
「じゃあどんな愛なら良いのさー」
俺の手で次々と消去されていく画像は諦めたらしく、抵抗をやめた美姫がぺたんと床に座り込んだまま俺を睨み上げる。
「難しいテーマを気軽に投げ付けんで下さる?」
「難しいかなあ」
「壮大なテーマでしょ。……ほい。お疲れ」
綺麗に自分の画像を消し終えて、美姫にデジカメを返す。ぐるぐる唸っているが知ったこっちゃない。
「ね。それより今日のテレビっていつ放送なんだっけ?」
なでなでと美姫の頭を撫でて宥めながら、なつみが話題を転換した。
「来月」
「たくさん見てくれる人、いるかな」
まだちょこんっと唇を尖らせていた美姫が、デジカメを守るようにバッグに押し込みながら俺を見上げる。
「どうかね。ああいうの見る人って好きな人に限られるし。どれだけ効果があるかってのは疑問だけど」
「いっぱいファンがついてさ、プロになれるかなあ」
黙った俺に、なつみが首を傾げた。
「プロ志向、でしょ?」
「……俺はね」
多分、一矢も。
「なつみさ、和希のこと、何か聞いてる?」
ついにそこに座り込んで、俺は体育座りのように膝を抱えて顎を乗せた。なつみが首を傾げると髪が滑り落ちて、さらりと音がしそうだ。
「何かって?」
「だから。そういうこと」
「プロになりたいとか、そういう話?」
「うん」
俺の問いに、なつみは少し考えるような仕草をした。それから首を横に振る。
「わかんない。なりたいんだとばかり思ってたから、改めて聞いたこともないし。違うの?」
「……かんね」
「そう」
DOUBBLE FOX企画ライブの後の、和希の少し儚く見えた笑顔が忘れらんなくて、時々不安な気持ちになったりする。あいつがどう思っているのかが、最近よくわからない。
「俺は、なるけど。絶対。誰が、いなくなっても。目指そうって決めてるけど」
「うん」
「でも、誰もいなくならないで欲しいのが本音だよ」
今のまま、変わらないまま。
誰一人、失いたくない。
◆ ◇ ◆
Blowin’って言う、ここ二年くらいでブレイクしたメジャーバンドがある。
中学の時に姉に連れられて行ったライブハウスで見た彼らの――当時アマチュアバンドだったBlowin’のライブを見て、俺はバンドをやりたいと思うようになった。
「俺、Blowin’のライブって見るの初めて」
そんな彼らのライブチケットをたまたま手に入れたと言うあゆなの誘いに応じて向かった渋谷公会堂への道は、混雑を通り越して渋滞だ。
渋谷公会堂のすぐ近く、横断歩道で信号待ちをしながら和希がぼそりと言う。その横顔を見上げた俺は、視線を歩行者用信号機へと戻した。
周囲の人間の八割は、渋公へ向かうBlowin’のファンなんだろう。演奏力の高いBlowin’は同性の支持もかなり集めていて、バンドとかやってますって風体のお兄さんなんかも結構な数が見受けられるのだが、結構お姉さん方も綺麗な感じの人とかも多いんだが、中には不可思議な服装の人もいる。
一口にファンと言ってもいろんな人がいるもんだ。
「こうもいろんなタイプの人に好かれると、いろんなことがあるんだろうなぁ」
同じことを考えたらしい和希がぽつりと言った。
信号が変わり、混雑の中、渋公へ進んでいく。ゆっくりとした進行でも一応歩いていれば前に進むもので、通常の何倍かの時間をかけて俺たちは渋公の中に入ることが出来た。
「物販とか見るの?」
「俺いい」
「わたしもいいわ」
「んじゃまっすぐ向かいましょう」
チケットを確認して座席を探す。どういう汚い手段で入手したチケットなのか思い切りアリーナと呼ばれる席で、座席を発見した時そのステージの近さに俺は少し興奮した。
「すっげー」
「ああいうの、吊るすのって大変なんだろうなあ」
和希がステージサイドの天井から吊り上げられたラインアレイのスピーカを見つめる。
「何あれ」
「バーテックじゃないの」
「何それ」
一人全く興味のないあゆなが、入り口でもらったフライヤーに目を落としながら興味なさそうに尋ねる。
「スピーカの種類」
「でも昔は積んでたからなあ。でっかいウーハーからスコーカからツィータからタワーみたいにさ」
「和希ってそういうのやたら良く知ってるよね」
