(2)
◇
心のどこかで覚悟はしていたけれど、いざ現実を目の前に突きつけられた途端、ボクはひどく悲しい気持ちになった。ひどくやりきれない気持ちになった。
確かに、真夏ちゃんほどの美少女をオス共が放っておくはずがない。でも彼氏ができただなんて、あまりに唐突過ぎやしないだろうか。ボクに相談の一つもないなんて。所詮、彼女にとってボクは、その程度の存在だったということなのか。
真夏ちゃんはボクの初恋の人であり、たった一人の、かけがえのない親友だと思っていた。ボクはボクのすべてを真夏ちゃんにさらけ出していたつもりだし、真夏ちゃんも真夏ちゃんのすべてをボクにさらけ出してくれているものだと思い込んでいた。けれど、それはどうやら思い過ごしだったらしい。
真っ黒なカーテンを閉め切った飾り気のない六畳間には、冷房の作動音だけが慎ましやかに響いている。温度を二十二度まで下げ、ベッドの上で頭から毛布を被り、そして虚空をぼんやり見つめているボクは、さながら生ける屍だ。あの男と出会う前までの多幸感に満ち満ちた春原小秋はもう、ここにはいない。
「はあ……」
無自覚にため息が漏れる。
ジョーという軽薄男と合流した直後、真夏ちゃんに駅ナカのシアトル系カフェに誘われた。三人でおしゃべりしようよ、と。もちろん、そんな生き地獄に耐えられるほどのメンタルを持ち合わせていなかったボクは、彼女からの誘いを即座に断り、そのまま地元へと向かう電車に一人で乗り込んだ。この世の何もかもを呪いながら、友達の幸せを素直に祝福してあげることのできない自分自身をひたすらに嫌悪しながら。
あのコと、冬木真夏と出会わなければ、きっとこんな苦しい思いをせずに済んだはずなのに。いや、そもそもボクが男に生まれていれば、きっとすべてがうまくいっていたはずなのに――。
思えば、ボクの一人称が「ボク」になったのは、今から遡ること十二年前の、まだ幼稚園児だった頃。当時推していた大所帯アイドルグループでセンターを務めていた、のちにLGBTをカミングアウトすることになるボーイッシュな女の子が、自分自身を「ボク」と呼んでいたのだが、そんな彼女にまんまと影響されてしまったのだ。
言うまでもなく、両親には「わたし」と呼びなさい、と口酸っぱく、何度も何度も注意された。仮にも女の子なんだから、と。でも、いくら注意されたところで、ボクの一人称が「わたし」になることはなかった。子どもながらに世間体を気にしたのか、さすがに外では「わたし」を名乗り、それは今でも変わらないのだけれど。
ボクが堂々と「ボク」と名乗ることができるのは、両親と年の離れた弟、幼なじみ、そして真夏ちゃんの前だけだ。
「はああ……」
またしてもため息。しかも、今回は特大。超特大。
性格上、いったん気持ちが塞ぎ込んでしまうともう駄目だった。どこまでもマイナス思考に陥ってしまう。今のボクは全身にどす黒い負のオーラをまとっているに違いない。こんなときは気分転換に限る。そう思い立ってからは早かった。
ボクは部屋着のTシャツにショートパンツ、素足にクロックスといった女子力皆無な格好のまま財布だけを片手に自宅を出ると、徒歩圏内のコンビニへと向かった。マカロンにエクレアにショコラロールに――なんだかどうしようもなく、甘ったるいスイーツが食べたい気分だった。実は昨日、マイナス三キロのダイエットを心に決めたばかりなのだけれど、もはやそんなことはどうでもよくなっていた。
深夜二十二時。一応、県庁所在地ではあるものの、所詮は片田舎の中核市である。死んだように静まり返った新興住宅地には人一人として歩いていない。時折、野良猫がアーモンドアイをぎらりと光らせながら、目の前をふてぶてしく素通りしていく程度だ。
煌々と瞬く星空の下、生温い夜風を全身で浴びながら、硬いアスファルトをマイペースに歩き進む。
「おい」
と、そんな低音がお腹の辺りに響いたのは、ちょうどコンビニ前の駐車場に足を踏み入れたときだった。
「小秋」
「……汁石くん?」
「白石だ!」
店先のベンチから漫才師のごとく鋭いツッコミを入れてきたのは、白石くんこと白石和生だった。
