幼馴染は神様です
七月一日。月曜日。朝六時。うだるような熱帯夜を耐え抜き、ようやく眠りに就いたというのに、もう起きなければならないのは理不尽ではないだろうか。
そして憂鬱という二文字が相応しい月曜日を迎えるのは人間の試練であることは誰の意見も俟たないだろう。
もうすぐ夏休みという全国の高校一年生にとって楽しみなイベントを控えているとはいえ、中ボスたる期末考査が近づいている事実もまた、憂鬱になってくる。
しかし、一番の憂鬱というより懸案事項は学校生活などという人生においては一過性である些細な事柄ではなく、そこで過ごす人物だったりする。
友人? 先輩? 後輩? いやいや、その程度の関係だったら悩むことはない。
平凡なる俺にとって、平凡なる人生の、平凡なる学校生活の、平凡なる日常を侵食してくる人物、いや存在とは――
「おっはよー! 一郎! 今日も私が起こしに来てあげたわよ!」
その言葉によって、俺は目覚めた。いや、目覚めたという言葉では物足りない。睡眠状態からいきなり覚醒状態になったのだ。それも後遺症もなく、むしろ居心地の良い目覚めになった。
「…………」
「うん? どうしたのよ? ちゃんと優しく起こしてあげたわよ?」
「……そこに対しては文句はない。だけど、夏子よ」
平凡なる俺、田中一郎は起こしに来た幼馴染の神田夏子に向けて『不敬』にも人差し指を向けた。
まるで黒猫のように真っ直ぐな黒髪。そして黒猫のような瞳。高校の夏服を着ている、夏子を顔の中心にびしっと向けた。
「どうして俺たちは見つめ合っているのだ?」
「それは会話しているからよ」
「ああ、間違ってないさ。間違っているのはお前のほうだ」
「……?」
「なんで天井に背を向けて、ふわふわと浮いているのだ!」
そう。夏子はワイヤーなどを使わずに空中に浮いている。そうしてベッドに仰向けで寝ている俺の正面に居るのだ。
「別にいいじゃない。寝顔を見てたんだから」
「良くない。人の寝顔を見るのも良くないが、非人間的な能力を使うんじゃない! こら、人の部屋を縦横無尽に飛び回っているんじゃない!」
常識的に注意すると夏子は水槽で泳ぐ魚のように部屋中を飛ぶのをやめた。その代わり、さかさまに浮いてベッドの傍らにいる。
「まあいいじゃないの。ここには私と一郎しかいないんだから」
「しかしだな――」
すると夏子はにやにや笑いながら言う。
「私は全知全能の神様なのよ? 見られてもどうにでもなるわよ」
そう。目の前でさかさまに浮いている、見た目だけは超絶美少女は全知全能の神様なのだ。
「見た目だけはってどういう意味よ?」
「心を読むな」
読まれるのは慣れているので、今更驚かない。メンタリストでもマジシャンでも人の心を読んだり操ったりできるのだ。人間でもできることだと割り切っている。
「そんなことより、急いで学校に行くわよ」
「どうしてだ? 何か起こるのか?」
「地震で電車が遅延するのよ」
「……未来予知か。だったら地震を止めろよ」
「ああ。その手があったわね! ……よし。地震は起こらないわ」
念じるだけで電車が遅延するほどの地震をとめる、いやないことにするなんて。なんとも規格外だ。平凡なる俺にとって、夏子は幼馴染であると同時に埒外な存在だった。
「これでもう、遅れずに学校に行けるな。ほら、さっさと――」
「二度寝はできないようにしたわ」
「……一足飛びに話を進めるなよ」
さっさと出て行けの後に二度寝するからと続けようとしたのだが。
「ほら。眼鏡をつけて。顔を洗って準備しなさい」
「なあ。全知全能なら視力を良くしてくれよ」
「嫌よ。私眼鏡フェチだから」
「……もしかして、急に目が悪くなったのはお前のせいか?」
「今日は月曜日よ。世界が創られた記念すべき始まりの日。さあ気合入れなさい!」
この女、強引に誤魔化しやがった。睨んでみる。舌を出して、ウィンクされた。腹立つ。
まあ神様に逆らえるわけがない。俺はおとなしく夏子が見ている前で着替えをした。別に居ても居なくても覗かれることは確定しているのだ。
朝ご飯を食べ終えて、学校へと向かう。よくよく考えてみれば電車が遅延しても、瞬間移動とか空を飛んだりとか考えられるだけでも五つくらいの方法があるように思える。
隣を歩く夏子はいつも上機嫌だ。なんでいつも機嫌がいいのか、さっぱりの不明である。
「あ、下駄箱になるラブレターは偽物だから」
不意に神様からの宣託が下される。