「え。興味あるでしょ、普通」
……ないでしょ、普通。
左からあゆな、俺、和希の順に座席に座っていて、その両サイドには寄りによってコアなタイプのファンが座っていた。何だか俺らだけ浮いている。異空間にいるようだ。
「誰か出て来た」
三人ほどの男性がステージに出て来て、楽器の音を出した。ローディと呼ばれる人たちだ。本番前に最後の楽器調整を行っている。
「凄いなあ、かっこいいなあ」
和希が目をきらきらさせて言った。
こういうところを見ていると、和希は本当に音楽が好きで、音楽を作り上げていくそのものが好きなんだなあと感じる。今後どうするんだろうと不安になる自分が馬鹿みたいに思えたりもするんだけど。これだけ好きな音楽から和希が離れられるわけがないって思ってしまうと言うか。
「今更言うのも何だけど、わたし、Blowin’ってそんなに好きじゃないのよね」
「あーゆーなーちゃーん……」
何だか今両サイドから殺気が陽炎のようにたゆたったのは俺の幻覚だろうか。
「こういう場所でそういうこと言わないで、まじで」
哀願するようにうなだれながら説く。和希が興味深そうにあゆなに問い掛けた。
「へえ。何で」
やめてって言ってんのに広げないでくれる?
「うまいとは思うけどね。攻撃的な感じするから。あんまり攻撃されるとやり返したくなって来ない?」
「戦ってどうするのよ……」
「人生何事も戦いよ」
「つか、じゃあ何でチケットもらったんよ」
「それは……」
あゆなが、少しバツが悪そうに顔を背けた。それから小さく早口で言う。
「あんた、好きなんじゃないの?」
俺?
聞き返そうとした時、会場の客電が落とされた。その瞬間、尋ねようとしたことさえ忘れてしまう。まだ何も起こっていないのにきゃあああああっと言う雄叫びが沸きあがり、周囲の人間が示し合わせたように一斉に立ち上がった。大音量でスピーカから音楽が流れ出した。
次の瞬間、ドーンっと爆音と共にステージ前方から煙が吹き上がる。一瞬ステージ上が何も見えなくなり、歓声が強くなった。
かかっていた音楽とクロスフェードする形でギターの生音が響き渡る。ライブハウスで昔聴いたのと変わらない、尖った、攻撃的なギターの音色。歓声が一層大きくなった。その下へ滑り込むようにドラム、絡み付くようにベース。そして……ヴォーカル。
知らず、胸が踊っていた。包まれる高揚感。客の熱気が、ステージへ向かって押し寄せる。ステージ上にいる彼らにかかる圧力はどれほどのものなのだろう。俺にはまだ、想像がつかない。
マイクを握り、挑むような鋭い視線でヴォーカルである亮さんの歌が響く。
甘さと深さの同居する、中学の時に俺が音楽に惹きつけられたその時と同じ、或いはそれ以上の吸引力を持つ独特のそのヴォーカル。テクを上げながらも鋭さだけは失わないギター。安定しているのに攻撃的なベース、丁寧にリズムを刻んでいるのに全てをかっ飛ばしてやろうと目論んでいるようなドラム。まとまりながら、まとまらない……安定してるのに攻撃的と言うBlowin'独特の、サウンド。
押し寄せる会場の熱気がBlowin'に飲み込まれていく。全身に鳥肌がたっていた。
(凄ぇ……)
ライブハウスなんかより遥かにでかいこの空間、間近に見る迫力は半端じゃなかった。
演奏とかテクとかそういうのはもちろん、音楽と言うものに対する……気合い、と言うか。その凄まじさが空気を振動させ、俺の体に彼らの音圧を伝えてくる。
止まらない勢いでそのまま三曲続けて演奏し、俺はその間近で見るステージに完全に引きずり込まれていた。
「こんばんは」
三曲目を終えて、肩で息をつきながら亮さんが言う。額で汗がきらきらと光っているのが見えた。
「去年の年末のツアーから半年経って、あん時もココでやったんで、何か帰って来たような気がしますけど」
きゃーッと意味不明に歓声。「亮ー」だの「彗介ー」だのと言う声が至るところから上がる。ふと和希をちらりと見ると、和希は大好きなオモチャを見つけた子供のように生き生きとした瞳をしていた。一心にステージに視線を向けている。亮さんのMCに耳を傾けながら俺は視線をステージに戻した。