ボクと白石くんは幼なじみだ。お母さん同士が短大時代からの親友で今の縁に至る。まあしかし、幼なじみといっても同じ学校に通ったことはない。今でこそ一緒の町内に住んでいるけれど、小学校、中学校と彼は、親御さんの都合で隣町に住んでいたのだ。
ちなみに白石くんは、真夏ちゃんと小学校からの同級生で、さらに言うと真夏ちゃんの元カレだったりする。中学二年生の夏に二週間だけつき合い、キスはおろか手さえ握ることのないまま破局してしまったらしいのだけれど。
好き過ぎて何もできなかったんだ、と中性的色白イケメン、白石くんは言う。自分から告白したというのになんて情けない奴なんだ、俺は、と。
近辺の工業高校の夏服を着崩した白石くんは、缶コーヒーを一口だけ飲んだあと、再び口を開いた。
「どうしたんだよ、こんな時間に」
「考えごとしてたら、なんだか甘いものが食べたくなっちゃってね」
「考えごと、ねえ」
もしかして、真夏のことか? 二拍、三拍と置き、低く掠れた声で尋ねてくる白石くん。
ボクは、まあね、と短く答える。
実は彼、ボクが真夏ちゃんに抱いている感情を知っている。
ボクと真夏ちゃん、そして白石くんの三人で去年の十二月、隣県までサッカーの代表戦を観にいったのだけれど――真夏ちゃんと白石くんは破局後、友人関係に戻っている――その帰り道。白石くんと二人きりになったところで、サッカー観戦の余韻のままボクは、思わず真夏ちゃんへの恋心を口走ってしまったのだ。
しまった、と思った。いくら気心の知れた幼なじみとはいえ、事情が事情である。けれど、ボクの思いとは裏腹に、白石くんは至って真剣だった。茶化すことなく、ボクの話を大真面目に聞いてくれた。
「とりあえず、買い物済ませてこいよ。話の続きはそれからだ」
「うん、わかった」
有線から流行りのサマーチューンが流れる店内は、偉く冷房が効いていた。先客は一人。時代錯誤も甚だしい角刈りのおじさんが、雑誌売り場で胡散臭いオカルト本を立ち読みしているだけだ。そんな彼を横目にスイーツ売り場へと向かい、けれども直後、ボクはがっくりと肩を落とすことになる。タイミングの悪いことに、お目当てのマカロンもエクレアもショコラロールも、すべて売り切れていたのだ。
「そんなあ……」
うっかり漏れる、間の抜けた声。
結局、ボクはペットボトルの特保コーラを一本だけ買うと、そそくさとコンビニを出た。
「やけに早いな」
ボクに気づくや否や、白石くんはいじっていたスマートフォンをズボンのポケットにしまい込み、あらためてベンチに座り直した。
つき合っているコと連絡でも取り合っていたのだろうか。頭の片隅でなんの気なしに思いながら、
「お目当てのスイーツ、見事に全部売り切れだったの。だから、コーラ一本だけ。ちょうど喉が渇いてたし」
「昔っからコーラ大好きマンだったよな、おまえ」
「そんなことないよ。それに、正確にはマンじゃなくてウーマンじゃないかな、黒石くん」
「白石だっての!」
こんなくだらないやり取りを何度か交わしたあと、ボクは白石くんの左隣に、大人一人分の距離を置いて座った。目の前には、偉く寂れた景色が広がっている。
幹線道路沿いに建てられたこのコンビニから眺める夏の夜は、まさにザ・田舎だった。自動車は一分に数台しか通らないし、町の明かりは点々としていて頼りない。辺りではケラの鳴き声が響いているだけの、そんな地方都市の一風景。
「で、真夏と何があったんだ?」
元軟式野球部ピッチャーでキレのあるストレートを得意としていた白石くんは、いつだって直球だ。回りくどいことをしない。
白石くんの直球を真正面から受け止めたボクは、すぐに直球を投げ返す。
「真夏ちゃんにね、彼氏ができたみたいなの」
「……そういうことか」
「うん。しかも、つき合い始めてもうすぐ半年になるんだって。ボク、今日までなんにも知らなかった」
直後生まれた沈黙を埋めるため、ボクは手元の特保コーラに手を伸ばした。キャップを開けた途端、プシュッという小気味良い音が、夏の気だるい空気に溶けた。
