58:「懺悔」
「……で、話とはなんだ?」
周囲に誰もいないことを確認して、俺はアリスにそう尋ねる。
あれから俺達は孤児院を裏口から出て、裏庭に降りた。
きっと他の人には聞かれない方がいいと思い、俺が場所を変えようと提案したのだ。
朝の空気はまだひんやりとしていて、アリスは少しだけ寒そうに、手のひらは摩っている。
「……実はね、ずっとお兄ちゃんたちに黙っていたことがあるの」
「なんだ?」
「……なんだと思う?」
アリスは困ったように笑う。
一見冗談のような発言だが、少女の手は僅かに震えていた。
「愛の告白……というわけじゃなさそうだな」
緊張を解いてやろうと、俺は冗談めかしてそう返事をした。
アリスはきょとんと目を丸くした後、頬を緩ませる。
「うーん、どうだろ。……きっとアリスはお兄ちゃんが好きで、これ以上お兄ちゃんに隠し事をすると嫌われるような気がして……だからこうして話をしようと思ったのかも。だからまあ、愛の告白みたいなものだよ、多分」
そう話すアリスは、少しだけ照れくさそうな笑みを浮かべていて。
けど、声は少しだけ不安げに震えている。
アリスは大きく深呼吸し、俺の瞳を真っすぐに見つめた。
ぎゅっと唇を噛み、それから視線を逸らすようにやや俯きになって、
「……実はね、ティアお姉ちゃんのペンダントを盗んだのは、偶然じゃないの」
と、押し殺した声を発した。
俺は黙って、少女の告白だけに耳を傾ける。
「アリスはね、お姉ちゃん達が吸血鬼だってわかった上で、あのペンダントを盗んだの」
金色の髪は、朝の風にそよぐ。
斜め下を向いたまま、アリスは俺と目を合わせようとしない。
「危ない目に遭うってわかってたのに、わざとペンダントを盗んで、あの場所まで連れて行ったの。要はね、お姉ちゃんたちを、路地裏までおびき寄せたの。吸血鬼だってわかってて、吸血鬼を探していた男達の元まで、連れて行ったの」
さっきまで頬を緩ませていたアリスの表情は、だんだんと強張っていき。
震えるか細い吐息が、朝の空気に溶ける。
「……アリスはね、とっても悪い子だったんだよ。ごめんねお兄ちゃん……お姉ちゃん。あんなに優しくしてくれたのに。……本当に、ごめんなさい」
今にも泣きだしそうな顔をしながら、アリスは何とかその涙をこらえるように、強張った笑顔を作る。
「俺達が吸血鬼だって、どうしてわかったんだ。鑑定するにしても、あの人混みでは一人一人判別するのは困難だろう」
「……アリスもね……聖女様みたいに、視えるの。勿論、イリス様ほどではないけれど……なんとなくね、その人が何者なのか、何を考えているのか……わかっちゃうの」
俺から視線を外し、少女は申し訳なさそうに返事をする。
アリスと話している時、まるで心を読まれているような感覚に陥ることがあった。
だが、例えぼんやりとだとしても、他人の心を感じることが出来るレベルで鑑定魔法を使用出来る人間は、エメリアにも精々数人だ。
なんとなく、予想はしていた。
だが、実際にそうですと言われると、やはり驚きを隠しきれない。
「……驚いたな」
「お兄ちゃんたちが吸血鬼だってわかってて、アリスはあの場所までお兄ちゃんたちを連れて行ったの。連れて行けば、お兄ちゃん達がどんな目に遭うかもわかってて、それでも、お兄ちゃん達を連れて行ったの。お兄ちゃん達が強かったから無事で済んだけど、もしそうじゃなかったら……ごめんね、お兄ちゃん……本当に、ごめんね」
アリスは、泣きそうな顔で笑った。
俺から視線を外すように少女は俯きながら、謝罪の言葉を繰り返した。
「……アリスは、あの銀髪の女の人のね……仲間だったの。吸血鬼を探してこいって言われてたから、お兄ちゃんたちを見つけてね、しめしめと思って」
……アリスがルーシェの仲間、か。
二人が何らかの形で繋がっているのは、予想していた。
そうでなければ、どうしてルーシェがあの城にいるのか、アリスが知っているはずがない。
「……最低なことをしたのに、お兄ちゃんたちが強いってわかったから、手のひらを返して連れて行ってくれなんて、虫が良すぎるよね。……本当に、ごめんなさい」
そう言い切り、アリスは黙ってしまった。
これが全ての真実ですと、言葉には出さなくても少女の態度はそう言っていた。
本当にそうなのか、アリス……それが、真実なのか?
