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挿絵(By みてみん)挿絵(By みてみん)

「どうして優しい人ほど早死にしちゃうんだろうね」


 と真夏(まなつ)ちゃんが悲しそうな顔をしてつぶやいたとき、ボクは少しだけ考えたふりをして、


「うーん、どうしてなんだろう」


 と呑気な口調で答えた。


 ローカルテレビ局の美人気象予報士が、昨年より一週間以上も早い梅雨明けを宣言した日の午後。真っ白な陽射しが照らす、チョークの匂いに満ちた二年D組にはもう、ボクと真夏ちゃん以外に生徒の姿はない。日直を任されているボクは今、親友の真夏ちゃんを巻き込んで、放課後の業務の真っ最中なのだ。


 窓際最前列の席を二つ仲良くくっつけて、ボクと真夏ちゃんは対面した形で椅子に座っている。学級日誌に今日のクラスの様子を書き連ねているボクに、スマートフォンのニュースサイトの記事に熱視線を送っている真夏ちゃん。


 道路に飛び出した小学生を助けようとして、バキュームカーにはねられて即死した地元市内の高校球児を、真夏ちゃんは心底不憫に思っているらしい。きりりと整えられた眉毛をハの字にし、今にも泣き出しそうな顔をしている。片やボクはその哀れ高校球児の死に様を、ベタだなあ、滑稽だなあ、くらいに思いながら、目の前の美少女にじっと見惚れていた。


 冬木真夏(ふゆきまなつ)、十六歳。十二月十二日生まれの射手座O型、バストサイズはエクセレントなEカップ。真冬生まれなのに真夏と名づけられた真夏ちゃん。真夏の太陽のような後光を放つ、いつも元気いっぱいの真夏ちゃん。そんな彼女にボクは今、熾火のような恋心を抱いている。


 きっかけは本当に些細な出来事だった。


 高校入学早々、友達作りに乗り遅れたボクは、休み時間になるといつも一人、自席で文庫本を広げていた。もともと内向的かつ地味なボクの入学前の目標は、一人でも多くの友達を作ること。その年のお正月には「脱陰キャラ宣言」などと書き初めし、自室のドアに貼りつけたくらいだ。気合だけは入っていた。でも生まれ持っての性格は、やはりそう簡単に変えることはできなかった。


 結局、派手グループ、普通グループ、地味グループのどれにも属することができず、完全に孤立したボクは、ほどなく華の高校生活って奴に潔く諦めをつけることになる。一日中誰にも話しかけることなく、だからといって話しかけられるようなこともなく、ただひたすら漫然として過ぎ去ってゆく無彩色な日々。


「…………」


 七月上旬。夏休みが間近に差し迫った賑々しい教室の真ん中には、相変わらず文庫本を広げ、自分だけの世界に没入しているボクの姿があった。


 校内透明人間も板についてきたようである。


 この頃にもなるともう現状に悲観するようなこともなくなっていた。完全に吹っ切れていた。


「ねえ、春原(すのはら)さん」


「…………」


春原小秋(すのはらこあき)さんだよね?」


 休み時間終了間際のこと、その特徴的なウィスパーボイスが自分自身に向けられているという事実に気づくまで数秒かかった。


 連なる活字からいったん目を離し、恐る恐る小首を左方に捻る。するとそこにはクラス一、いや学年一の美少女と早くも噂の女子生徒が立っていた。入学初日の自己紹介で美術部に入ると宣言したクォーターの女の子。そう、その人物こそが真夏ちゃんだったのだ。


 腰の辺りまで伸びた栗色のさらさらロングヘアに、二重まぶたの大きな瞳。透けるような白い肌に、すらりと伸びた手足。そんな精巧なフィギュアみたいなパーツの一つひとつを、ボクは密かにうらやましく思っていた。


 でも真夏ちゃんほどの人気者が、ボクみたいなのっぺり顔の陰気臭いこけしカットにいったいなんの用があるというのだろう。その真意がまったくもってわからない。罰ゲームか何かだろうか。


 目を白黒させながら、動揺を隠せずにいるボクを気に留める様子もなく、真夏ちゃんは二の句を継いだ。


「それ、おもしろいの?」


 それ、とはつまり、手元の文庫本のことなのだろう。ブックカバーも何もしていない、ページの角が折り曲がった、色褪せた文庫本。ミイラみたいに痩せ細った初老の店主が、いつも暇そうにあくびを漏らしている古書店で購入した、定価百円ぽっきりの文庫本。作品のジャンルは、いわゆる児童文学。


 極めて凡庸なストーリーではあるけれど、文体がわりと好みだったので、


「う、うん……おもしろいよ」


 とボクは答えた。


「へえ、そうなんだ」


「そうそう……」


 こんなとき、普通の人間ならば、ここから自然と話題を膨らませていくのだろう。思いつつ、けれどもボクには、それができなかった。せっかく向こうから話しかけてくれたというのに。手を差し伸べてくれたというのに。