「偽物? どういう意味だ?」
「ラブレターに書かれた場所に行くと、男子が八人待ち構えていて、ボッコボコにされるわ」
「……なんで俺が?」
「決まっているでしょ? この美少女の傍に居るから」
大きな胸を張って、自慢する夏子。
「はあ。またか。どうせお前が『一郎が恋人だから付き合えないわ』とか言ったからだろう? やめろよ。デタラメ言うのは」
「いずれ付き合うことになるんだから、いいじゃない」
やれやれ。俺は子供の頃から繰り返し言っている台詞を改めて言う。
「悪いが俺は神様と釣り合う器じゃないんだよ」
「気にしないわ。あんたが平凡で低俗で矮小な器でもね」
「三分の二が悪口だったぞ?」
「あら。全部悪口のつもりだけど?」
神様のクセに小悪魔な笑みを見せる夏子。なんなんだコイツは。
「まあいいわ。どうせあんたはボッコボコにされるんだから」
不吉なことを言われた。はあ。やっぱり行くハメになるんだな。
だって行かないほうがいいって言われなかったからな。
そして放課後。指定されたのは体育館裏。目の前には八人の生徒が居る。
「はっ。あんな偽物に釣られるなんて、どうかしているなあ」
口を開いたのは先週見事に夏子にフラレた三年の先輩だった。確か柔道部だった。他の七人も確か柔道部の部員だ。
「夏子さんが言ったぜ。お前をボコれば付き合ってもいいってよ」
「……マジですか。あの女、またへんなこと言いやがって」
「というわけで恨みはねえが、痛い目に遭ってもらうぜ」
はあ。仕方ない。いつもの手を使うか。
「先輩。俺がボコられるのは仕方ないんですけど、質問だけさせてくれませんか?」
「ああん? なんだ質問って?」
俺はいつものように、被害を最小限にするために言う。
「そもそも三年の先輩が一年生の夏子とどうやって知り合ったんですか?」
その質問に先輩は「はあ? 何言って……」と言いかけて、動きが止まった。
「知り合ったきっかけは? 場所は? 時間は? この高校ですか? 校外ですか?」
「な、え? はあ?」
「もしかして、記憶が曖昧なんじゃないですか?」
そりゃそうだろうなあ。どうせ夏子が記憶や精神を操作して強引に好きにさせたんだろうな。
「な、なんだ、これは、俺は一体?」
動揺する先輩。周りの生徒も心配そうに声をかけたりしている。
「最後の質問です。夏子のことが好きって気持ちは本物ですか?」
これは俺が特別な人間だからではない。平凡ゆえに辿り着くのに何百回も失敗して、ようやく見つけた対抗策だったりする。
幼馴染が全知全能だと分かるのは当たり前だ。
俺がこの時代に生まれる以前の前世でも、前世の前世でも、那由他の果ての前世でも、俺は夏子の幼馴染のポジションに居たんだ。
だから洗脳を解くぐらいわけがなかった。
だけどなあ。それでも一つ覆せないことがある。
「うるせえ! 生意気なんだよくそ野郎!」
混乱する先輩を余所に、一人の生徒が俺の頬を殴った。それを契機にボッコボコにされてしまう。
ほらやっぱり。
夏子の言うことは確実に当たってしまう。
「大丈夫? 結構殴られたわね」
「……お前の差し金だろうが」
気がつくと、俺は膝枕されていた。夏子の膝だ。
「ごめんね。そうしないといけなかったから」
「訳わからねえよ。いてて……」
「いずれ分かるわよ」
いーや。分からないね。全知全能である神様な幼馴染の考えることなんて、平凡な俺には理解できない。
でもまあ、この膝の柔らかさに免じて受け入れてやろう。理不尽を。
「今回のお詫びで、何か一つ願いを叶えてしんぜよう」
「急に神様ぶりやがって。それなら――」
「期末考査をなかったことにするのね。いいわよ」
「……話が早いことに喜べばいいのか?」
「そうしなさい。うふふ。後で怪我も治してあげる。八人の記憶もなかったことにするわ」
そうして、俺の頬を撫でた。
「私の大切な幼馴染。現世でもよろしくね」
「どうせ来世でも一緒なんだ。こちらこそ、だな」
さて。期末考査がなかったことになったせいで高校が三学期制ではなく、セメスター制に改変されることになるのに気づいたのは、翌日のことだった。
後回しになっただけじゃねえか。ふざけんな。
まったく。全知全能の神様でも怠けるのは許してくれないらしい。
運命の女神たちが人間の運命を決定するとき、そこには憐憫もなければ公平感もない。
喜劇王の言ったとおりだな。
神田夏子→夏=サマー→神サマー