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***

 

 七月二十四日、火曜日。


 体育館での終業式を終え、今学期最後のホームルームが行われている二年D組普通教室。


「X」を「エッキシ」と発音しては生徒たちに気色悪がられている名物数学教師、藤沢多喜二(ふじさわたきじ)、五十七歳児童買春疑惑ありが教壇にて、そのシワだらけの富士額に汗の玉を浮かべながら、


「セブンティーンの夏は人生でたった一度きりだあ! 諸君、悔いのないサマーバケーションを送るように!」


 などとハイテンションのハイバリトンで告げた直後、


「はーい!」


 という総勢四十名の男女の浮かれた声が、埃っぽい教室の隅々にまでこだました。


 この夏のクラスメイトたちは皆、妙に張り切っていた。派手グループ、普通グループ、地味グループと、誰もが一様にひと夏のアバンチュールを期待し、胸を躍らせ、両目に凶悪な輝きを宿らせている。そんな中、ただ一人、ボクだけが砂を噛むような表情を浮かべていた。


 夏休みが始まってしまえば、真夏ちゃんと顔を合わせる機会も激減してしまう。ただでさえ人気者の彼女のことである。スケジュールは売れっ子アイドル並に、一ヶ月先までほとんど埋まってしまっているに違いない。


 オール「3」の忌まわしき通知表の影響も相まって、気分はどんどん下降していく。


 名ばかりクラス委員による野太い号令、そして続く、その他大勢の「さようならー」の声と共に、教室中が弾けたように、どっと騒がしくなった。


 藤沢先生が加齢臭を置き土産に教室を去ったあと、教室最後尾の自席から何気なく真夏ちゃんの方を見た。視線の先の彼女は、教室の真ん中で派手グループの生徒たちに囲まれながら、にこにこと愛嬌を振りまいているところだった。


 真夏ちゃんは、どんなくだらない話にも最後までつき合ってくれる優しいコだ。今だって二年D組四天王の一人、スターリンこと星野凛(ほしのりん)のどうでもいいような話に、あはは、といちいちかわいらしい声で笑ってあげている。


 似合わないブロンドの巻き髪に、似合わないギャルメイク。いつも大口を開け、年上バンドマンとの性事情を明け透けに語る、あんな頭空っぽのチンパンジーの話なんて無視してやればいいのに。


 スターリンらに捕まってしまった真夏ちゃんとは、今日は一緒に帰れそうにもない。終業式だっていうのに、本当にツイてない。落胆しつつ、くたびれた縫製バッグを右肩にかけ、軋む椅子からゆっくりと立ち上がる。


 今日の夜にでも真夏ちゃんのケータイに連絡してみよう。明日会える? 遊べる? って駄目元で聞いてみるんだ。かわいいスタンプを添えて、ない女子力を振り絞って、聞いてみるんだ。


「あ、小秋ちゃん!」


 そのときだった。


「ちょっと待って!」


 四天王のもとから突然、真夏ちゃんが小走りでこちらに歩み寄って来たではないか。


 いったいどうしたというのだろう。疑問符を頭上に浮かべている間に目の前までやって来た真夏ちゃんは、膝上のスカートをひらりと翻しながら後ろを振り返り、


「ごめんね。今日、小秋ちゃんと一緒に帰る約束してたんだ」


 始業式にまた皆、元気に集まろうね。微炭酸のような爽やかさと共に、四天王に笑顔でそう言い放ったのだ。


 気づけば四天王の面々が、一斉にボクへと視線を集めていた。


 威圧感たっぷりの突き刺すような視線に耐えながら、ボクは畢生の作り笑顔を浮かべる。するとスターリンはすぐにボクから視線を外し、少し呆れたような表情でもって、


「真夏、ほんと小秋と仲良いよなあ」


「うん。だってわたしたち、二人で一つだし」


「もうヤッたの?」


「バカー! そんなんじゃないもん!」


 直後、ぎゃはは! という下卑た笑いがこだました。


 本当に下品な奴。胸の奥にどす黒い感情を抱きつつ、けれども決して口に出すことはない。情けないけれど、ボクは真夏ちゃんの隣でただただ黙然と、不自然に引きつった笑みを浮かべることしかできずにいる。