 漁港に押し寄せる大波のような自己嫌悪が、このちっぽけな身体をすっぽりと呑み込むまで、そう時間はかからなかった。


 周囲のクラスメイトたちとは一転、二人の間に四秒、五秒と重く凝った沈黙が垂れ込め、いよいよこの場から逃げ出そうとした――そのときのことだ。


「春原さんって、いっつも読書してるから、なんとなく気になる存在だったの。わたしも本が好きだから……実はずっと話しかけるタイミングをうかがってたんだ」


「え」


「おすすめの作品があったら、今度紹介してね」


 くすみ一つない真っ白な前歯を輝かせ、てらいのない笑みを浮かべた美少女。


「……了解」


 このとき、この瞬間だった。ボクが空っぽな胸の奥底に「ときめき」の四文字を自覚したのは。それは十五年の人生史上、最も強烈で、鮮烈で、どうにも自制しがたい特異な感情だった。


 こうしてボクはあまりに唐突に、単純に、純粋に、あっという間に初恋の渦に呑み込まれてしまったのだった――。


「よし、完了」


 黒板真上の壁かけ時計の針が午後四時ちょうどを指し示した頃、ボクは学級日誌の項目をすべて書き終えた。もっとも、こんなものは本来、ものの五分もあれば書き終えることができる。でもあえてそれをしないのは、一分一秒でも長く真夏ちゃんと一緒の空気を吸っていたいからだった。


「真夏ちゃん、帰ろっか」


「うん、帰ろ帰ろー」


 直後、隙間なくくっつけていた机を定位置に戻し、他愛もない話に花を咲かせながら教室を出る。誰もいない廊下を直進、一階へと続く階段を下る。第一音楽室から漏れ響くピアノの旋律、トロイメライ。


 ややあって職員室入口すぐの担任のデスクに学級日誌を届けたボクたちは、そろって校舎をあとにした。


「小秋ちゃん、これからちょっと時間ある?」


 真夏ちゃんがそんな言葉を投げかけてきたのは、A駅に入ってすぐのことだった。


 人々が交錯する東口の階段を一歩一歩と下りながら、ボクはあまり深く考えずに答える。


「うん、大丈夫だよ」


 このまま自宅に直帰したところで、お母さんに夕飯の買い出しに駆り出されるのが目に見えている。それに明日は土曜日。なんなら朝までつき合ったっていい。


「ちょっと紹介したい人がいるんだよね」


「え、誰?」


「それは……会ってからのお楽しみ」


 えへへ、と上機嫌に、そしてどこかしおらしく笑う真夏ちゃん。


 何をもったいぶっているのだろうか、このコは。思いつつも、ボクがそれ以上の詮索をすることはなかった。紹介される相手が男だろうが女だろうが、宇宙人だろうが異世界人だろうが、もはや誰だってよかったのだ。このまま真夏ちゃんと一緒にいられるのならば、誰だってよかった。本気でそう思っていた。


 ボクたちは駅構内の自動改札の傍に設えられた、待ち合わせスポットとしてよく利用されるイルカを模したオブジェの前で、その人物を待ち続けた。


 五分、十分、十五分……。


 しかし、どういうわけか、一向に現れる気配が見えない。こんなかわいい女子高生に待ちぼうけを食わせるだなんて。いい度胸だ。相手はいったいどんな奴なのだろう。


 ちらりとうかがう真夏ちゃんは、先ほどから熱心にスマートフォンの画面を見つめている。


「まなったーん」


 結局、その人物がボクたちの前に現れたのは、約束の時間からニ十分が過ぎた頃だった。


 へらへらと笑いながら、悪びれた様子もなく歩み寄って来た二十代半ばくらいのサーフ系男を、真夏ちゃんはいつになく糖度の高い声で「ジョーくん」と呼んで、心底嬉しそうに出迎えた。その両目は心なしか潤みを帯びていた。飼い主を待ちわびた小型犬のような、出会ってから今まで一度だって見たことのない表情が、そこにあった。


 ジョーという、そのいかにも軽薄そうな男にそこはかとない嫌悪感を抱いてから間もなく、真夏ちゃんのグロスで濡れた唇から衝撃的な一言が発せられた。


「紹介するね。わたしの彼氏のジョーくん」


「ども、城ヶ崎(じょうがさき)っす。よろしく」


 男が肩まで伸びた艶のない金髪を掻き上げながら、この世の終わりみたいなウインクを一つ。


 瞬間、三百デシベル超えの凄絶な轟音と共に、世界はボクの足元から真っ二つに裂けたのだった。


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