8:「解読」
森を抜けた俺たちは、緑豊かな平原を歩いていた。
還らずの森を西に脱け出したところにある、ユグノ平原だ。
湿っぽい陰鬱な空気に支配されていた常夜の森とはうって変わり、ここは風が心地よい。
視界を遮るものは何もなく、はるか遠くの山々まで見通せた。
「これから、ゼロ様のご友人の元へ向かうんですよね?」
あれからティアは俺のことをゼロと呼ぶ。
元聖女。
イリス・ラフ・アストリア。
ご友人……というよりは腐れ縁なのだが、説明し出すと長くなりそうだったので、俺はそうだと頷いた。
「そうだが、どうかしたのか?」
「ご友人の元へ、直接向かうのですか……?」
ティアは、何故か心配そうに呟く。
不安の原因はよくわからなかった。
だが、俺はとりあえずティアの不安をやわらげようと、笑顔で答える。
「いいや、ティア。残念だが昔馴染みが住んでるところは、ここから山を三つほど超えなくちゃならない。今日は取り敢えず、あそこの町で休もうと思う」
遠くを指さす。
指の先、豆粒みたいに小さく浮かび上がる、町。
ぽわぽわと煙突から上がる煙が、ここからでもよく見える。
俺がそう言うと、安心したように、顔をほころばせるティア。
「……よかったです。ゼロ様、あまり顔色が優れないようなので」
今日はゆっくり休んでください。
俺をほんの少しだけ追い抜き、ティアは笑顔でそう付け足した。
後ろ手を組んで、太陽みたいな眩しさで、俺を振り返る。
そう言えば。
最後にベットで寝たのは、一週間以上前だ。
おまけに、何も食ってない。
若返ってから、疲れが吹き飛んだように感じていたが、顔にはしっかり出ていたか。
「ありがとう」と礼を言って、櫛を通すように、黒い髪をそっと撫でる。
ティアは「えへへ」とにんまりしながら、どこか誇らしげだった。
「あ……!」
身体を預け、心地よさそうに頭を撫でられていたティアが、不意に小さな声を上げる。
小さな体で背伸びをし、目を凝らす。
口に手を当てて、何か良くないものを見たように、深刻そうな顔をする。
「どうかしたのか」
「……小さな池のほとりに……人が倒れています」
ティアの指さす方向に目を凝らす。
ここから、数十メートル程先。
平原にぽっかりと口を開けている溜池。
池に下半身を沈め、蹲るように倒れている男。
そして、半分ほど顔を出し、池の中に沈んでいる馬車。
逃げ出したのか、馬車を引くはずの馬はどこにもいなかった。
一目見ればわかる。
賊に襲われたのだ。
「ティア、少しそこで待っていろ」
「あっ!」
俺は、男の方に向かって草原を駆けた。
馬車が賊に襲われることは、この世界ではありふれている。
積んである荷物だけを奪って、持ち主を殺す。
そんなことも、そう珍しいことではない。
……生きていると、いいのだが。
「おい、大丈夫か!」
池から男を引っ張り上げ、耳元で叫ぶ。
口ひげを蓄えた恰幅の良い男は、意識を取り戻したのか「……うう」と力なく返事をした。
良かった、まだ生きてる。
暴行を受けたのか、顔は大きく腫れ上がって いて、頭には凸凹とコブが出来ていた。
だが、幸い命に別状はなさそうだ。
よかった。
「……あんた、旅の人か」
腫れた瞼を何とか持ち上げ、男は弱弱しく尋ねる。
俺は「そうだ」と返事をした。
「馬車の中に……娘が……しかも奴ら、呪いを……」
悔し気に、そう語る男。
顔を歪め、拳を硬く握りしめる。
呪い、だと。
「一生のお願いだ……町まで……医者を呼んできてくれないか……エルサだったら、治せるはずだ…頼む、俺の、大事な大事な一人娘なんだ……」