 それから二言三言交わしたあと、四天王は意外にもあっさりと真夏ちゃんを解放してくれた。


「ごめんね」


 真夏ちゃんがいつになく低いトーンでつぶやいたのは、ちょうど校門を抜け出たときだった。


「一緒に帰る約束なんてしてなかったのに、あんな嘘ついて」


「ううん、全然大丈夫」


「終業式の日は、どうしても小秋ちゃんと一緒に帰りたかったの」


 表情を陰らせる真夏ちゃんを真横に見ながら、ボクはわかりやすく動揺してしまう。


 確かに一緒に帰る約束なんてした覚えはない。そもそも終業式でばたばたしていたということもあり、ボクらはつい先ほどまで会話らしい会話すら交わしていなかったのだ。でもそんなことは、もはやどうだってよかった。真夏ちゃんがついた嘘によって今、この瞬間が存在するのだから。


 真夏ちゃんに心から感謝しながら、ボクは言った。努めて明るくこう言った。


「実はボクも、終業式の日は真夏ちゃんと一緒に帰れたらいいなあって、密かに思ってたんだよね」


「本当?」


「うん。だから、そんな顔しないで?」


「……ありがとう」


 白と青のコントラストが映える昼下がりの空の下、今日も夏らしく、じりじりと焼けるように暑い。


 どこからともなく漂う塩素のツンとした匂いを鼻先で感じながら、時折お互いの肩と肩を触れ合わせながら、ボクたちはきらきらとした光の中を同じ歩調で進んでゆく。


 やがて前方数十メートル先に陸橋が見えてきた。ここを通り過ぎれば最寄り駅まであと少しだ。


「わたしたち、明日から会えなくなっちゃうね」


 不意に、真夏ちゃんの口からひどく悲しい言葉が漏れた。


 ボクはちょっぴり泣きそうになりながら、


「そんな悲しいこと言わないでよ。連絡するし、たまには会ってほしいな」


 限りなく本音に近い言葉だった。さすがに毎日会いたいだなんて自分本位なことは言えない。それに、認めたくはないけれど、真夏ちゃんには彼氏がいる。ジョーという、汚らわしくて軽薄な、美大生の彼氏がいる。


 ボクの言葉の直後、なぜか数秒の間が生まれた。疑問に思い、右方を向く。


「あのね、小秋ちゃん」


 そして真夏ちゃんは気まずそうな、あるいは困ったような曖昧な笑みを浮かべ、上目遣いで言った。


「実はわたし、明日から丸々一ヶ月、イギリスに行くんだ」


「え」


「知ってると思うけど、わたしのおじいちゃん、イギリス人なの。でね、もう何年も会ってないから、今年こそは顔を見せにいくぞってパパがうるさくて……本当に困っちゃうよね」


 言いつつ、真夏ちゃんは茶色がかった瞳を三日月形に細めるが、いやいや、笑いごとではない。断じて。


「黙ってたわけじゃないんだよ? でもほら、あえて伝えるようなことでもないかなあと思って」


 言葉が出てこなかった。真夏ちゃんに悪気がないということは百も千も承知している。でもやっぱり悲しいし、何より寂しかった。そんな大事なこと、真っ先に伝えてほしかった。


「たったの一ヶ月だし、夏休みが終わったらいっぱい遊ぼう? ね?」


 陽炎が立ち上る、長く伸びる陸橋を渡りながら、ボクはあれこれと考えを巡らせる。


 確かに、真夏ちゃんにとってはたったの一ヶ月なのかもしれない。けれど、ボクにはその一ヶ月が途方もなく長く、まるで今生の別れのように感じられた。


 今日中に、彼女に気持ちを伝えなければ後悔する――ボクが衝動的にそんなことを思ったのは、ちょうど陸橋を渡り切ったときのことだった。


 冷静さを欠いている自分自身を、ボクは十二分に自覚していた。でも、その一方で昂り続ける感情は、いよいよ歯止めが効かないところまできていた。


「真夏ちゃん」


「ん?」


「今からちょっとだけボクにつき合ってくれないかな?」


「……うん。明日の準備がまだ残ってるから、あんまり遅くまでは無理だけど」


「大丈夫、本当にちょっとつき合ってくれるだけでいいから」


 ただならぬ決意を胸に、ボクは真夏ちゃんだけに黒目を縫いつける。


 真夏ちゃんはきょとんとした表情を浮かべながら、小首を傾げている。


 七月二十四日、火曜日。蝉のトレモロが脳天に響く、ひどく暑い午後のことだった。


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