56:「アインハルト」
闇が深く入り込む樹海に、小柄な女の子が一人佇んでいた。
髪色は夜の闇でも目立つピンクで、赤いリボンで二つに結んでいる髪型はツインテール。
年齢は、十歳くらいだろうか。右手には銀紙に包まれたチョコレートを握っており、少し不機嫌な表情でぼりぼりとそれを貪り食っている。
その表情と、忙しなく動かされる右足から、どうやら誰かを待っているのだということがわかる。
「……遅いわね」
少女がボソリと呟いた数分後、森の奥から長身の男が現れた。
獣のように鋭い眼力を周囲に光らせながら、黒服の男はゆっくりと少女の方へ近寄ってくる。
「……遅いわよ、アインハルト!」
「面目ない」
男は表情を一切変えず、少女に向かって謝罪をする。
ピンク髪の少女は尚も不機嫌そうに、大口を開けてチョコレートに噛みついた。
「もう、待っている間に五枚も食べちゃったじゃない!」
よく見ると、少女の足元にはチョコレートを包んでいたはずの銀紙が散乱している。
少女はその中の一枚をふんと踏みつけた。
「……明日食べる分が無くなっちゃったわよ! どうしてくれるの!」
「面目ない」
男は相も変わらず、無表情を貫く。
少女はその態度にげんなりしたような表情を浮かべた後、大きなため息を吐いた。
「……あんたに何を言っても無駄だったわね……期待した私が馬鹿だったわ」
「……面目ない」
「あ、今ちょっとだけショックだった?」
瞳を少しきらきらと輝かせる少女に、長身の男は相も変わらず無表情を貫く。
「……いや、別に」
「つまんないの……本当に、感情のない男ね。まあ、そのおかげで効かないんだけどね――」
――聖女の心眼が。
「ほんっと、ルーシェ・ディオラシ・ストリリバーも馬鹿だよねー。見張られていたとは知らず、ずっと傀儡の術で操った気でいたなんて。ま、死んだのは自業自得……かな?」
ツインテールを左右に揺らし、少女は冷たい笑みを浮かべる。
そんな彼女を黒に染まった瞳で見つめながら、アインハルトは口を開いた。
「……武人としては、有能な女だった。彼女が死んだのは、少し惜しい」
「あら、あなたがそんなことを言うだなんて、珍しい」
少女は目を丸くして、アインハルトをまじまじと見つめた。
その言葉に嘘や飾りはなく本心から言っているのが、表情からも見てとれる。
そのまましばし見つめ合った後、少女は「で、」と口を開く。
「……どうしてその有能なルーシェがやられちゃったの? おまけに聖女様まで奪われて……犯人は誰なのよ」
アインハルトは少女の方を向き直り、感情の見えない瞳で、小柄な女の子を見下ろした。
二人の身長差は優に五十センチ以上あり、片やロリータファッションが似合いそうな可愛らしい少女と、不愛想で、何を考えているのかわからない無表情の男は、ギャップが激しい。
町で見かけようものなら、さながら誘拐犯とその被害者に間違えられそうでもある。
長身の男は、つんと上を見上げながら回答を待つ少女に向かって、ゆっくりと口を開いた。
「……ジークフリードが、生きていた」
瞬間、少女の表情は一変する。
手に持っていたチョコレートは、真っ逆さまに地面へと落下した。
「――――なんですって」
「……確定ではない。だが、ほぼ間違いないだろう。あの太刀筋……やはり奴以外には考えられない」
「……それが本当なら……よく生きてここまで帰ってこれたわね」
「幸運が重なった。……神に感謝せねばなるまい」
「でも、それじゃ早くボスに知らせないと――」
その提案を否定するように、長身の男は少女の前に手のひらを重ねる
「なによ、アインハルト。……まさか、ボスに逆らおうって気?」
「……ジークフリードは吸血鬼だ」
アインハルトは低く唸るような声で、少女にそう告げた。
それを聞いて、少女は再び顔色を変える。
「……なるほど、あなたの考えていることがわかったわ。けど、そう上手くいくかしら?」
「俺達が従っているのは何だ……マフィアのボスか? ……いいや、神だ」
「……わかったわよ。とりあえず、あなたの案に乗るわ」
少女はやれやれと左右に首を振りながら、ため息を吐く。
そして、自身の右手にチョコレートがないことにようやく気付き、悲鳴にも似た叫び声を上げた。
☆★☆
「人間がエルフになることはなく、また、ドワーフになることもない……生まれてから死ぬまで、人種が変わることはない。それは、当然の摂理」
謁見の間に設えた玉座に、一人の男が優雅に腰を下ろしている。
闇の中、灰色の髪に深い蒼の瞳が、妖しく光を放つ。
「ですが唯一の例外が存在する。それが、吸血鬼」
玉座に装飾された水晶を手のひらで遊ばせ、男は唇の端を釣り上げる。
「吸血鬼は、血を吸った者を吸血鬼に変えてしまう……まるで魔法にでも掛けられたように、一夜のうちに、人間を化物にしてしまう」
男は不気味に笑みながら、何もない虚空を見上げた。
「人間とよく似ていて……けれど異なる摂理で生きる……さて、吸血鬼とはいったい、何者なのでしょうね?」