ここにいる全ての人が、彼らの姿を一目見ようと、彼らの音楽を聴こうと、この場に集まっている。
そう思うと、一抹の悔しさに似た羨望が湧き上がった。俺たちには、これだけの人間を動かせる力はまだない。
MCを終え、演奏が四曲目に入る。そこから数曲一気に演奏し、またMCを挟んで演奏へ。
曲が進むごとに会場内の熱気は上がり、Blowin'のサウンドは時に激しく、時には胸に迫って客を翻弄した。渋公そのものが、まるでBlowin'と言うバンドによって自由自在に姿を変える、変幻自在なひとつの生き物のようだった。
本編が終了してアンコールに応えた後、スタートから二時間半弱でコンサートが終了する。会場アナウンスで俺が我に返ると、客の流れは早くも出入り口へ向けて流れ出していた。
「俺らも行こうか」
和希の声に促され、人の流れの一部となる。あゆなが俺の斜め後ろを歩きながらぽつりと言った。
「悔しいけど、凄かったわ」
何が悔しいのかよーわからんですが。
妙ちきりんな感想に呆れつつ、熱気と興奮の名残を引きずる人ごみに流されながら、胸の中でBlowin'のステージを反芻する。叫び、熱狂、巻き起こる思いの渦。あれだけの人がBlowin'の音楽を愛し、望み、待っている。その音楽に支えられて生きている。
……凄いことだと思う。
音楽と言うものが。
それだけのものを生み出せる人間が。
「プロに、なりたい」
無意識だったかもしれない。ぽつりとこぼしていた。
プロになりたい。
あんなふうに、俺の音楽で、いろんな人に望まれて……支えたい。
それは、ステージに圧倒されての熱狂だったのかもしれない。
けれど、間違いなく俺の心の中にずっと根付いている想いで。
ずっと……渇望しているもので……。
(プロに……)
Blowin'に影響されて始めようと思った音楽。今ここでまたBlowin'に背中を押される俺がいる。
――上を、目指して。
◆ ◇ ◆
「あ、ダメこれ。もっかい。やり直し」
武人ががん、と頭から壁に雪崩れ込んで拝むように言った。ノートパソコンに向かって武人のベースを録音していた和希がくすくす笑う。
「いーじゃん、これ、とっておこうか」
「やーめーてー下さい。そういう嫌がらせは」
八月に入って、Grand Crossはせこせことスタジオに篭っている。
九月にあるライブへ向けて、新しいCDを作成するつもりで、ずばりレコーディングに突入しているんである。
もちろん、自主制作盤と言うことはロードランナーの時みたいにフォローしてくれるエンジニアなんかいるわけがなく、自分たちで全てを取り仕切る。
最近では世の中凄く便利になっていて、素人でもそれなりのクオリティのCDなんて焼けるようになってたりして。パソコンは和希が持ってたものを使っているんだけど、録音ソフトはみんなでお金出し合って買った。基本的に操作はほとんど和希にまかせっきりなんだけれども。
「だって今の音は良いよ。ベチベチ言ってて」
「音良くたって間違ってちゃしょーがないじゃないんでしょうか」
「真理だねえ」
言って和希は、機嫌が良さそうに今録音した音を消した。
「じゃあもっかい録っていきましょう」
録音のやり方ってのはいろいろあると思うんだけど、俺らの場合は和希がとにかく打ち込みとかそういうのが結構得意なので、和希が打ち込んできたデータをヘッドフォンからもらってそれに合わせてパートごとに録音を重ねていくって言うやり方をしている。正しいやり方なのかどうかは、俺は知らない。ただ、ロードランナーの時は少しやり方が違う。
「ちょっと聞いてみてまた電話するよ」
スタジオの隅っこの椅子に座ってずっと電話をしていた一矢が、携帯電話を折り畳みながらこっちへ戻って来た。
ベース録りは、アンプをマイクで拾うんじゃなくてラインで直接音を突っ込んでいるので、別にこっちで話したりしていてもその音が拾われることはない。
「あのさ、淳奈からの電話だったんだけどさ」
俺の横に座り込みながら、一矢がAQUA MUSEのドラマーの名を口にした。
「うん」
「ロードランナーが連絡欲しいって」
「は?」
何で? 何? 何かまずかったっけ?