お前は初めからルーシェの手先で、俺達はずっとお前に騙されていたのか?
――悪いが、俺はそうは思わない。
「……なあアリス。俺はイリスやお前みたいに、他人の心が見えるなんて便利な目は持っていない。だから今から言うことは、全部推測だ」
後ろ髪を掻きながら、俺は空を見上げた。
早朝の空はまだ色が薄く、雲がまばらに流れている。
「ついこの間も、今のお前みたいな顔で笑う女の子を見た。見え透いた嘘を自分にとって真実なんだと、強がった表情で笑う女の子だった」
サクラを思い出しながら、俺はアリスに語り掛ける。
しゃがみ込み、少女と目線を合わせる。
「アリス、お前は俺達を路地裏までおびき寄せた、と言ったな」
「そうだよ。アリスはね、お兄ちゃんたちが吸血鬼だってことを知っていて――」
唾をごくりと飲み込んで、発現を肯定しようとするアリス。
俺は首をゆっくり左右に振った。
「……それはおかしいんだよ、アリス」
「どうして?」
そう、アリスの発言には決定的な違和感が存在する。
それは――
「――何故なら俺達は追いかけている最中、一度お前を見失ったんだ」
アリスがティアのペンダントを盗んだ後、俺達は人混みをかき分けていくアリスを見失った。
路地裏まで辿り着けたのは、俺のマナを探知という特殊能力のおかげだ。
つまり、もし仮に俺が普通の吸血鬼であったならば、アリスの元へは到達できなかったことになる。
だからこそ、俺達をおびき寄せるためにペンダントを盗んだというアリスの主張は矛盾している。
「……もし本当に俺達をおびき寄せようとしたならば……お前は俺達の視界から消えてはいけないはずなんだ」
俺の返答に、アリスは押し黙ってしまう。
両手に造られた握りこぶしが、小刻みに揺れていた。
なあアリス。どうしてお前はそんな……自分を責めるような嘘を吐くんだ。
背負わなくていいものまで、背負おうとするんだ。
そう考えて、ついさっき自分がイリスに同じことを言われたことを思い出し、俺は心の中で苦笑いを浮かべた。
「……けれど、お前の主張が全部嘘だとは思わない。……俺達が吸血鬼であることがわかり、おびき寄せようとペンダントを盗んだ……ここまでは多分、本当なんだ」
そう、恐らくここは真実なんだ。
アリスは俺達が吸血鬼であることに気付いた、そしておびき寄せようと、ペンダントを盗んだ。
問題は、この後だ。
「だが、お前は盗んですぐ後悔した。だからこそ俺達を引き離そうと……路地裏まで連れて行かないように、全力で走ったんだ」
アリスは優しい子だ。
きっと走っている最中、自分の冒してしまった罪の大きさに気付いてしまったのだろう。
だからこそ、俺達を何とか引き離そうと、あえて地元民にしかわからないような複雑な経路を選んだんだ。
「だが、どういうわけか俺達はお前に追いついてしまった。わざわざ複雑な経路を辿って絶対に追いつけないようにしたのに、俺達は路地裏まで辿り着いてしまった」
それは、アリスにとって誤算だった。
せっかく追いつけないように、俺達を傷つけないように必死にもがいたのに、それが失敗に終わったのだ。
だがアリス……それは、お前が背負う必要のないものだ。
「……なあアリス……そろそろ、真実を話してくれてもいいんじゃないか。……今まで、沢山辛いことがあったんだろ? それくらい、俺にだってわかるよ」
初めて会った時のお前は、昔の俺と同じ目をしていて。
だからこそ、お前を放っておけなかったんだ。
『なあ、坊主。お前は人に頼らないことを……何もかも自分一人で抱え込んで、周りに対して平気な顔をしておくことを、強さだと思ってるだろ。だったら、それは間違いだぜ。……それはな、強がりって言うんだよ』
養父の言葉を思い出す。
同時に、あの頃から何も変わっていない自分自身に、俺は心の中で自嘲の笑みを浮かべた。
だけど、俺はこの生き方しか出来ないんだ。
俺は強がりしか出来ない。……イリスに言わせると、不器用なんだろうな。
だけどな、アリス。
お前まで、こっちに来ることはない。
「……城で写真、見たよ。……安心しろ、お前の仇は取った。もう、ルーシェはいない」
俺は優しく抱擁するように、アリスを抱きしめた。