「少し、待っていろ」
「ありがとう、恩に着る……っておい、どこに行くつもりだ!やめろ、あの魔法陣の形状は、素人がどうこう出来るもんじゃねえ!」
男を芝生に寝かせ、俺は馬車へと足を急いだ。
呪いを受けたのであれば、いち早く治療するのが望ましい。
ここから町までは、まだ結構な距離がある。
マナで加速すればそう時間はかからないだろうが、それでも、五分はかかるだろう。
であれば、俺がするべき選択は一つ。
溜池に足を踏み入れ、水をかき分け進む。
馬車に手をかけ、反動を使ってよじ登る。
暖簾を開けると、中の壁に寄りかかるようにして、ポニーテールの少女が弱く息をしていた。
やはり、すぐに駆けつけて正解だった。
脈が、かなり弱くなっている。
一分一秒を争う状況だ。
おそらく、相当強い呪いをかけられたのだろう。
肩のはだけた白のブラウス。
露出した、右肩部分に見え隠れする魔法陣。
勿論、リシアの時ほどではない。
だが、これをかけた相手は、少なくとも魔法使いとしてはB級以上だろう。
確かに、素人にどうこうできるものじゃないと取り乱す男の気持ちは、よくわかる。
「……少し、失礼するぞ」
汗をかきながらうなされている少女に、そう断る。
ボタンを一つ一つ外し、ブラウスを丁寧に脱がせる。
露わになる、すらりとした少女の身体。
日に焼けた跡がくっきりとしいる、健康的な肌。
けれど今は、血の気が引いているのか、全体的に青白い。
少女は薄く目を開け「……エルサ……さん?」と呟いた。
どうやら、意識が混濁しているらしい。
「残念だが、俺はエルサじゃない。だが、お前は必ず助かる。安心しろ」
「……だめ……です……この呪いは……エルサさんじゃないと……」
「いいから、じっとしていろ」
再び、瞼に重い蓋がされる。
うなされる、少女。
「――解読」
少女の素肌に掌を重ね、魔法陣の暗号を解読する。
痛みが走ったのか、顔を歪め、じっとりと汗をかく少女。
「――第一ロック……解除」
形を変える魔法陣。
複雑な呪印が、簡素な模様に変化する。
こまごまと薄明かりが差し込む馬車が、青の光に包まれる。
「第二ロック……解除」
小さく声を上げ、少女の身体がびくんと跳ねる。
ギシリと軋む馬車。
さっきは死人のように青白かった肌も。
弱々しかった呼吸も。
だんだんと、生気を取り戻す。
「第三ロック……解除――解読終了」
魔法陣が、消える。
少女の身体を蝕んでいた呪いは、完全に消滅した。
薄っすらと目を開ける少女。
桜色の唇で、小さく言葉を紡ぐ。
薄茶色の瞳には、驚きがにじみ出ていた。
「……身体が、とても楽に……あなたが、これを?」
「ああ、もう少し遅れていたら危なかったぞ」
少女に微笑みかけた時。
馬車はぐらりと大きく揺れる。
そして、男の怒鳴り声。
後ろから響く、ティアの嘆き。
「おい、小僧!うちの娘に何してやがる……!」
「あわわ、まだあんまり動いちゃだめです!」
物凄い剣幕で、馬車に上がり込んでくる男。
溜池の前で、おろおろと佇むティア。
待っていろと言ったが、心配になって飛んできたらしい。
男の看病をしてくれていたのだろう。
目が合った俺は、やれやれと苦笑いで答えた。
「おいてめえ、うちのサクラに何やってんだ!」
胸倉を掴み、吠える男。
「お父さん、違うの!」
前に飛び出し、俺を庇う少女。
元気に動く娘にあっけを取られたのか、男の表情が困惑の色に包まれる。
「お……おい、お前、呪いは……」
「……この人は、私を助けてくれたの」
光が漏れる、馬車の隙間。
涼やかな風が、吹き抜けた。