きょとんと一矢を見つめる俺に、一矢も僅かに首を傾げながら答えた。
「俺にも良くわかんないんだけどー。ミニアルバム、作ってみないかって言ってるよって」
「……………………はあああ?」
そりゃまた何で。
「え、何、俺らについてくれるのかな」
「ってわけでもなさそうだけど」
すみません、意味が分かりません。
「ま、後でコレ終わったら和希に言って……ちょっと連絡取ってもらおうか」
「うん」
武人の録音をしている間は特に俺はすることもないので、とりあえず和希がさっき「新しい曲出来たよ」なんつって渡してくれたデモを突っ込んだポータブルプレーヤーのイヤホンを耳に引っ掛ける。どうせ歌詞をつけるのは俺なんだし、先に聴いておいてつらつら考えておいた方が良いわけで。
そんなふうに思いながら何気なく再生ボタンを押した俺は、耳に流れ込んできた音を聞いた途端、なぜだかひどく複雑な気持ちに襲われた。
(あ……?)
機械的な打ち込みの音で作られた優しいメロディ。耳になじむ和希の、これだけは打ち込みじゃないギターの音。
優しくて、柔かくて……包み込むような――優しい、恋の始まりのような……?
どくん、と心臓が音を立てる。自分の考えに、勝手に息苦しさを感じているだけだ。そんなことはわかっている。
でも。
俺は思わず和希を見た。パソコンの画面上に現れる波形を目で追う、真剣な整った横顔。
ふっと、先日、俺と由梨亜ちゃんが話している時の和希の表情が過ぎった。どこか切なさを秘めたような、苛立ちを押し殺したような。……まさか。
(そんな馬鹿なことあるわけないだろ)
和希の気持ちを言葉で聞いたわけじゃない。
ただ、最近作った曲を耳にしているだけ。
別に和希が俺に何を言っているわけでもない。
――でも。まさか。だけど。
(両思い……ってやつ、じゃん?)
誰かを大切に想うような、守ろうとしているようなそんな暖かいメロディ……そりゃあ、ミュージシャンだから作れないとは言わない。俺だって、自分の経験値の中に入らない歌詞を書いたりもする。
けどさ。だけど、でも。
……想像で生みだす産物と、自分の中から溢れ出て来るものでは、伝わるものが全然違うんだ。
もしかすると、和希も俺と同じような気持ちでいたんだろうか。
そんな考えが頭を過ぎる。
俺なんかより和希の方が全然感情を抑えるのが得意で、見ている限り全然俺は気がつかなかったけど……もしかすると。
「おっけー。いいじゃん」
和希が顔を上げてヘッドフォンを外した。その声で現実に引き戻される。和希が笑顔でこっちを振り返った。目が合う。
「武人終了―。……っと。どうしたの?啓一郎」
「え?あ、いや、な、何が?」
「何がって、何か変な顔してるから」
「生まれつき」
「もう少しアイデンティティに富んだ切り返しを期待してたんだけど」
すみませんね、精神的に余裕を欠いてましてね。
「したら、美保、いっとく?」
「んだべな」
壁にあぐらかいて寄りかかっていた一矢が、煙草を口にくわえたまま頷いた。テーブルに突っ伏して寝ていた美保が顔を上げる。
「あーたーしー?」
「……毎晩元気なのは良いけど、昼も頑張ってよ」
「うふふ。若いうちに遊んでおかないとね」