幼い少女の身体は、手足は、棒きれのように痩せていて。
俺は果てしなく広がっている空をやるせなく見つめながら、震える少女の背中をさすってやる。
「……もう、お前が苦しむ必要はないんだ。……強がらなくても、誰かに甘えてもいいんだ。それは決して弱いわけじゃない。なあ、アリス」
微笑みながらアリスの髪を優しく押し撫でてやる。
俺の方を見上げた少女の瞼からは、大粒の涙が止めどなく溢れ出していた。
それは、俺が随分昔に失くしてしまった、とても大切なもので。
そっとそのきらきらした雫を指で拭ってやると、決心がついたように、アリスは涙に濡れた瞳で俺の方を真っすぐに見つめた。
そこにいたのは、さっきまでの強がった少女ではなく、年相応の女の子だった。
「……ずっと、見張られていたの」
辛そうに声を震わせながら、アリスはそう切り出した。
俺は無言で少女の言葉に耳を傾ける。
「……きっかけは二年前、アリスがちょっと難しい病気になったこと……治療法を探そうと、私のお爺ちゃんは、昔の知り合いに……たくさんたくさん相談したみたいで……そうして最終的に……あの女がやってきた」
アリスは、なおも言葉を紡ぐ。
「……私の治療と引き換えに、あの人は色んなことを要求してきて……それで……それで……」
「辛かったな」
「……多分、あの人からすれば、遊び半分だったんだと思う。別に、アリス達じゃなくても、あのお城じゃなくても、良かったんだと思う……あの頃、あの人たちは偶然実験場を探していて……それで、丁度お爺ちゃんが相談に来て……」
アリスの祖父は、不正を許さない潔癖な男だと聞いていた。
それが、わざわざ黒い鷹に相談を持ち掛けるんだ。よほど、孫のことが心配だったのだろう。
だが、悪魔との取引は、大抵上手くいかない。
……アリスの祖父は人生の終わりに、高過ぎる授業料を払わされることになったのだ。
「……結果的にアリスの病気は治ったんだけど、お爺ちゃんもお婆ちゃんも……お父さんも……お母さんも……」
「……全部は、言わなくていい」
腕の中で震えるアリスの身体を、俺は強く抱きしめる。
こんなことが、許されていいのか。
いや、許されていいはずがない。
「……吸血鬼を見つけてくれば、両親を生き返らせてやるって言われて……必死だった。毎日毎日探し回った……けど、私馬鹿だよね。死んだ人が、生き返るはずないんだもの。それに、あいつが嘘を吐いているのも分かってた。……生き返らせてくれる気なんか、これっぽっちもないことも。でも、その時のアリスは何かに縋りたくて……それで」
声を震わせるアリス。
腹の底から、激しい怒りが込み上げる。
この子が一体何をした?
こんな小さな身体で、どうして大人でも耐えられないような理不尽と必死に戦わなくてはならないんだ。
「お兄ちゃん達を見つけた時、本当に嬉しかった。これで、やっと私も幸せになれるって……でも、やっぱりアリスは馬鹿だ。そんな誰かの不幸を土台に築いた幸せなんて、ちっとも……ちっとも欲しくなんてなかったのにッ!」
わかっている。
アリスのような子が――決してゼロにはならないこともわかっている。
だが、それでも俺は――――。
俺は、幼い少女の身体を抱きしめる。
頭上には青々とした空が広がっているのに、アリスの足元には、ぽつりぽつりと、悲しみの雨が降る。
「アリスが病気にならなければ、きっと……きっと……お父さんやお母さんだって……」
「……お前は悪くない。そんなもの、お前が背負う必要はない」
「……もしかしたら、イリス様だって……連れ去られなくても……済んだかもしれないのに……全部全部……アリスのせいで……」
泣きじゃくる少女の口からはとめどなく後悔の言葉が溢れていき、アリスの身体をズタズタに切り裂いていく。
やめろ、アリス。これ以上……そんな悲しいことを言わないでくれ。
「……それは違う。お前に責任はない」
「……けど……けど……」
そうやって、鼻をぐずぐずと鳴らしながら、アリスが首を左右に小さく振っている時だった。
「あー、もう! 辛気臭いったらありゃしないわ!」
癇癪を起したような叫び声とともに、裏の戸口が勢いよくバタリと開いた。
