52:「意図」
たった今目の前で起こった出来事に、ルーシェは驚愕していた。
組み上げてきたはずのパズルが、崩壊した気分だった。
少年の剣戟に肉塊と化した金髪の男――ベルギウスは、間違いなくA級の魔法使いだ。
対して黒髪の少年は、結界で感知したマナの通り、せいぜいC級が良いところ。
番狂わせなど、万が一にも起こりえない。
ルーシェは、結界に特殊な細工を施している。
それは、結界の内部に自身の意識を滑り込ませることによって、それを解除しようとした者のマナを、探知するというもの。
つまりあの結界は、外敵を排除する防壁であると同時に、敵を鑑定する測定器でもあったのだ。
そして、今回。
結界を解除した黒髪の少年のマナは、間違いなく自然界にもありふれた、平凡な種類のものだった。
マナには使う者によって独特の色が存在し、その希少性と魔法使いとしてのランクがある程度リンクしている。
であるからこそ、ルーシェはたった今まで悠然と構えていられたのだ。
万が一にも自分が負けるはずがないと、確信を持っていられたから。
(一体、どういうことだ。あの力は、一体どこから湧いてきた)
まだ、ルーシェは気付いていない。
自身のマナを使わず、大気中のマナを使用する、傑物の存在に。
目の前にいる少年が、自身が最も恐れた相手である、ジークフリードであるということに。
「……さっきから何をぶつぶつと言っている、ルーシェ」
黒髪の少年は瞳に凍えるほどの冷たさを宿しながら、こちらを見据えていた。
全身からは、周囲の空間が震えていると錯覚を起こすほどの殺気が滲みだしていて、背後で身を潜める聖女でさえ息を呑むような闘気を辺りに振りまいている。
それは、ただの少年が纏うことの叶わない、幾度となく死線を潜り抜けた歴戦の戦士のみが発することを許される、王者の殺気。
(……こいつ……何者だ)
先ほどの剣裁きと、このオーラ。
間違いなく、ただの少年ではない。
目の前の人物は、英傑と呼ばれる種類の人間だ。
姿を隠そうとしても、必ずおせっかいな誰かが見つけ出し、国中にその名を轟かせてしまうような。
隠れて生きることを望んでも、世界がそれを許さない。
そんな、常軌を逸した天才。
(……だが、)
ルーシェの頭の中に、この少年に該当するような人物は、影も形も見当たらない。
これほどの力を持っているのだ。
思い当たる人物がいるのが、当然というもの。
しかし、記憶の引き出しをいくら探っても、このような少年に心当たりはない。
それが彼女の思考を更に混乱させる。
そして、この場でルーシェが行った苦し紛れの鑑定によって、その困惑はますます深まることとなる。
「……体内マナ、ゼロ……だと?」
天を突くような衝撃に、思わず唇から声が漏れ出る。
理解不能な事実に思考が漂白され、時が止まる。
相手の体内マナを読み取る鑑定魔法――身体の中に眠る潜在マナの量を可視化することによって、魔法使いとしての実力を正確に測定する魔法――は、間違いなく正常に発動したはずだ。
あの少年が吸血鬼であることは既に織り込み済みだった。
だから、それに驚きはない。
しかし、体内マナがゼロとはどういうことだ。
銀髪の女は、目の前で彼女を睨み付ける黒髪の少年の背後に得体のしれない不気味さを感じ、一歩二歩、後退りする。
ルーシェはこの時まで、自身が構築した結界による測定器に、何らかの欠陥があったのではないか、と予想していた。
その欠陥によって、少年の実力を見誤ってしまったのだ、と。
しかし、事実は彼女の想定の遥か上を行く。
体内マナが――ゼロ。
それは、魔法の源であるマナが、体内に存在しないことを意味している。
つまりこの少年は、そもそも原理的に魔法の使用が不可能であるはずなのだ。
「……そんな馬鹿な……どういうことだ……ッ!」
しかしそんな原理原則など、先ほどの戦闘を見れば全くの無意味であることは明らかだ。
この少年は目にも止まらぬ速さで魔法によって具現化された剣を振り抜いてみせた。
そして、いとも簡単にAクラスであるベルギウスを亡き者にした。
それこそが、ゼロという鑑定結果が誤っていることの証明。
(一体、どんな魔法を使った……ッ!)
額からは彼女の焦りを表出するように、汗が零れ落ちる。
焦燥感と激しい困惑に、思考の回路が混乱する。
確信していたはずの勝利が、手のひらからするりと逃げ出していく。
「……ルーシェ様」
背後からの声で、ルーシェは現実に引き戻された。
長身の男。
ルーシェが右腕として絶大な信頼を置いている、アインハルト・ディス・グラードの普段と寸分変わらぬ至極落ち着いた声色は、彼女に冷静さを取り戻させた。
そうだ。
まだ終わっていない。
策は、ある。
こんな時のために、用意していたではないか。
――仮に、この時。
目の前の少年がジークフリードであることにルーシェが気付いていれば、彼女の運命は違っていたのかもしれない。
自ら築いた血の川を渡り、歴史にその名を刻んだ英雄と対峙していることに気付いていれば、彼女の最期は異なったものとなっていただろう。
結局、彼女は最後の最期まで驕りを捨て去ることが出来なかったのだ。
目の前の少年がいくら奇天烈な技を使うとしても、自分には敵わないと、どこかで見下していたのだ。
そして、
それが彼女の敗因だった。
「……ふふふ、坊や……やるじゃない」
銀髪の女は、先ほどまでの焦りを微塵も感じさせない余裕の表情で、こちらを見据えた。
俺はそんな奴の薄ら寒い表情を、冷たく睨み付ける。
ルーシェは射殺すような俺の視線を正面に受け止めながら、唇の端を釣り上げた。
「けれど、いいの? お姫様にもちゃんと注意を払わないと、王子様の名が廃れるわよ?」
双眸に狂気を宿しながら、銀髪の女は瞳を思い切り見開いた。
その瞬間、背後にいたイリスが叫び声をあげる。
振り向くと、先ほどまで背後に身を潜めていたイリスが、苦痛に身体をよじらせていた。
全身からは不気味に薄黒く発光したマナが滲みだしており、俺は一目でイリスの状況と、ルーシェの余裕の意味を理解する。
「……イリスにも、植え付けていたのか」
「ええ、勿論。さあ、剣を捨てなさい。そうしないと、この娘を殺すわよ」
呪縛。
魔法の本体がかけられた側にある呪いとは違い、ギアスはかけた相手の側に存在する。
つまり、ギアスを解除するには、かけた相手に直接解除を仕掛けなければならない。
厄介な魔法だ。
しかし、ギアスは呪いに比べ構築できる魔法のレベルが低く、強力な魔法使い相手には役に立たない場合が多い。
だが、今のイリスは魔法が使えない。
ギアスでも、十分過ぎるだろう。
もし本当に、今のイリスに魔法が使えないのだとしたら。
「わかった。……捨てよう」
俺は、魔法を解除する。
右手に握られていたブレードが、音もなく消滅した。
再び勝ち誇るような表情でこちらを嘲笑うルーシェと対峙しながら、俺はイリスの意図に、思考を巡らせた。