「おまえ、真夏のこと好きなんだろ?」
特保コーラ独特の甘味と弾ける炭酸を口いっぱいに感じてから数秒、遠くのアスファルトに視線を向けたままの白石くんが、不意に尋ねてきた。
あらためて聞かれるようなことでもないよなあ、などと思いつつ、けれどもボクは律儀に答える。
「好きだよ。大好き」
「このままでいいのか?」
「え?」
「気持ちを押し殺したままでいいのかって聞いてんだよ」
「それは……」
要するに白石くんは、ボクに真夏ちゃんへの告白を促しているのだろうか。
告白――考えたこともなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。胸の内を打ち明け、好きです、と伝えたところで結果は見えている。ボクの告白によって今の関係が崩れてしまうくらいなら、真夏ちゃんの輝くばかりの笑顔が見られなくなってしまうくらいなら、このままでいいと思った。きっとどこかでそう思っていた。
「どうせ振られるって、そう思ってるんだろ?」
図星だった。
視線の先の白石くんは、相変わらず遠くのアスファルトを見つめている。シンプルなデザインのシルバーピアスが、左耳できらりと輝いている。いつの間に開けたのだろう。練習中に右肘を痛め、今年の春に軟式野球部を退部してからというもの、彼の容姿はなぜか日に日に派手になっていた。
やがてたっぷりと間を置いたところで、白石くんが急にこちらに向き直った。切れ長の涼しげな瞳、通った鼻梁、シャープな輪郭。その嫉妬してしまうほどに整った顔は、まさしく真剣そのものだった。去年の冬、真夏ちゃんへの気持ちを打ち明けたときとまったく同じ表情を浮かべていた。
ほんの少し、本当にほんの少しだけ彼のその表情にドキリとしてしまい、けれど、
「振られてこいよ」
「はあ?」
「題して、当たって砕けろ大作戦」
「……もういい」
「ちょっと待てって!」
白石和生、十七歳。なんて無神経な男なのだろう。
ボクはコンマ数秒のうちに険のある表情を作ると、ほとんど自然にベンチから腰を上げていた。そんなボクを慌てて制止する白石くん。そして次の瞬間、彼はいつになく熱っぽい言葉をボクに向けて吐露した。
「マジな話、本当にこのままでいいのか? 確かに、告白なんてしなければ今の生温い関係を続けられるだろうよ。高校卒業まで、いや卒業後もきっと。でもさ、俺に言わせてみれば、それは逃げだね。ああ、何度でも言う。それは逃げだ。人を好きだっていう気持ちに男も女も関係ないだろ? なあ、小秋。おまえはどう思う?」
直後、茶化されているような気がして腹立たしくなってしまった数秒前の自分を猛省した。この人は真剣だ。至って真剣だ。
確かに、白石くんの言うとおりだった。人を好きだという気持ちに男も女も関係ない。でも――ああ、駄目だ。ボクのネガティブは通常営業中らしい。
「白石くん」
「ん?」
「ありがとね」
告げ、特保コーラを手に取り、今度こそ立ち上がる。
ちょっと一人になりたい気分だった。一人きりで、自分自身と嘘偽りなく向き合いたい。そう思った。
「近々メールするよ。何か進展があったら必ず報告する」
「……了解。なんつーか、知ったような口利いて悪かったな」
「ううん、大丈夫」
何が大丈夫なのか、自分自身にもよくわからなかったのだけれど。
白石くんと別れたあと、ボクは真夏ちゃんのころころと変化する表情を頭の中に映し出しながら、自宅までの道のりを伏し目がちに歩いた。一歩一歩と歩を進めるたびにスカイブルーのクロックスが、熱を溜め込んだアスファルトとこすれる音がした。
風船のように日々膨れ上がる真夏ちゃんへの気持ちは、いよいよ自制が効かなくなってきている。告白という選択肢は存在していなかったけれど、彼女に恋人ができてしまったことにより、そして何より白石くんとやり合ったことにより、ボクは自分自身の意識の変化を徐々に自覚し始めていた。
道中、何気なくコンビニを振り返ると、もうそこに白石くんの姿はなかった。店内から漏れる安っぽい照明が、ただただ寂しげに田舎の夜を照らしていた。