そこにいたのは、さっきまで子供たちに揉みくちゃにされていた、イリスだった。
イリスは早歩きでこちらまで来た後、アリスを見下ろしながら、大きくため息を吐く。
「……イリス」
「ほんっと、あなたって口下手ね……セリフはいちいちカッコいいんだけど、回りくどいったらありゃしないわ。まあ……そこが好きなんだけど」
イリスは少し赤くなった頬をポリポリと掻く。
俺は「すまん」と苦笑いを返す。
イリスは、アリスと目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「さっきから自分のせいだ自分のせいだって……後悔ばっかりして……まるで、ちょっと前の誰かさんと一緒」
ちょっと前の誰かさん……それはお前のことか、イリス。
アリスは涙でぐしゃぐしゃになった顔で、イリスを見つめ返す。
「……けどアリスは……アリスのせいでみんな不幸に……」
「あーもう。またそうやって自分を責める」
「だって……」
「本当に反省が必要な時はね、他人がちゃんと責めてくれるの。ねえ、アリス。あなたの両親は、お爺ちゃんやお婆ちゃんは、あなたのことを責めた?」
イリスは安らかな微笑みを浮かべ、アリスにそう尋ねる。
少女の瞳から、堰を切ったように再び大粒の涙が溢れ出す。
「……うう……ん……責めなかった……ごめんね……って……一人にして……ごめんね……って……」
「ほらね。ねえ、そこの口下手のお兄さん。あなたはアリスのことを憎んでる?」
「いいや、全く」
イリスは満足気に笑みを浮かべた後、戸口の方に声を張る。
「……さっきから影でこそっと見ているそこの嬢ちゃんは、どう思ってる?」
「……!」
その声に反応して、先ほどイリスが登場した扉から、少し申し訳なさそうにティアが現れる。
……お前もいたのか。
俺は苦々しく笑いながら、少女の方を振り返った。
「すみませんお兄様……盗み聴きするつもりではなかったのですが……」
「ああ、もう。いいのよそんなことは。……それより、どう思ってるの?」
「……私も、アリスちゃんを責める気は全くありません。私はアリスちゃんが好きです。どんな事情があろうとも、それだけは変わりません。だから、安心してください」
イリスは嬉しそうにうんうんと頷いて、再びアリスと視線を合わせる。
「これでも、まだ自分を責める?」
アリスは、無言でイリスを見つめ返す。
「ま、安心しなさい。そうやって誰かのために死ぬほど後悔出来るような優しい子はね、きっと最後には幸せになれる。世界はそういう風に出来ているの」
「……本当?」
「ええ。どんな物語だってそうでしょう? どんな物語でもね、主人公は最初不幸だって決まってるの。……けど、最後には幸せになる。だから、あなたも大丈夫。いつかあなたを幸せにしてくれる人が、きっと現れる」
「……アリスを、幸せにしてくれる人……」
「そうよ。ま、それまでは気長に後悔していなさい。いつか、辛い過去が笑い話に変わる日が、きっと来るから」
そう言って、アリスを優しく抱き寄せる。
アリスはその後もしばらく泣き続けたが、その表情はまるで憑き物が取れたように、どこか清々しさを感じさせた。
優しい子は、最後には幸せになる。世界はそういう風に出来ている。
それは、とても甘く美しい……嘘だ。
苦労者が報われるのは物語の中だけの話で、現実はそう甘くはない。
優しい弱者は、非情な強者の食い物にされる。
それが、この世界の現実だ。
そんな風に死んでいった者を、俺は数えきれないほどこの目で見てきた。
「……本当に本当? アリスも……いつか幸せになれる?」
「ええ、本当よ。そこにいる、口下手なお兄さんにも訊いてみなさい」
アリスは濁りのない純粋な瞳で、俺の方を見上げる。
「……お兄ちゃん……本当?」
「ああ、本当だ」
……例え、今は嘘でも。
俺がこの嘘を――真実に変えてやればいい。
「……お兄ちゃんがそう言うなら、間違いないね」
「ああ……俺は嘘を吐かない」
俺は、少女の笑顔を胸に刻み付ける。
この笑顔を、裏切らないように。
この笑顔を、忘れてしまわないように。
「……お兄ちゃん……ありがとう」
アリスのように悲しい涙を流す子どもが、いつかゼロになるように――




